架空馬物語「平場の鬼と鬼武者」

@6LD

平場の鬼と鬼武者

 「平場の鬼」。そう呼ばれ早20年になる、そんな騎手が中央競馬で鞭を振るっていた。


 佐藤久智サトウ ヒサトモ、41歳。栗東所属フリー騎手。


 18歳でデビューし、新人騎手最多勝利記録である96勝を達成。デビュー日に初勝利を飾り、オープンや重賞での勝利こそ無かったものの将来の競馬界を担う程の大型新人と評された。


 その評価が覆ったのは2年目。年始から勝利を積み重ねていたものの、昨年に続きオープン戦や重賞騎乗ではどうにも勝ちきれない走りが続いていた。そして、事件が起こったのは自身初騎乗となる日本ダービー。




『3歳の若駒たちの一生一度の大舞台、東京優駿日本ダービー! 今スタートしました!』


『おっとこれは、アスナロード佐藤久智が行く行く行く! なんとこれは大逃げです! 大舞台で初の逃げ! これは大丈夫でしょうか、脚はもつのか!』


『大ケヤキを越えて4コーナー、先頭との差はもう無い! アスナロードが捕まった!』




 アスナロード、18着。敗因は誰に見てもわかる逃一杯。だが事件は更にその後に起こった。


 検量室でふらふらと下馬した佐藤に怒り顔で詰め寄る調教師の三田が、佐藤の真っ青になったその顔に驚愕する。


 そして。



「ぐっ……ぉぇ……うぇぇぇぇ」

「どわ!?」

「トモが吐いた!」

「嘘やろお前ここ検量室やぞ!」

「救護室! 救護室ー!」

「ごめんなざ……ごめ、ぉぼ……」

「喋るなアホ!」



 初年度からの輝かしい成績とそれに付する周囲からの期待、それは佐藤に極度のプレッシャーという形で襲い掛かっていた。特に重賞戦ではそれが顕著になり、凡走に繋がったのだった。


 後に佐藤自身が「頭の中が真っ白になった、何も見えなくなって、自分が何をしてるのかもわからなくなった」と語ったこの日本ダービー以降はその傾向が更に顕著になり、ある日では平場4走を4連勝で飾るも同日の重賞戦では15着になるなど、その深刻さは増していった。


 この2年目、佐藤は131勝を飾る。しかしその全ては平場であり、オープンや重賞では春の3歳オープンすみれステークスと夏のGⅢ小倉記念での2着が限界であった。


 調教師、そして馬主は頭を抱えた。過去のレジェンドを思い起こさせる綺麗で揺れの少ない騎乗フォーム、事前情報を頭に叩き込むことで驚異的な精度で予測し適するレースプランを選択できる頭脳、そして決して驕らず卑屈になりすぎもせず(一部のマスコミ相手を除けば)何事にも真摯に接する人柄と、ただそれだけを見れば彼の天才性は疑いようもない。


 何かきっかけがあれば重賞やGⅠでの勝利はいくらでも取れる。そう信じて乗せ続ける者達も、2年、3年と経っても改善しない緊張癖、及び重賞戦線での戦績を見て、重賞での騎乗依頼はどんどんと減少した。そして佐藤も、それを受け入れた。


 佐藤のデビュー8年目。163勝をあげたこの年では7年連続の年間100勝達成と共に、オープン・重賞騎乗0での年間100勝達成という珍記録を打ち立てたのだった。



「よし、よくやってくれた! こいつは馬主さんから特別目をかけられていたからな、勝ってくれて助かったよ!」

「やはりこいつの能力はあるな、秋からが楽しみだ」

「この馬主さんの初めての馬の初勝利だ! こりゃ喜んでくれるぞ!」



 素質馬でもそうでなくても、勝つたびに受ける賛辞。その裏に隠された「オープン入りしたからお前はもう乗せない」。そんな思いに慣れてしまったのはいつからだっただろうか。


 新馬戦や未勝利戦で乗った馬が別の騎手でGⅠを勝つ姿を見て、何も感じなくなってしまったのはいつからだっただろうか。


 自分がオープン入りさせた馬に乗ってGⅠを勝った若い騎手に偶然会った時、心からおめでとうと言ったのはいつだっただろうか。





 そんな生活が約20年。騎手につきものの大きな怪我も無く毎年のように平場だけで100勝を越え、通算2891勝という数字だけで見れば輝かしい戦績を残していたある日。


 平場の鬼は、運命に出会った。






「はあ、新しい馬主さんの初めての馬ですか」

「お前には慣れたもんやろと思うが…まあこれがちょっと曲者でな」



 デビューしたてから面倒を見ているうちになんだかんだ長い付き合いになった三田調教師から受け取った紙を見た佐藤は、読み進めるうちに眉が寄っていく。



「なんだこりゃ…父がオウゴンサムライで母父がインディアンオーガ? すごい血統ですね」

「父と母父の名前がかっこいいから買ったんだとさ、お値段800万円」

「それはまた…期待度はどんなもんです?」



 オウゴンサムライ。公表種付け料50万円。偉大なる父の後継種牡馬として当初は期待されていたもののそれほどの結果は出せず、さりとて10年間安定してオープン入りする馬を送り出していて無視はできない。父はもちろん母方の血統も悪くなく種付け料も安く済むからそれなりに馬産地に人気はあるので、そのうち大物を出すのを期待で引退させるほどでは無い、そんな種牡馬。


 Indian ogre。アメリカでは珍しい芝専門、それでもGⅠ4勝とそれだけ見れば輝かしい成績だが、フィリーサイアー気味な上に本馬の特徴だった独特な気性難を受け継ぎやすく、また子の戦績も期待されていたほどでは無い、そんな種牡馬。


 安い父に安い母父、母も未勝利引退の3頭目の仔と、期待度としてはお世辞にも高くなく、しかして未勝利戦突破くらいは狙えるかもしれない。それだけに、オータムセールで800万円とかなりの安値で手に入れることができたようだ。新人馬主の初めての馬としては、悪くない買い物だったと言えるだろうか。佐藤はそんな印象を持った。



「悪くはないんじゃねぇかと思うがねぇ」

「何かあるんです?」

「まあ、乗ればわかるわ。来なぁ」



 そうして連れられた先。馬房にいたのは1頭の、栗鹿毛の若馬。馬格はそれなりに大きい、460kgはあるだろうか。2人の来客を意に介さず、舌を垂らしてぼーっと突っ立っている様は。



「オニムシャ、だ。父の名前からの連想で、かっこいい名前を付けたかったんだと」

「鬼と鬼の出会いってわけですか。随分大人しいですし、お互い名前負けな気もしますがねぇ」

「言うなアホ!」



 「とてもではないが鬼とも武者とも言えぬ大人しい馬」。


 それが後に通算GⅠ50勝、通算4000勝、年間200勝という輝かしい成績を残す「平場の鬼」の、唯一無二の相棒となるGⅠ8勝馬、オニムシャへ抱いた初印象だった。

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