ひとつ 理由がある

1 - 1 響野

 問題のXビルからはだいぶ離れた新宿区、歌舞伎町。Xビルと良く似た雑居ビル、その地下階にある小さな喫茶店で、ライターの響野きょうの憲造けんぞうは友人の長谷川はせがわ清一しんいちと顔を突き合わせていた。

 清一は現在19歳。日の高い時間は所謂建築現場で仕事をし、週に何日かは定時制高校に通っている。高卒の資格を得たら次はどうにか大学にも通いたい、そのために肉体労働をして金を稼いでいる、と自身の夢をはっきりと口にするタイプの若者だ。清一は関西圏の出身で、響野が以前関西の雑誌社に勤務していた頃に知り合った。当時の清一は今よりももっと少年で、どこか危うげで、6つ年上の響野は彼のことがいつも心配だった。


 響野の勤務先の雑誌社が倒産し、しかし発行していた雑誌の特異性を買われて響野を含む社員たちは東京に本社がある有名出版社に纏めて引き取られた。出版社内の一角に『』という雑な名前の部署が作られて、現在は響野は顔馴染みの記者や編集者たちと関西圏にいた頃と似たような仕事をして過ごしている。


 清一はといえば、響野が異動になったのと近いタイミングで、関西を離れて東京にやって来た。別に響野を追って来たわけではない。清一には親がいない。血の繋がった親が。代わりに彼を育てている男性の職場が、関西から関東に大きく移動したのだ。「今、東京におんねん」と清一から連絡を受けた際、本当に驚いたのを響野は昨日のことのように覚えている。清一が、関西でどのように大人になっていくのか。響野は彼の人生に友人という立場を超えて関わることはできないから心配することしかできなかったけれど、それでも、関西にいる頃の清一は──そのまま生きていたらいずれヤクザになるしかない。さもなくばもっと碌でもない、名前のないチンピラになるしか。そんな環境で暮らしていた。

 育ての親と共に東京に居を移し、仕事と通学を始めて清一は変わった。夢を持つようになった。大学に行きたいという話は、育ての親には既に通してあるのだという。「大学で何を学ぶんや」と笑う育ての親に、「知らんことを知りたい」と清一は返した、そうだ。知らんことを知る。そのために清一は、今、生存することに命を賭けている。


 響野はそんな彼に、建築現場の仕事とはまた異なる仕事を頼んでいる。Xビルの怪異について話して聞かせたのも、その一環だ。


 カウンター席に並んで腰を下ろしたふたりはそれぞれ、響野はブレンド、清一はアイスコーヒーを飲んでいる。飴色のカウンターの上に滑らせた写真を清一は左手で摘み上げ、小首を傾げてじっと見詰める。脱色を繰り返してほとんど白に近い金色の髪が、さらさらと揺れた。関西に住んでいた頃は坊主頭だった。外見の印象はガラッと変わった。だが、内面は響野の知る少年のままだ。

「ここの、奥んとこ」

 開店休業状態のバーに乗り込んで、店主を拝み倒して撮らせてもらった写真だ。ライブハウスとクラブが完全に閉店し、運営会社幹部が5階の事務所に引きこもってしまっているという異常な状況に、バーの店主も困り果てていた。「もしかしたら写真を撮ることで事態が変わるかもしれないし、私は記者なのでお祓いなどを行う別の霊能者にお繋ぎすることができません」という響野の口八丁に、バーの店主は悩みに悩んだ上で首を縦に振った。使い捨てカメラでバーのカウンター席、立ち飲み用の丸テーブル、カウンター内の特に水回り、店の奥にある小さなキッチン、それに男女共用のトイレを撮影し、「結果が出たらお知らせします」と名刺を渡して店を引き上げた。それが二日前のことだ。

「現場の怪異いうたら、そらもう井戸と桜やろ」

「清一毎回それ言うな」

「響野くんが井戸と桜周りの話しか持ってえへんからや。この写真──」

 と無人のキッチンが写った一枚を示して清一は続ける。

「パイプが出とるやろ。ぴょこっと」

「ああ、水道の奥んとこね」

「パイプの周りだけ妙に綺麗にしとんの分かる? 響野くんは現場見とるから分かるか」

 と、細い目を更に細めて清一は笑う。響野は、現場をきちんと見ていない。見たくなかった。上のフロアをほぼ全滅に追い込んだ黒い髪に白い顔をした女の幽霊──らしき存在にエンカウントするなんて絶対にごめんだ。しかもその幽霊に出遭った人間はもれなく怪我をするか、理由の分からない大きめの体調不良に悩まされている。冗談じゃない。絶対に巻き込まれたくない。だから、バーの店主には一旦店の外に出てもらって、怪しそうな場所にカメラを向けて適当にシャッターを切った。薄暗い場所ではフラッシュを焚いたが、目は逸らしたままでいた。

「ちゃんとなんか見てねえわ」

「あかんて。俺に確認さす前に自分で確認せえや、ほんまに……」

 まあええわ、とキッチンの写真だけをカウンターに残し、他の写真を響野の手元に押し付けながら清一は続けた。

「これは、用のパイプ」

「息抜き……前にも聞いたことあるな。なんか、井戸を潰す時に作るっていう」

「そうそう。井戸には水の神様が住んどるから、そこを潰して何かを建てるって時には神主だら坊さんだら──まあなんでもええけどそれっぽい人を呼んで、ちゃんとお祓いして、それからこういう息抜き用のパイプを付けなあかんねん。神様が土の下に閉じ込められることがないようにな」

「おまえの仕事先でもそういうことすんの?」

「するで。施工に関係ある人できるだけ全員呼んで、ええお酒買うてきて、神様に頭下げてお願いするんや。事故りませんように。俺ら神様のこと蔑ろにせえへんから、神様も俺らのこと怒らんとってください──って」

 詳しいねえ。カウンターの中から声が聞こえた。この喫茶店のマスターだ。響野の祖父でもある。

 銀色の総髪をうなじの辺りで一纏めにしたマスターは、清一の前に新しい水が入ったグラスと、ミルクたっぷりのアイスカフェオレを置く。大きく目を瞬かせた清一が、

「注文……」

「奢りだよ。先を聞かせてくれ」

「じいちゃん!」

 これは仕事なのだ。響野の。それなのにこの店のマスターは、響野の祖父は、清一の言葉をまるでラジオを聴くように楽しんでいる。

 アイスカフェオレを遠慮なく口にした清一は、「そんで」とカウンターの上に残されたキッチンの写真を人差し指で示す。

「このパイプは、たぶんやけど、ビルが建ってから誰かが個人的に付けたモンやと思う」

「個人的に?」

「ビル自体わりと新しいんやろ? ってことは建築時にオーナーとかそういう……どういうポジションかは分からんけど、ビル建てる時の責任者の人が、ここに井戸があるんを無視したんと違うかな」

 ライブハウス運営会社の幹部が主催で行ったお祓いの件を思い出す。お祓いの現場には響野自身は足を運んでいないが、スポーツ新聞だかなんだかの片隅に載っている記事は見た。東京都内ではない場所に住んでいるオーナーの写真も目にした記憶がある。若かった。清一や響野よりはもちろん年上だが、40代──いや、もっと若いかもしれない。

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