第48話 いたいのいたいのとんでいけ
文化祭はつつがなく終わり、季節は秋に入っていた。夏の暑さはどこへやら、日によっては肌寒さを感じることもある。私は今日も未来の病室に足を運んでいた。
未来は今日も眠っている。未来と話せるのは一週間に一回程度になっていた。今日も私は定位置の椅子で、未来の寝顔をみつめる。顔色は悪くて、それでも可愛いけれど、見ているだけで辛くなるような雰囲気だった。
「……うた、こ」
目覚めたのかと目を向けると、未来はまだ目を閉じていた。寝言みたいだ。
「うたこ。たす、けて。……たすけてよ、うたこ」
その声は恐怖に震えていた。
その瞬間、私は心臓を鷲掴みにされたような気持ちになった。でも同時に既視感のようなものを感じていた。未来に助けを求められたのは、今が初めてなはずなのに、どこかで同じセリフを聞いたことがあるような、そんな気がしたのだ。
気を抜けば忘れてしまいそうな既視感だった。けれど私の本能は忘れてはいけないと激しく警告を鳴らしていた。
頭の中に微かに蘇ってくる。懐かしい記憶。
それを逃さないように、私は必死で必死で意識を集中させた。
すると声が聞こえてくる。
「うたこ。たすけて……」
幼い声だった。
そうすべきだという無意識の指示に従って目を閉じると曖昧な風景が浮かんできた。けれどその曖昧さは徐々に失われ、明確になってゆく。やがて私は確かな声を聞いた。
「いたいのいたいのとんでいけ」
それは遠い昔、まだ幼い私の発する声だった。
目の前には転んで膝を擦りむいた幼い未来が、ぽろぽろと涙を流していた。気の毒な未来を前に、私は擦りむいた膝に手をかざして「いたいのいたいのとんでいけ」と繰り返している。
転んだのなら一緒に転んであげる。隣で一緒に泣いてあげる。「いたいのいたいのとんでいけ」はそれができない私のただの偽善の言葉でしかない。私はそう思っていた。けれど未来はどうやらそうは思っていないみたいだった。
その言葉を繰り返すと、やがて未来は泣き止んでいた。不思議そうにケガをした場所をみつめたかと思うと、ニコニコとした笑顔を私に向けて、こんなことをつげる。
「ありがとう。うたこ! だいすきだよ!」
その言葉を聞いた瞬間、幼い私の胸はドキドキしていた。
脳内の記憶はあっという間に加速して行き、私も詩子も小学六年生になっていた。小学六年生の詩子もニコニコしながら、私の所に歩いてきていた。
でも何もない場所でバランスを崩したかと思うと、転んで足を擦りむいてしまう。小学六年生にもなって、未来はぽろぽろと涙をこぼしていた。
小学六年生の私はそんな詩子に対して「赤ちゃんみたいだね」なんて言い放つ。詩子は泣きながらも「赤ちゃんじゃないもん」と頬を膨らませていた。
小さくため息をついた私は詩子のところまで歩いたかと思うと、また例の言葉を。「いたいのいたいのとんでいけ」を使った。
何度も何度も「いたいのいたいのとんでいけ」を繰り返していると、未来は少しずつ泣き止んでいった。そしてやがては、幼いころと同じままのふにゃふにゃした笑顔でキラキラと笑った。
「ありがとう! 詩子!」
痛いはずなのに。私の「泣いて欲しくない、傷ついて欲しくない」。そういう願いに未来は必死で応えてくれていたのだろう。小学六年生の私もそのことに気付いていたみたいで、健気な未来の笑顔にとてもドキドキしていた。
未来の笑顔が誰の笑顔よりも可愛くみえていたのだ
それに気付いた瞬間、現実の私は目を開いた。気付けば、瞳から涙が溢れ出してきていた。未来は私が別の女の子に恋をしていた、なんて言っていたけれど、全然違う。
私は最初から未来のことが好きだったのだ。そのことに私は安心感と焦燥感を覚えた。最初からあきらめるつもりなんてない。でもなおさら諦められない理由が増えてしまった。
私の、私たちの十年間の恋をこんな形で奪うなんて絶対に許さない。やっと結ばれたのに、未来の命を奪うなんて絶対に許さない……!
私は涙を流しながら、ベッドで眠る未来にそっと手をかざす。そして目一杯の思いと願いを込めた声でつげた。
「いたいのいたいのとんでいけ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます