救いか 破滅か
「名前は?」
聞かれて、少年は素直に答える。
「トリス。助けてくれて、ありがとうございます」
「助けたわけじゃない。この服の弁償をさせようと思っただけだ」
女性の服は、少年トリスの血で汚れてしまっていた。
冷たい言葉に、トリスは助けられたのか、さらなる
命拾いをした、ということだけを見れば、助かったと言えるのだが。
助けてくれた相手が魔族で、弁償をさせると言うのなら、これから奴隷として働かされるということを意味している。その現実に目を向けるならば、奴隷商から逃げ出した当初となにも問題は変わっていない。
「結局、奴隷になるのかよ……」
故郷の里は、妖精魔王と称ばれる魔王が支配する国の、辺境の深い森の奥にひっそりとあった。しかし、その地の新たな領主となった奴隷商の男が、トリスの暮らす隠れ里を襲った。
奴隷狩り。
他種族を奴隷として扱う魔族は、国の内外で公然と奴隷狩りを行う。
トリスだけでなく、里の者は
トリスもまた、奴隷市の商品として、売られる間近であった。
魔族の国では、人族は平穏には暮らせない。
奴隷として、家畜以下の扱いを受けながら酷い人生を短く歩むか、どこかの辺境でひっそりと息を潜め、魔族に怯えて生き延びるか。
奴隷市場に商品として並ぶトリスの運命は、奴隷としての道しか示されていなかった。
それでも、トリスは諦めなかった。
奴隷商や鬼たちの監視を掻い潜り、何度となく逃走を図ろうとした。その度に鬼に見つかり、捕まり、拷問を受けた。
だが、今回は上手く逃げ出せた。
奴隷商と鬼たちが、上顧客という上級魔族に機を向けている隙を突き、奴隷市を抜け出すことに成功した。
しかし。
奴隷商から決死の覚悟で逃げ出し、命辛々逃げついたトリスの運命の行き先は、やはり奴隷の道だった。
トリスが目覚めると、豪華な部屋の長椅子の上でうつぶせに寝かされていた。
傷も手当てされていて、全身に包帯が巻かれていた。
身動きをとろうとすると全身に激痛が走り、それがトリスの意識を呼び戻す。
「奴隷がそんなに嫌か」
「嫌に決まっている」
「命拾いしただけでもありがたいだろう?」
命の恩人にそう言われてしまうと、トリスには返す言葉がない。
女性は、長椅子に横たわるトリスのそばに立ち、物珍しそうに見下ろしていた。しかし、トリスの意識がはっきりと戻ったことを確認すると、向かいの長椅子に腰を下ろす。
トリスは頭だけを動かし、女性を目で追う。
優雅に腰を下ろした女性は、とても美しい容姿をしていた。
奴隷商が放った追っ手から逃げていたときは強く意識することはなかったが、改めて見ると、人族ではあり得ぬほどの美しさだ。
トリスは、つい魅入ってしまう。
美しい顔立ち。均整のとれた
ふわりと柔らかそうな長い金髪。絹のような滑らかな白い肌。豪奢な衣装に身を包んだ姿は、まるで貴婦人の人形のよう。しかし、自分たち人族にはありえない猫のような瞳が、彼女は冷酷無比な魔族であるということを
トリスは言葉なく女性を見つめた。
女性もトリスの視線は感じているのだろうが、別段気にした様子もなく、手にした
会話はなく、女性が杯を傾けるときに出る
その衣装は、未だにトリスの血が付き汚れているものだ。
実は、トリスは巨躯の鬼に担がれて間もなく意識を失ったので、どういう経緯で助けられたのかということを知らない。
この女性は、なぜ着替えないのだろう。
質問したいことは山ほどあるが、一度口を
広い室内に隙間なく敷き詰められた絨毯。高級な家具や、色とりどりの生花と、花瓶や装飾品。部屋の豪華さから見ても、どうやらこの女性は、貴族かそれに類する高位の魔族らしいことは確かだ。
本来なら、人族のトリスが気安く話しかけても良いような相手ではない。
世界には、多種多様な種族が存在する。なかでも、
世界の西側には人族が治める国や街も存在するらしいが、絶えず魔族や神族からの侵略に
トリスは、妖精魔王クシャリラが支配する国の片隅の、小さな隠れ里で育った。
魔族や神族が支配する国々では、深い森のなか、険しい山脈の奥深くといった人の寄りつかないような場所に人族は隠れ、ひっそりと暮らしている。
しかし、その村が魔族の奴隷狩りに遭い、トリスは捕まってしまった。
人族を、奴隷や家畜、下手をすると消耗品程度にしか思っていない残虐な魔族にとって、人族は暇つぶしに殺してしまうくらい下等な存在にしか思われていない。
そんな種族に助けてもらったのだから、やはり奇跡だと思ってもいいのかもしれない。トリスはようやくそう思い始めていた。
そもそも、魔族に捕らわれて奴隷になれば、毎日のように鞭で叩かれ、まともな食事も貰えずに、死ぬまでこき使われるのだと、トリスは思っていた。それが、突然体当たりをしてきた自分を保護し、傷の手当てまでしてくれるなんて。もしかして、魔族にもいい人はいるのだろうか。
いや、もしかすると、気まぐれで自分を助けただけで、これから先に過酷な生活が待っているのかもしれない。
美しい容姿していても、魔族は魔族。それも高位の者だ。
心優しい魔族なんて、そもそも聞いたことがない。
服の弁償をさせると言っていた。では、やはり過酷な労働が待っているに違いない。
