五章 不忘蔵王と蒼極天の神 7


 

 目の前に広がる光景に意識が遠のいた。

 

 途切れかけた意識のせいで倒れこみそうになるすんでの所で、隣に居たイルカにどうにか体を支えてもらう。


 

 池があった。

 

 赤い池。

 見るものを忌避させるような黒く赤い池。

 池の中には肌色の腕のようなものや肌色の足のようなもの、中には吐瀉物のように撒き散らされた内臓のようなものが随所に転がっていた。


 

 この光景を見るのは二度目だ。

 

 だが同時に、今にも失いそうになっている意識はこれが二度目ではない事をしっかりと認識していた。


 

 白い歯が落ちている。それは間違いなく『  』のモノ。

 黒い髪が落ちている。それは間違いなく『  』のモノ。

 丸い目が落ちている。それは間違いなく『  』のモノ。


 

 怯え引きつった幼い顔が落ちている。それは間違いなく《ヒト》のモノ。

 

 それらが引き千切られ散乱した池の中央に、正義の味方は居た。


 

「ざおう……」


 

 少女は幼い子供のような何かを抱いていた。

 幼い子供のような何かを抱き、口元を赤く濡らしながら


 

「えへへ……」


 

 少女は笑っていた。


 

「えへ……へ……」


 

 笑いながら、泣いていた。


 

「正義はね。もう正義の味方じゃなくなっちゃったよ」


 

 あたしには気づいていないのだろうか。


 ユイガは一人、天を見上げて呟いていた。

 

 神ヶ崎ユイガは正義の味方になりたかった。だから神ヶ崎ユイガは悪を望んだ。自分の存在を肯定するために。


 

「これでいいのかなぁ。また、ざおうと一緒に居られるのかなぁ……」


 

 そして神ヶ崎ユイガは悪を望んだ。

 ……そして神ヶ崎ユイガは正義の味方でなくなった。

 

 ああ、きつい。こいつは想像以上だ。


 イルカに事前に言われていなかったら卒倒していたかもしれない。


 

 でも、さ。やりすぎだよ。


 

「何をやった?」

 

「ざおう……?」


 

 そこで初めて、天国を探すように空を仰いでいたユイガの目があたしを見つけた。


 

「人を殺したのか? どうして? 神ヶ崎ユイガは正義の味方なんだろ?」


 

 あたしの声に、ユイガの大きな声が答える。


 

「ちがっ……! だってっ……ざおうが……!」

 

「あたしが?」

 

「ざおうが……正義の味方は要らないって……」

 

「またあたしのせい?」

 

「え……?」


 

 どうしてと。ユイガの目があたしの目を見つめてくる。困惑した感情があたしにぶつけられてきた。

 

 違う、そうじゃない。


 

「また人のせいにするのか? この惨状を、この子供たちが死んだ事を。またあたしのせいにするのか?」

 

「……」


 

 風がマンションを揺らす。


 

「でも……」


 

 バタバタと建築中のマンションを覆う白いシートが大きく揺れる。

 周囲に置かれた資材の上に被せられた青いシートが外れ、空へと飛んでいった。


 

「でもじゃないよ。どうなんだ?」


 

 台風が作られる。暴風が収束する。


 神ヶ崎ユイガを中心に、風が刃となり、かまいたちをもって周囲を切り刻む。


 

 あたしの腕を風が掠れた、左足からは薄っすらと血が滲む。


 

「もう……」


 

 少女は子供を地に降ろすと、そう呟いた。


 

「もう……。ダメだよね……」


 

 何かを諦めたような声が聞こえた。

 

 大気が叫びをあげる。

 獣の咆哮にも似たそれが響き渡ると、ユイガを中心に土砂が舞い上がり、風が大地を削り取る。


 

 暴風の向こうでユイガがあたしを見て、いつもよりももっと純粋で、真っ白な笑顔を浮かべた。

 何かを悟ったものが、何かを諦めたものが、それゆえに浮かべる事が出来るすべての感情を押し込めたような笑顔。

 

 

「まて。まだ話は!」


 

 ユイガの笑顔から一筋の涙が零れる。


 

「ばいばい」


 

 そうしてユイガは風を纏い大気を引き裂き、暴風となって空へと消えていった。



「……蔵王」


 

 心なしか怒気をあげたようなイルカの声が聞こえる。


 

「……今のは少し……いえ、忘れてください」

 

「ごめん。心遣い感謝」


 

 もういっぱいっぱいである。

 

 耐え切れない重圧というか、きっと、悲しみだけで人って死ねるんだと思う。


 水分が頬を伝う感触。声にならない叫び声が喉を通った。


 

「……辛かったですね」


 

 イルカがそっと、あたしに寄り添い抱き締めてくれた。

 

 小さくて、けれど柔らかい温かさが体を通して伝わってくる。

 その温かさに包まれて。

 

 あたしは少しだけ、ほんの少しだけまた泣いてしまった。




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