黒猫

 オルボが営む宿屋は、表通りから外れた細い枝道の奥まった場所にある。小さいながらも豪華な造りの、三階建ての宿屋だ。

 人族の奴隷が二十人ほど働いていて、傷つき動けないトリスの世話を彼らが担当していた。

 裏道と言っても良いような場所に建つ宿屋だが、豪華な装いに似合う上級な客が利用しているのだろう。必然的に、働く奴隷もそれなりの身嗜みだしなみをしており、薄汚い衣類を着たトリスは世話をしてもらうたびに恥ずかしい思いをすることになった。


 そうして、オルボの宿屋に三日間滞在したあと、アステルの領地へと帰ることになった。

 どうやら、トリスは捨てられることなく、アステルとともに宿から出ることができるようだ。

 まだ怪我が完治していないトリスは、アステルの乗車する馬車に同乗する。


 貴族用の豪華な馬車に小汚い人族を乗せることを、馭者役ぎょしゃやくの小鬼は嫌がった。しかし、公爵であるアステルが乗せると強硬な言葉を発してしまえば、低級魔族の小鬼は従うしかない。

 だが、そんな小鬼も、公爵のアステルには腰を低くするが、人族のトリスには冷たい視線を向ける。

 小鬼といえど、魔族の端くれ。貧弱な人族よりも優れた身体能力を持っている。トリスは小鬼に鋭い視線を向けられるたびに、冷や冷やとした汗をかいた。


 出発の準備が進む。

 アステルは大貴族の女性ということで、衣装など大量の荷物があると思っていたのだが、荷馬車の随行もなく、馬車に積み込んだのは数日分の食料と水だけだった。

 毎日どころか、朝昼晩と着替えていたアステルの衣装はいったいどうしたのだろう。疑問には思っても、トリスはそれを聞ける状況ではなかった。

 相手が魔族の大貴族であるからではない。むしろアステルは細かいことにこだわらない性格のようで、トリスが人族であるとか、見窄みすぼらしい姿であるといった部分に頓着とんちゃくは見せない。普通に話すし、トリスをしいたげるような行動をとったりしない。


 では、なぜ聞けないのか。

 原因は、周りの目にあった。


 アステルは、魔族のなかでも魔王に次ぐ地位の公爵。対するトリスは、命を救ってもらったとはいえ、普通なら奴隷扱いを受けてしかるべき立場の人族だ。

 また、人族は時として奴隷以下の扱いを受ける。そんな人族が大貴族のアステルにあれやこれやと質問することは、禁忌きんきに触れるようなものだ。同じ人族であり、宿屋の従業員である者たちからも、興味本位で詮索してはいけない、という雰囲気を出されていた。


「これが、魔族と人族の立場の違いなんだな……」


辺境の隠れ里で生まれ育ったトリスにとって、大人たちから話にだけには聞いていた身分や立場の違いは、こうして初めてたりにする現実と擦り合わせながら、見に深く染みていく。





 創造そうぞう女神めがみがこの世界を産み落としたのだと、人族が深く信仰する宗教はうたう。広大な大陸には多種多様な種族が生まれ、それぞれが独自の文化を築き繁栄している。

 大陸はとても広大で、未だに未開の地が多く存在しているのだという。そのなかで、大陸には竜峰りゅうほうと呼ばれる、竜族と竜に近しい者たちが住む険しい山脈地帯が南北に長く延びている地域がある。

 他種族を容易には近づけさせない極限の自然をたたえる竜峰。その西側に広く文明を広げている者たちこそが、魔族と呼ばれ恐れられる種族だ。


 魔族は、特殊な支配構造をしていた。

 人族や神族のように、魔族も魔王を支配者として強固な国を幾つもおこし、邪悪な社会を築いている。だが、詳しい者は知っている。魔王は国の統治者ではあるが、魔族の本当の支配者ではない。

 魔王とは、魔族の最上位に君臨する「真の支配者」が任命した者に与えられる地位でしかないのだ。そして、竜峰の西側に幾つか存在する魔族の国は、魔王が真の支配者に変わり統治しているに過ぎない。


 魔都ルベリアを要し、国を長く繁栄させる賢老魔王ヴァストラーデもまた、真の支配者に任命された魔王のひとり。

 そして、魔王の次の地位に就く公爵のアステルは、の国の東に隣接する、巨人の魔王の支配する国の西端に住処すみかを得ていた。


 深い森に囲まれたアステルの屋敷には、三十日ほどの行程でたどり着いた。

 本来であれば、もう少し早く着く到着していてもおかしくはなかった。

 しかし、この三十日間で、トリスはアステルの性格を改めて痛感する。


 細かいことにはこだわらない、などという最初の評価は間違えだったのだと思い知る。

 アステルは、わがままだった。自分勝手で気分屋。自己中心的な性格。

 細かいことにこだわらないのではない。他者に気を遣う心を持っていないのだ。周りの者たちのことなんて知らない。自分が良ければ全て良し。それが、公爵アステルの本来の性格だった。


 座っている気分ではない、と言って下車し、一日戻ってこない日があった。

 逆に、昼夜を問わず馬車を疾走させ、馬と馭者を疲弊させたり。

 機嫌が良いとトリス相手に陽気な話をするが、虫の居所が悪いと馭者の小鬼にさえ殺気を放つ。

 アステルが住処にしているという屋敷に到着する頃には随分とトリスの怪我も治ってきていたが、精神は疲弊しきっていた。


 魔都ルベリアを発って三十日目の深夜、馬車は森の中の一本道を抜け、大きな屋敷の玄関前で停まった。

 ひとりでも歩けるくらいに回復していたトリスは、自力で馬車を降りる。

 降りて、屋敷を見渡し、絶句する。

 目の前には、巨大な玄関の扉。そこから左右に視線を流すと、暗闇のなかで端が確認できないほど先にまで、建物は続いていた。


 あとから降りてきたアステルは、目の前で棒立ちになっているトリスを邪魔だと突き飛ばす。

 トリスは石ころのように飛ばされて、扉にぶつかる。

 二人を降ろした馬車は、早々に来た道を戻っていった。


 したたかに頭を打ったトリスが文句を言おうとする背後で、巨大な扉が開く。

 人ひとり分ほど開いた扉の奥には、一匹の黒猫くろねこが行儀良く座っていた。

 澄んだ青い瞳と、黒い毛並みが美しい猫。三角の耳だけが真っ白だ。お座りをする背後では、長い尻尾が揺れていた。


 黒猫は、トリスをじっと見つめたまま視線を動かさない。しかし屋敷の主人に「ただいま」と声を掛けられると、ようやく視線をアステルに移した。

 にゃあ、とひと鳴きして、黒猫は主人を先導するように屋敷の奥へと歩き出す。

 アステルも後について玄関をくぐる。すると、これまで明かりのともっていなかった屋敷内が一斉に明るくなった。


 きっと、魔力で光を出しているんだ、と驚いている暇はない。トリスも慌ててアステルの後を追い、屋敷に入った。そして、見たこともないような豪華な邸内にトリスは驚き、また呆然と立ち止まる。


 玄関の間でさえ、床は隙間なく絨毯が敷かれ、柱は一本一本が大理石で化粧されていた。

 高級な調度品が趣味よく廊下の先まで配置されている。

 魔都に滞在していたときの宿屋は、小さいながらも格式があり、公爵の宿泊に見合う佇まいだったように思う。それでも、この屋敷に比べれば、たいしたことがないようにトリスでさえ感じてしまう。


「うはぁ、すげえや」


 すきま風が入るぼろ屋で生活していたトリスには、まさに見たことも聞いたこともないほどの空間だ。

 トリスは全てに見とれながら、立ちすくむ。しかし、先を行くアステルたちに気づき、置き去りにされないようにと、慌てて後を追う。


 玄関の間を抜け、階段を上がっていくアステルの前を、相変わらず黒猫が先導している。階段も絨毯が敷かれており、黒猫は気持ちよさそうに歩いていた。

 まさか、猫が歩きやすくするためだけに、床を大理石などにはせずに絨毯で埋めたのでは、とさえ思えるくらい贅沢な佇まいの屋敷だ。


 ところで、屋敷の主人が帰ってきたというのに、出迎えが黒猫の一匹とはどうしたのだろう。

 階段を上がって三階まで進んだが、家来や使用人が現れる気配はない。

 深夜なのでみんな寝ている、なんてことはないと思うのだが。

 質問してみようかと思うトリスだが、今日のアステルは少し機嫌が悪い。今の彼女の背中は、あまり会話ができる雰囲気ではなかった。


 先導する黒猫が、三階の長い廊下を尻尾を揺らしながら進む。そして、とある扉の前で立ち止まる。

 アステルとトリスも、黒猫に合わせて止まった。


「今夜はここにするか」


 言ってアステルは扉を開けると、部屋の中へと入っていく。黒猫も部屋へと入る。

 トリスが入っても良いものかと廊下で悩んでいると、誰も扉に触れていないはずなのに、勝手に閉まる。

 どこまでも続く長い廊下に放置され、どうすれば良いのかわからないトリス。

 戸惑いながら辺りを見渡すが、延々と続く廊下には自分しかいない。

 やはり、使用人が現れる気配はなかった。


「どうすりゃいいんだよ?」


 返事が返ってくるわけもなく、トリスは途方に暮れる。

 悩み、アステルと黒猫の入っていった部屋の前を行ったり来たりしてみたものの、なにも進展はない。


 はたして、人族の自分が、魔族の、しかも公爵位であるアステルの部屋に気安く入って良いものなのか。

 これまでのアステルの態度からかんがみれば、トリスが部屋に入ったとしても、彼女は特段気にもしないだろう。しかし、使用人や家来の者たちは、どう思うのか。

 魔都の宿屋でも、さんざん使用人に言われてきたことが頭を過ぎる。

 魔族と人族の、身分と立場の違い。それを履き違えてしまえば、下手をすると死よりも恐ろしい未来に繋がってしまうかもしれない。

 かといって、知らない土地、知らない屋敷の中でひとり放置をさりてしまっても、トリスには何もできないし、判断もつかない。


 悶々もんもんと思考を巡らせた後。しかたなく、アステルの部屋の扉を叩くトリス。


「アステル様、俺はどうしたら良いんですか?」


 きっと、返事はない。トリスはあまり期待はしていなかったが、予想に反して扉が開く。

 だが、扉の先には誰も立っていない。

 トリスが隙間から部屋を覗くと、奥の窓際でアステルは酒を飲んでいた。


 アステルと目が合う。


「好きな部屋に行け」


 言い終えると同時に、扉が閉まる。


「好きな部屋って言われてもなぁ」


 はる彼方かなたまで続く廊下には、等間隔で数え切れないほどの扉があった。


「本当にどの部屋でも良いのかな?」


 屋敷の主人から許可を得たのだし、と気分を変えて、部屋を片っ端から見て回るトリス。


 部屋に誰かがいたらどうしよう、などとは思わなかった。

 三十日間もアステルと行動をともにして、わがまま自分勝手な振る舞いを見てきたせいか、自分も遠慮なんてしてられない、と思うようになり始めているトリス。

 それ以前に、屋敷の主人に許可を得ているのだ、それなら魔族の家来や使用人に気を使うものか。という反骨精神がトリスの原動力となる。


 アステルの部屋の隣から見て回ったが、どの部屋も豪華で広い。

 惜しみなく作り込まれた、高価な調度品や寝具。数えるのも馬鹿らしく思えるほどの部屋数。どれも客室なのだろうか。アステルに家族や身内がいないのであれば、私室ではないと思うのだが。

 手当たり次第に部屋を見て回るトリスだが、どれほど確認したのかわからなくなってきた頃。


「まだ部屋を決めていないのか」


 部屋を覗き込んでいたトリスは、突然聞こえてきた覚えのない女性の声に驚く。

 振り返ってみるが、誰もいない。

 部屋に誰かいたのかと思い、改めて部屋を覗き込んだが、豪華な部屋には誰も居なかった。


「どこを見ている」


 再度の声で周りを見渡してみるが、やはり誰も居ない。


「下を見ろ」


 女性の声に、言われたとおり下を見る。すると、トリスの足下には一匹の黒猫が座っていた。

 アステルを出迎えた、耳だけが白い黒猫だ。丸く、透き通った青色の瞳。黒く美しい毛並みに、長い尻尾。

 貴族がうのに相応しい気品を漂わせているが、それでもただの猫にしか見えない。


「まさか、猫がしゃべるわけないしなぁ」


 しかし、周りにはこの黒猫一匹しか見当たらない。


「やれやれ。人族はやはり阿呆あほうだ」


 黒猫が、残念そうに項垂うなだれる。


 黒猫から声が聞こえたような。でも、猫が人の言葉を話すわけがないし。いぶかしむトリス。


「……まさか、今お前がしゃべったのか?」


 しゃがんで黒猫を撫でようとすると、嫌がるように避けられた。


「馴れ馴れしく触ろうとするな。いい加減鈍いから言っておくが、私も魔族だ」


 トリスはぎょっとして、撫でようと伸ばしていた手を引っ込める。

 そして再度、黒猫をじっくりと見てみた。


 全身を覆う艶やかな黒い毛並み。長い尻尾に、愛らしいくるりとした瞳。

 やはり、どう見ても猫だ。


「誰がからかっているかは知らないけど、これは猫だろう」


 言って、もう一度撫でようとした瞬間。

 怒ったように、黒猫が短く鳴いた。


 直後。

 トリスの背後にどこまでも続いていた屋敷が、爆音とともに跡形もなく消し飛んだ。

 黒猫と向かい合っている方角が、これまで部屋探索をしてきた方向。背後には、まだ見ていない部屋が数え切れないほどあったはずだった。

 それが、一瞬で消えてなくなった。


 だけではなかった。

 トリスが恐る恐る振り返ると、屋敷だけでなく地表も大きくえぐれ、闇夜のなかでなお暗い穴を作り出していた。


 トリスの引きつった表情を見て、黒猫は満足そうに尻尾を振る。


「さあ、部屋が減ったぞ。さっさと部屋を決めて寝てしまえ」


 黒猫は優雅な足取りで去って行く。

 黒猫の後ろ姿を見送ったトリスは、腰を抜かして身動きがとれなかった。

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