拝啓、あなたという人との関係は

長尾

拝啓、あなたという人との関係は

 まただ。最近いつもこの夢を見る。


「触ってよ、ね、わかってるでしょ?」


「わかりません」


「そんなこと言って、まんこ濡らしてるくせに」


「ちが、やめて、やめて⋯⋯」


 男の指はわたしの秘部を撫でる。その感触にぞわりと肌が粟立つ。気持ち悪い。男はさらにぬるりとしたいきり勃ったものをわたしの手に押し付ける。払いのけようとしても身体が動かない。やめて、やめて、と声にならない叫びを繰り返すうちに、覚醒に至る。


 それだけの夢に、ここのところ毎日悩まされている。



 わたしには性欲がない。恋人を作ろうという気持ちになったこともなければ、自慰行為をしようという気持ちになったこともない。


 むしろ嫌悪するようになったのは、肉体の関係というものを知ったときからだった。さっき、性欲がないと言ったが、まだ自分に性欲がないのだと悟る前、公衆トイレでレイプされた。合意のない性行為、相手は同じクラスの話したこともない男子だった。どうしてわたしなのかと思っていたら、彼はわたしに一目惚れしていたようである。後に、クラスの担任経由で、彼の両親から詫び状と、内密にしてほしいという口止め料二万円が渡された。彼は学校に来なくなった。正直親にも話せないと思っていたし、ショックではあったが、相手が相手なので警察に行くのもなあ、と思っていたので、口止め料などなくとも誰にも言わなかった。


 それからである、自分の胸のふくらみ、長い髪、スカートから長く出る脚、女子というアイコンを掲げたまま生きているのがたまらなく気持ち悪いことのような気がしてきた。胸はそこまでふくらんでいないので、オーバーサイズの服を着て猫背でいることで誤魔化した。髪の毛は雑にハサミで切ったのを見咎めた母が美容室に連れて行ってくれて、無言で雑誌を読んでいるうちに短く切り揃えられていた。スカートは履かなければいい。私服のスカートはすべて処分し、制服はスラックスを買った。


 それだけではなかった。同じグループの女子の恋バナや、恋愛ドラマを受け付けなくなった。恋情とは性欲とセットなのだときづいてしまったら、みな、あのおぞましい行為をするのだと思えて、気持ち悪かった。手をつなぐことも、キスをするのも、性欲があるからだ。性欲のある人間は気持ち悪い。性愛者は異性同性問わず気持ち悪い。ここまで思うようになってしまった。


「リカ、あんた最近変わったね、なんかあったの?」


「なんにもないよ、ちょっとイメチェン」


「でも、リカ顔可愛いし、こういう男の子もタイプかも♡」


 周りの同性からのこういう対応も、反吐がでるほど嫌だった。年頃の女の脳内は、男がタイプかそうでないかしか考えられないのか。異性がどう思ってるかなんて知りたくもなかった。あいつらは女の比にならないほど女のことを考えている。すれ違った女の胸が大きかったとか、脚が綺麗だとか、そんなことで盛り上がる人間と、なにがどうして仲良くできようものか。



 わたしはひとりぼっちになった。それでも別になんとも思わなかった。


 次第に学校に行く脚も遠のいた。せっかくスラックス買ったのに、と母は言った。母はなにかしら気付いているようであったのでそれ以上はなにも言わなかった。わたしだって学校に行って真に一人でいられるなら学校に行った。だが仲のよかった女子たちがそうはさせてくれない。携帯にメッセージもひっきりなしにくる。通知をオフにして布団を被った。



「リカ、学校行かないなら、辞めちゃう?」


 母が言った。


「辞めちゃう? って、簡単に言うけどさあ⋯⋯」


「だって辛そうなんだもん、髪の毛もこんなに短くしちゃって⋯⋯。ねえリカ、大切なことは、毎日学校に行くことでもなんでもなくて、毎日元気でいること。わかる?」


「でも学校辞めてどうすんの?」


「働けばいいんじゃない? 高卒資格が必要だってんなら、高卒認定とればいいだけだし。社会は思ってるより、少なくとも学校よりは、オープンだよ」


「そんなもんか」


「うん」



 そしてわたしは高校を辞めた。二年弱いた高校には呆れるほどなんの思い入れもなかった。やめる際には校長にちょっと説教をくらったが、お前には関係ないわたしの人生だぞ、と思って、腕を組んでそっぽ向いていた。勉強くらい自力でできる。馬鹿にすんなよ。という気持ちでいっぱいだった。


