断食
友人の家に上がると卓上に蚊帳が乗せられていた。中には夕餉の皿が並べられている。味噌汁、白米、焼き鮭。すべて湯気は立っていなかったので、作ってからしばらくたっているようだった。少し腹が減っていたので手をつけようとしたが、流石にそれは無礼にあたると思ったのでやめることにした。せめて奥さんがいれば食べてもよいか聞くことができたがどの部屋もがらんどうだったので食卓に腰を下ろして待つことにした。
いっこうに友人が帰ってこなかったので手持無沙汰を紛らわせるために何かしようと思った。はじめは右手に刻まれたしわの数をかぞえていたが十分もするとそれも飽き、こんどは天井に見える木目の数をかぞえた。それも飽きると、ついに空腹が耐え難いものであるような気がしてきたので、蚊帳をのけて食事をはじめた。飯はどれもひどく不味く、空腹でなければ処分してしまいたかったが、次にいつ食事を取れるかも分からなかったので、米粒ひとつ残さずに食べた。
そのとき、窓の外からこちらを覗いている男がいるのを見つけた。友人かと思ったが見知らぬ人相だった。窓を開けて中に入れてほしいと言っていたので、言われるように開けると、男は土足のまま部屋に入ってきた。友人に怒られると危惧した私は彼を怒鳴りつけようとしたが、なにしてんだと、逆に彼に怒声を浴びせられた。
「なぜ、飯を食べたのだ?」
男は顔を真っ赤にしていた。お腹が空いていたのだから仕方がないだろうと私が言うと、お前は断食を守らなかったのだ、鬼がいずれお前を見つけ出すだろうと、そう言って家を去っていった。
鬼に見つけられるのはまずいと思ったので急いで身支度を整えて家を出ると、そこは漁港だった。いまから沖に出る漁師を探したがひとりもいなかったので、そこらに止めてあった小型のカヌーに乗り込んで、むやみやたらに大きいパドルを漕いで急いで湊を出た。岸の上の男たちが怒号を飛ばしていたが、早く沖に出なければ鬼に見つかってしまうので、全力で漕ぐことをやめなかった。すると、人影がひとつ、水面に飛び込んで、水しぶきを上げながらこちらに向かって泳ぎ始めた。あれが鬼かもしれぬ。私は背広に忍ばせていた拳銃で泳ぎ来る人影を打った。人影は波を立てることをやめ、沈んでいった。
そのまま突堤の脇を抜けて沖に出ると向こうからカヌーがやってくるのが分かった。おおいと声を上げてこちらに近づいてくる。おおいとこちらも答えると、先方は水に飛び込んでこちらのカヌーへと近づいてきた。手を差し出すと、泳いでいた人間はそれを掴み、私のカヌーへと乗船した。女は友人の奥さんで、なぜ私のご飯を食べたのですかと私を責めた。涙まで流していたのでかわいそうに思い私は拳銃で奥さんを打ちぬいた。しかし奥さんは鬼だったので死ななかった。鬼は断食をしてくださいと言って私を食べた。鬼の胃袋の中で私は断食万歳と言ってそのまま深い眠りについた。
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