3 - 6 響野

 Xビルのオーナー、死んだ灰沖の友人は無藤むとう明星めいせいという名前だった。

「明けの明星か」

 その場にしゃがみ込む木端には水を、カウンター席から動けなくなっている間宮にはアイスティーを、メモを取る手を止めて硬直する響野にはアイスコーヒーを、困惑した様子で丸椅子に腰掛けている清一にはココアを、封筒を丁寧な手付きで鞄に片付ける稟市にはブレンドコーヒーを、そして丸テーブルに突っ伏したまま何も言葉を発さなくなってしまったヒサシにはレモネードを配りながら、オーナーが言った。

「俺でも知ってるぞ。明けの明星。ルシファー」

「悪魔の王様の名前ですねぇ」

 ブレンドに口を付けながら稟市が薄っすらと笑う。木端が飛び上がるようにして立ち上がり、トイレに駆け込んでいった。おそらく嘔吐している。

「諸説ありますね、ルシファー。サタンと同一人物であるという説。かつては天上でいちばん美しい天使であったけれど、神に叛いた罪で堕天させられたという説」

「明星。いい名前だと思うが、偶然か?」

「無藤家の戸籍謄本を手に入れました」

「なんでもありか、弁護士は」

 こわいこわい、と肩を竦めたマスターはカウンターの中で水を飲んでいる。

「おじいちゃんは」

 と、不意に響野は口を開く。

「いないの、きょうだい」

「血の繋がったきょうだいはいないな。オギャアと生まれた時にはいたかもしれないが、知らん」

 だが、盃を交わした兄弟分は大勢いたぞ。全員死んだが。カラカラと笑う祖父に女性のきょうだいがいる姿は想像し難い。いたかもしれないが、知らん、という大雑把な返答は、それはそれで正しいのかもしれない。

「Xビルオーナーの無藤明星氏と、この手紙の送り主である無藤絹代きぬよ氏は血の繋がったきょうだいです。絹代氏が姉、明星氏が弟」

「つまりその……ビルを建てる時に地鎮祭すら行わなかった人間が、実の姉とのあいだに子どもを作った、と。そういうことなんですか?」

 稟市の開陳する情報を繋ぎ合わせると、それ以外の結論に辿り着くのは不可能だ。絹代、明星姉弟のあいだに何があったのかを、送られてきた手紙以外から想像するのは難しい。無理だ。

 ただ、絹代が送ってきた──と思しき手紙からは、弟の明星に暴行をされたという気配も感じない。『姉のわたしが引き受けました』と書かれていたのだ。引き受けた? 何を? 世継ぎの出産を、だ。無藤家とはそうまでして世継ぎを拵えなくてはならないほどの名家なのか。少なくとも響野は無藤という名を灰沖から聞くまで知らなかった。それに灰沖自身も、Xビルのオーナーとしての無藤について進んで語ろうとはしなかった。理由はなんだ。灰沖が既にこの世にいない以上、何も分からない。

「戸籍謄本を手に入れたと言ったでしょ」

 市岡稟市は淡々と続ける。

「無藤明星氏の現在の妻の名は初子はつね。旧姓は、

「死んだ人と同じ苗字や」

 清一がぽかんとした様子で呟く。トイレのドアを乱暴に締めて木端が店内に戻ってくる。濡らしたハンカチのようなものを右手で強く握っている。

「拝み屋」

「はい」

 吐き捨てた木端が、稟市にハンカチを押し付ける。稟市が黙って開いたそこには、数本の髪の毛が混ざっている。

「もっといっぱいあったけど、ちぎってトイレに流した」

「木端、便所が詰まったらどうするんだ」

 呆れた声を上げる逢坂に「詰まったら業者呼びますよ! 自腹で!」とこめかみに血管を浮かせて掃除屋筆頭は喚いた。

「最悪だ……腹も痛い。妙な感じがする……」

「疑似妊娠」

 どこからか取り出したジップロックにハンカチごと髪の毛を片付けながら、稟市が応じた。

「は? 疑似? 冗談だとしたら殴るぞ、拝み屋」

「いえこちらは結構本気で。つまりこの手紙の送り主である無藤絹代さんは、大勢の人に

 知ってほしがる。

 なにを。

「捨てられた赤ん坊がいるということを」

 思い出す。灰沖に見せられたXビルオーナーの写真。響野よりもだいぶ年上の四十代ぐらいに見えた。灰沖と無藤は高校時代の友人だという。現在の武藤の妻である灰沖の妻は、姉なのだから灰沖よりは年上のはずだ。

 無藤絹代と無藤明星のあいだにはいったいいつ子どもが生まれたのか。いつその子どもは生きたまま井戸の中に捨てられたのか。


 その井戸というのは、Xビルが建っているあの土地に嘗てあった井戸と同じ井戸なのか。


「無藤明星と灰沖初子の結婚は今から数えて、ええと、10年以上は前の話ですね」

 そうなると、絹代・明星姉弟のあいだに子が生まれたのは更に前の話になる。

「ところが、無藤絹代さんは18歳で命を落としている」

「はあ!?」

「18!?」

 いかにも具合の悪そうな表情で壁に凭れて立っていた木端と、カウンター席でアイスティーを啜る間宮の声音が重なった。

「そう」

 鞄の中の真っ白い封筒たちを示しながら、市岡稟市は大したことでもなさそうな口調で言った。

「この手紙は、あの世から送られてきているものなんです」

「勘弁して……」

 呻いたのは木端でも間宮でもない。市岡ヒサシだ。

 死にかけの虫のような顔色で丸テーブルに額を押し付けるヒサシが、ゆっくりと左手を上げる。

 指で、カフェの最奥を指し示す。

 それだけ言って、ヒサシは沈黙した。眠って──というか、気を失っている。

 響野が知る限り、ヒサシは怪異を恐れない男だった。ほとんど無敵だった。市岡家の能力は代々女性が引き継ぐ。血の繋がりは関係ない。市岡家に生まれた子どもが男児であれば、その子どもが成長して婚姻関係を結んだ女性の自動的に能力が宿る。男性は常に女性の補佐役だ。市岡家の三きょうだいも将来はそうなる予定だったのだろう、と響野は想像している。稟市とヒサシ、そのあいだにいたはずの女性。妹であり姉である女性。稟市とヒサシは彼女の補佐をしながら拝み屋として、人間として、生きていくはずだった。十になる前に死んだヒサシの姉、稟市の妹。その彼女が、今この店にいるというのか。

 稟市が呟いた。

「俺には見えないけどな」

 つるぎ、というのが死んだきょうだいの名前だと、以前響野はヒサシ自身から聞いたことがある。

 ヒサシに見えて、稟市に見えない、その理由は何だろう。

 ヒサシが弟で、稟市が兄だから、だろうか。

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