 それで、いまは勉強をしながらホームセンタ―で働いているが、冒頭で話したとおり、夢に悩まされている。感触がリアルなのがまた気持ち悪い。たまに強気になって、握らされたモノをつねってみたりするのだが、まったく動じずにまた迫られる。もう嫌だ、悪夢を見ないためにはどうしたらいいのか。明け方にいつもその夢を見るので、変な時間に起きてしまって、仕事をする前から毎日疲れている。



 職場で、そういう意味でなく、気になる人がいる。沢木さんという、女性なんだか男性なんだかはっきりしない人。いや、はっきりはしている、彼女は女性だ。でも、一人称が『自分』で、わたしと同じく髪の毛が短く、胸が平らで、細っこい。化粧っ気はなく、でもぼさっとしていない。可愛い顔の男子、と言われればそんな気もするし、ボーイッシュな女子という感じもする。不思議な人だ。


 沢木さんはなんだか繊細そうに見えて、メッセージの文面はつっけんどんとしている。それはわたしが鈍臭いから少し嫌われているのだろうが⋯⋯。いけない、最近どんどんネガティブになっていく。


 その人といると、自分の性別もなくならないかなと思う。沢木さんはきっと無性別と区分される人なのだ。わたしも、きっとそうでありたい。一人称がわたし、なのは、わりとジェンダーフリーではないだろうかと思うが、なにがそうさせるのか、いまだに痴漢に遭うし、女としてのアイコンを脱却しきれていないみたいだ。


「山川さん、単語のお勉強ですか」


 休憩室で単語帳を眺めていると、珍しく沢木さんが話しかけてきた。


「ええまあ、試験近いので⋯⋯」


「試験? 山川さんはたしか、」


「はい、あの、高卒認定試験です」


「ああ、なるほど。自分は英語が苦手で、お客さんで外国の方が来るとテンパっちゃうんですよね」


 沢木さんは少しはにかんだ。


「袋は必要ですか? はなんて言ったらいいんでしょうか」


「うーん、Do you need a plastic bag? でしょうか、わかんないけど」


「need! そうか、そんな単語ありましたね。文にすると中学レベルなのに、高校でしてきた勉強より難しいですね。接客英語って準備してくれたらいいのに……」


「……高校、辞めた理由、知りたいですか?」


「えっ」


 不意に、この人には話すべきなような気がした。少しわたしと同じ匂いがする。


「沢木さんには話すべきな気がして、余計なことだったらごめんなさい」


「いやいやそんな、謝らないでください。山川さんもやむを得ない事情があったのだろうなと、推察していたところです。……自分なんかを信用してくれるのですか」


 いま、『山川さんも』と言った。『も』ということは、沢木さんにもなにかあったのだろうか。


「はい、他のスタッフさんにはどう思われてもいいけれど、沢木さんにはほんとうのことを話しておきたくて」


「そうですか、辛かったらやめてくださいね」


「はい」


 わたしは、レイプされたことをいきなり話した。沢木さんは思いきり表情を歪めて話を聞いてくれた。なにかオブラートに包むべきだったかと話してしまった後から気づいたが、もう遅い。わたしの心の傷をまるごと移植するように、レイプされたあとの心情の変化を事細かに話した。


「……思ったこと言ってもいいですか?」


「はい」


「なぜ警察に言わなかったんですか。強姦は犯罪ですよ」


「それは、先程も言ったとおり、顔見知りだったからっていうのと、口止め料渡されたから……お金受け取ってしまったのに警察に言ったら、どんな報復されるかと思うと」


「怖くて?」


「そのときは怖くなかったし何も感じていないつもりでしたけど、後から思い返すとそうです」


「では山川さんは」


 沢木さんの声が少し震えた。


「家族が人を殺しても、通報しないんですね」


「どうしてそうなりますか?」


「いま山川さんは、『顔見知りだったから』といいました。強姦は、女性の性的な部分を傷つけ、心を殺す行為です。少なくとも自分はそう思っています。

 いいですか、山川さん。あなたは一度殺されたんです」


「殺された……」


 だから、別人になったのか。なんとなく腑に落ちた。


「いまから警察に行っても、動いてくれないでしょう。証拠がないこと、日にちが経ってしまっていること、親告する気がなかったこと……。仮に逮捕されたとしても、口止め料を払ってきたご両親ですから、弁護士をつけて示談に持ち込むんでしょう。