服を着替えないのは、お前は服を台無しにしてしまったのだ、という罪の意識をトリスに与えるためで、わざと見せつけているのかもしれない。
考えているうちに、今度は段々と
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
トリスが憂鬱な思考に沈み込んでいるうちに、気づくと女性の足下には高級そうな酒の
女性は一度も長椅子から立ち上がらず、ずっと飲み続けていた。
色々と考え事をしていたトリスだが、女性の動きくらいは把握している。
では、足下に数多く転がっている
改めて部屋を見渡してみる。
とても豪華な部屋は、ひとり二人の少人数で滞在するには無駄に広く、高級な調度品なども数多く並んでいる。たが、酒を入れている棚は見当たらない。
もしかして、あれが最後の酒なのだろうか。
最初に大量に持ってきておいて、いま最後の酒を飲み干しかけているのかもしれない。
それにしても、かなりの酒豪だ。見たところ、これだけ飲んでいるにもかかわらず、魔族の女性には酔った様子がない。
トリスが足下の酒瓶と自分を見比べていることに気づいたのか、女性が何かを言おうとした。しかし、美しい
会話もなく静かだったことで、外の騒動に気づくトリスと魔族の女性。
何だろうか、と耳を
「まったく、どんな奴なのでしょうね。この私の商品を勝手に持ち帰るような不届き者は!」
「も、申し訳ございません。どうかお引き取りを。ご宿泊の方に不敬があっては、私どもが罰を受けてしまいます」
商品を無断で持ち帰られた商人が、取り返しに乗り込んできたのだろう。それを、宿の従業員が必死に止めているような感じに聞こえる。
「おやまあ、なんとも。それでは、私への不敬はどうだっていいと言うのですか? ただの商人だと思ってるなら大間違えですね。これでも私は爵位持ちなのですよ?」
「も、申し訳ございません。ひぇぇぇっ」
野太い声と悲鳴が、徐々に二人の滞在している部屋へと近づいてくる。
「男爵の私に喧嘩を売るとは、いい度胸ですね!」
野太い声の主は、部屋の前で止まった。
トリスは、恐怖に震えていた。
知っている、聞いたことのある声だ。
あれは、奴隷商の男の声だ!
奴隷という商品である自分を取り戻しに来たのだ。
奴隷商の男が貴族だったとは、トリスも知らなかった。
魔族は、特に強力な力を持つ者に爵位を与える。階位を与え、それに見合う特権を授けることで、力ある者が無差別に暴れないように制御しているのだという。
奴隷商はすなわち、人族の隠れ村を見つけた場合の奴隷狩りの許可が特権なのだろう。
トリスは、正面の長椅子に優雅に座る女性を見る。
彼女も高貴な身分であることは間違いない。
しかし、豪奢な衣装を身に纏う女性は、戦いに特化したような容姿ではなく、人族のトリスが見ても、想像を絶するような力を持っているようには見えなかった。
おそらく、貴族の娘か何かなのだと思う。貴族の子供だからといって、強い力を持っているとは限らない。
男爵という爵位に見合った力を持つ奴隷商とこの女性とでは、明らかに女性の方が不利な立場のように思える。
「やあやあ、お嬢さん。この部屋に泊まっているのでしょう? さっさと私の商品を持って出てきていただけませんかね」
部屋の扉を激しく叩きながら、奴隷商の男が叫ぶ。
女性は、部屋の扉へと視線を向ける。しかしそれだけで、別段気にした様子もなく、また杯を傾けた。
「まったく、どうなっているんだい! 居るのは気配でわかっているのですよ!さっさと出て来たらどうなのですかねっ!」
奴隷商はさらに激しく扉を叩くが、やはり女性は長椅子から立ち上がろうともしない。
段々と、扉を叩く力が増していく。そして、最後には激しい音を立てて、扉が部屋の中へと吹き飛んできた。
「無視とは、ふざけた小娘だね!」
重い足音を立てて、男が部屋へと入ってきた。
続いて、ぞろぞろと手下の魔族たちが現れる。
部屋へと押し入ってきた手下の中には、鼠顔の下級魔族と巨躯の鬼の姿もあった。巨躯の鬼は、失った片足を包帯で包み、杖をついている。
しかし、トリスが巨躯の鬼の負傷に気づくことはなかった。
最初に部屋へと入ってきた男。奴隷商の魔族と目が合い、それだけで気絶しそうになる。全身から汗が噴き出し、震えが止まらない。
「騒がしいな」
「随分とふざけた娘だね」
長椅子から立ち上がろうともしない女性を、奴隷商の男は睨みつける。
自分が睨まれているわけでもないのに、トリスはその姿と殺気だけで縮みあがった。
全身が硬直して動けないトリス。
しかし、動かないのは奴隷商も同じだった。
「……旦那様?」
いや、睨んではいなかった。
奴隷商の男は顔を引きつらせて、女性を凝視していた。
「商売でうちに来るときは
女性は、相変わらずの様子で長椅子に腰掛けたまま。
対する奴隷商の男は、部屋へ押し入った当初こそ威勢が良かったものの、今では全身を硬直させて、ぴくりとも動かない。
「ア、アステル公爵様……」
そして、随分と間を開けて、奴隷商の男はようやく喉から声を絞り出すように言った。
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