48.寓話



 蚯蚓きゅういんは勝手に三杯目を手酌で注ぎ、今度はちびりとめる。


「大体、貴方と云う人は別離と云うものにからきし弱い。人の生き死ににも極端にへこたちだし」

「――ふん」


 蚯蚓は口の端でにやりと笑った。


「貴方は医者にならなかったのじゃなくて、んでしょう」

「うるさいなぁ」


 医学でなく、薬学を目指した本当のところの図星を指され、思わずムキになった蜻蜒を見、蚯蚓は「ぶっ」とき出した。


「そうそう。その調子で誰とも付き合えばよいのです。全く、ワタクシは貴方以上にかわいらしい人間と逢ったことがない」


 ぐっ、とつまった蜻蜒せいていに、蚯蚓きゅういんはなおも噴き出した。

 二十代後半に差しかかったころから、蚯蚓は恰幅かっぷくがよくなってきている。今度こそゆっくり呑むつもりだったのだろうが、結局三杯目もかぱりと飲み干した。さかずきを卓子に置いてから、蚯蚓は身軆からだを少し前傾ぜんけいさせる。すい、とこちら側に目線を上げ、同時に蚯蚓は手指を組み合わせた。


「貴方は素直過ぎるのですよ。昔はこんな調子でやって行けるのかと案じたものですが、それも結局は徒労だったのかも知れませんね。貴方の元には、貴方に合った人間が集まってくるのでしょう。局地的に受けるタイプですしね」

「局地的」

「つまり、貴方のキャラクターにハマったら最後ということです」

「――私はアリ地獄か?」

「どちらかと云えば猫にマタタビ」

「つまり、お前もマタタビに酔った猫なのだな? わかっているなら中毒から脱出する努力ぐらいしてみればよいものを」

「毒を喰らわば皿までですよ」

「ひどい云い草だ」


 蚯蚓きゅういんは笑いながら立ち上がり、部屋の隅にどっしりとうずくまっているサイドボードから、ウイスキーを抜き取った。この男、実はザルである。当り前のようにボトルを手にして戻り、琥珀色の液体を杯にとくとくと注ぎ込んだ。ストレートを掌で温めながら呑むのが蚯蚓流である。切子硝子を両掌で包みながら、半ば前傾姿勢で酒の芳醇なかおりを聞く様子は、中々さまになっていた。この体型も伊達ではないのである。


「――そう云えば、きちんと聞いたことがありませんでしたね。蜻蜒。あなたはどうして〈柘榴病ざくろやまい〉の研究を決めたのですか?」


 ちびりとウイスキーを嘗めながら問うた蚯蚓きゅういんに、一瞬蜻蜒せいていはつまった。蚯蚓にもそれは気配で知れる。


「あの、無理に聞きたいと云うのではありませんが」

「いや……」


 一瞬迷ったことは事実だ。今まで誰にも話さず心の底に隠してきた。しかし、今では錵鏡にえかがみが己の下へ弟子入りするにいたっている。それほど季節は過ぎていた。ならばそう執拗に隠し立てする必要もないのではないかと、己でもわかっている。それに……。


 話を聞いて欲しい――とも思ったのだ。


「ある時、私にこう聞いた男がいた。「君は、『飛烏とびがらす童話』を知っているか」と」


 蚯蚓は右肘を掻きながら、「ああ」と背凭れに身軆からだをあずけた。


はなむけですか」


 蜻蜒せいていは眼を見張り、蚯蚓とは反対に身軆からだを背凭れから起こす。


「――何故わかった」

「……あなたは、一度性格検査を受けたほうがいいですよ」


 何故そう云われてしまうのかすら、わかっていない蜻蜒に、蚯蚓は微笑みかけた。蚯蚓は、話をごまかすことが得手なのである。


「その口調は、餞のものでしょう」

「ああ」

「それで? 飛烏童話でしたね」


 はなしを脱線させることが趣味ならば、それをふり出しに戻すことも蚯蚓きゅういんの得手だ。蜻蜒せいていは杯をことり、と卓子上におく。吐息と共にかすかな酔いを逃がし、露結ろけつの水が残る指先の感触をごまかそうと、掌をぱしりと合わせ、組んだ。



 飛烏童話――は、有名すぎる寓話ぐうわである。



「――『みんなはいつも忘れてしまうのです。

 子供のころのことを。

 みんなはいつも忘れてしまうのです。

 お母さんのおなかの中にいたころのことを。』――か」


 蜻蜒は静かに暗誦あんしょうする。それが、飛烏童話の冒頭部だった。 





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