 山川さんは、『山川梨花』という人間を殺された現場を、見てみぬふりをしたんです。自ら。わかりますか」


「……」


 沢木さんは鬼気迫る様子でわたしに語りかける。いかに自分を大切にしなかったかを、あとから責められるのは少し痛い。


「あなたを見ていると、かつての自分に重なるんです」


 彼女の声が優しくなった。


「わたしも、性犯罪に遭いました。電車の中で痴漢されて、体液をかけられたんです。学生の頃でした。そのときは恐怖で頭がいっぱいで、恐怖といっても、加害男性に対する恐怖ではなくて、ひとりで警察署のこわい警察官に、事情を説明するのが怖くて。山川さんなら、この気持ち少しはわかるでしょう」


 わたしは頷いた。わたしだってそうだった、警察官に話すのは恥ずかしかったし、怖かった。だからなにも言わなかった。


「それで、女だからこんなことをされたんだと思って、長かった髪の毛を切り、スカートを履くのを辞め、胸にはさらしを巻いて、とにかく女らしさを捨てようとしました。あんなに好きだったネイルや化粧も辞めて」


 沢木さんは指を机の上に置いた。短すぎるほど切り揃えられた爪が少し痛々しかった。


「だけど男になりたいわけじゃなかった。男になったら、わたしを殺した犯人と同じ属性を得てしまう。だから、性別なんて捨てようと思った。山川さんも、同じでしょう。その髪型、その猫背気味の背中。学生の頃のわたしを見ているようです」


 わたしたちは、無性別なのだ。誰がなんと言っても、女じゃないし、男になんかなりたくない。誰にも性的に見られないモノ。そうなりたくて、たまらない。


「性欲がないことに気づいた、とおっしゃいましたね。それにも名前があります。ノンセクシャルといいます」


「ノンセクシャル……単なる性嫌悪ではなく?」


「大概の場合は混同されがちなのですが、他人に性的に惹かれないという意味では、どちらも変わりません。あくまで自分の解釈ですが」


「いいんですそれで。沢木さんの解釈で構いません。沢木さんも、その、ノンセクシャルなのですか」


「自分は、アロマンティックという恋愛感情を持たない人という属性もあるので、アロマンティックノンセクシャルのことを、アセクシャルと呼びます。自分はそれです」


「じゃあわたしもそれです、恋人がほしいなんて思ったこともないです」


「そうですか、珍しいですね。同じ事業所にLGBTの人がいるだけでなく、同じA属性とは」


「思うに、沢木さんとわたしは同じような体験をしているから、だと思います。直感を信じてよかったです」


「それはどうも」


 沢木さんは急にいつものつっけんどんな態度に戻った。調子が狂う。


「最近、夢でまたレイプされるのですが、必死に逃げても、叫んでも、通じなくて、不快感とともに覚醒するんです。これはなんですか?」


「それは、おそらく、PTSD。トラウマです」


「……沢木さんも、ありましたか?」


「ええ、自分も悩まされています。今も」


「今も?」


 沢木さんは頷いた。もう30代前半くらいなので学生時代の2倍の歳になっているというのに、今もPTSDで悩まされているとは、心の傷は治らないというのは本当だなと思った。


「山川さんの周りの方は、『ちゃんと愛する人とセックスすればそんなものは治る』なんて言いますか?」


「まだ誰にも話していないですが、母は言いそうですね……」


「その手の言説は嘘ですよ。セックスはいつも男性優位の暴行です。あくまで自分の解釈ですが。愛のある暴行とはなんでしょう」


「……DV加害者みたいなこと言いますね」


「同じようなもんでしょう。山川さん、本性出していいんですよここでは。正直同じこと思っていたでしょう」


「……はい、……あのおぞましい行為に愛なんて関係ないです。どんなに人間的に惹かれた人がいたとしても、同じことをしたいかと言われたら断固拒否です」


 沢木さんは頷いた。わたしたちの価値観はどこまでも一緒らしかった。


「もちろん自分たちの方が異端なのはわかっていますよ。生殖本能の欠落は生物として重要な欠陥です。拗らせると、赤子まで気持ち悪く見えてくるので拗らせないほうがいいですよ」


「……拗らせないためには?」


「……わかりません」


 沢木さんとわたしは笑った。お笑い番組を見ているかのような笑い方だった。





 拝啓、わたしの中の『性』という要素へ

 わたしはあなたと仲良くできそうにありません。いろいろ考えましたが、一度殺された人間が、欠陥もなく生き返るのは変だと思うんです。性の要素の欠落。そうあるべきなんです。あなたがいちばんに殺されたのだから、おとなしく死んでいてください。

 あなたとの関係は、死体と傍観者、それでいいです。

 どうかお元気で、って死体に言うのは変ですね。

 あなたの死体のために苦しむことは多いと思うけれど、あなたを生き返らせるよりは辛くない。

 さようなら、あなたのことはちゃんと忘れないから。

                   敬具




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