【第十六話】「淫魔、風に駆ける! アランと初めての自転車」
都内S区のマンション508号室、土曜日の朝。
「ううん……おはよう、アラン君」
昨日、部署の飲み会でタクシー帰宅した30代独身会社員女性の守屋美希・通称ミキちゃんは重い頭と体をベッドから起こす。
「ミキさん、おはようございます!」
そんな彼女に爽やかなモーニング笑顔で応えるのは同居人の淫魔族の青年・アランだ。
「おはようアラン君! あれっ……そのでっかい箱は何?」
部屋の隅に置かれた見慣れぬ大きなダンボール箱にミキちゃんは目をこする。
「ええと、確か茶摘さんが言うには……飲み会のビンゴゲームでミキさんに当たった折り畳み自転車だとからしいですけど」
「ああ、そうか……」
昨日の人事部の飲み会企画、ビンゴゲーム。
ミキちゃんは参加賞のコーヒーチェーン店プリベイドカードを狙っていたのだがタイミング悪くも揃ってしてしまいラスト一個の特別賞の自転車をゲット。かくして大きな重い自転車と共に帰宅せざるを得なくなった彼女を気遣った清井人事部長は前払いでタクシーを呼び、茶摘に運搬係を命じて同乗させS区のマンションに帰宅……現在に至るのであった。
「そういう事なのよ……どうしたものかなぁ?」
ミキちゃんはトーストにコーヒー、美佐子さん特製ジャムの朝食を食べつつ昨夜の事をアランに話す。
「へえ、そうだったんですね。ところでジテンシャって何ですか?」
予期せぬアランのボケ回答に、 ミキちゃんの手からトーストが滑り落ちる。
「あっ、危なかったわ! お皿の上でセーフね! まさかとは思うけど……アラン君は自転車を知らないの?」
ミキちゃんはジャムまみれになったお皿をトーストで拭いつつ、スマホを操作。
自転車の画像検索結果をアランに見せる。
「ああ、これが自転車なんですね! ウーパールーパーのロゴが入った正方形のリュックな出前代行業さんたちが乗っている……知りませんでした!」
「うん、そうだよ……魔界には自転車って無いの?」
「ええ、ありません。魔界の住人は身体サイズのみならず体の構造も種族毎に全然違うのでこの自転車を使える種族って……小型の獣人か淫魔族ぐらいしかいないと思います」
「ああ、そういえばそうだったわね。『淫魔族は魔界でも一番人間に近い生物』だったっけ?」
ミキちゃんは以前アランに聞いた事を思い出す。
「はい、そうです。その淫魔族も基本は飛行能力で移動しますし、乗り物と言えば都市部では籠や馬、遠出する時は馬車か小型種のドラゴンもしくは大型の猛禽類なので……こういう一人乗りが出来る乗り物は無いですね」
「大型の猛禽類……? まあそれはさておき、アラン君が良ければアレ使う?」
ミキちゃんはお皿を片付けながらアランに聞く。
「でもあれってミキさんがいただいた物なんですよね?」
「まあそうなんだけど……私はほとんど使わないだろうし、ネットで転売とかリサイクルショップに売りに行くのも面倒なデカさと重さ。それに、会社の付き合いって立場もある以上……そんな事をしたとばれたら」
「えっ、ええと。とにかくわかりました。ミキさんとしては僕にこのジテンシャと言う乗り物を使って欲しい……そういう事なんですね? それでしたら喜んで!」
どんよりとしたミキちゃんの声に色々な大人の事情を察したアランは慌てて取り繕う。
……それから数日後、マンションからかなり離れた神社境内。
「はあ、バランスを取るのって難しいなぁ……」
日曜日に公園でミキちゃんと自転車の練習をしていたら子供に笑われ、ミキちゃんもろとも日中堂々変なプレイに及ぶ不審者として通報されたアラン。
たまたま通りかかったそば屋の源さんのおかげで誤解は解けたのはさておき、これ以上ミキさんに迷惑をかけられないと判断したアランは自転車利用計画を大幅変更。
アランは飛行移動中に見つけていたS区中央商店街の裏にある人気のない神社で日中に練習する事にしたのだが、座りが安定しない上にバランス感覚が難しく文字通りの七転八倒していた。
「もしもし、そこの若者よ……」
「あっ、すみません!」
社の階段に腰かけて休憩中だったアランは慌てて立ち上がり、どこからともなく現れて声をかけて来た白着物に袴の若い神職の男性に謝る。
「いや、謝らないでください。私はここの管理人です。先ほどから貴方の練習を見ていましたが……どうしても気になってしまい声をかけた次第です。もしよろしければ、その自転車の調整をして差し上げますよ?」
「そんな事出来るんですか?」
「はい! お恥ずかしながら神職とは言えこの閑古鳥っぶり……何でも自分でやらなくてはならないのでDIYはお手の物ですよ!」
神職の男性は浮くような小走りで音も立てずに敷地奥の物置小屋に向かい、工具BOXを取り出して戻ってくる。
「お待たせしました、調整完了です」
「あっ、ありがとうございます」
座る部分と掴む棒の高さを少し調整し、中にある鎖の部分をいじっただけの自転車にアランは恐る恐るまたがる。
「あれっ? おおっ!」
台座と足を乗せる場所のフイット感に握り手の安定感。そしてアランの踏み込みに応えるように気持ちよく動く車輪……神職の男性がにこやかに見守る中、神社の境内を走るアランは飛行移動とは違う風の気持ち良さに心が躍る。
「神職さん! ありがとうございま……あれ?」
工具BOXもろとも煙のように消えてしまった管理人だと言う神職をさがしてアランはあちこち探しまわるがどこにもおらず、彼が工具BOXを取り出していた物置小屋も何事も無かったかのように薄汚れた鍵がかかったままだ。
「魔力反応は無い。魔界の者ではないとすればここの神様……だったのかな? ありがとうございます!」
淫魔アランは手持ちの小銭を賽銭箱に入れ、神様に感謝すると自転車にまたがって自宅への帰途につくのであった。
【完】
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