21.裏切って欲しいの。
*
『
ハル子さんは浴衣一枚を身につけ、
「まぁ、何とも気だるい」
突如、背後でした女の
そこにいた女は、緋色の
確かに、つい先ほどまでこの『
「本当に。ハル子さまが持つのは、まるで男のような色香ですわね」
「なに。姫さまが、婿候補者の部屋へ
ハル子さんが
「一体どうやってこの部屋まで? ここまでたどり着くには候補者の部屋の前もいくらか通らなくてはならなかったでしょうに」
歌枕さんは、含みのある眼差しで、すっと指を持ち上げた。指は白い。指した方角は、参棟の最奥にある、この『火鼠の間』の更に奥の壁――いや。
「……非常階段から上ってきたのね」
合点したハル子さんに、歌枕さんは「ふふ」と声をもらしてから、ゆるゆると畳の上に腰を下ろした。
「大体、私は
「ですけれど、ハル子さまもお話し相手が欲しくていらっしゃいますでしょう」
「なにを」
「欲しくなるころです」
歌枕さんは、真ッ直ぐに云い切った。
「そんなことは」
「欲しいはずです。欲しかった、と
ハル子さんは細めた眼で歌枕さんを見つめ、やがて
「まったく――」
嘆息ついでにハル子さんは、片膝立てていた脚を下ろし、桟に腰を預けたまま歌枕さんのほうへ向き直った。
「困ったものね、
歌枕さんはしっとり座り込んだまま、「ふふふ」と口角を美しく持ち上げて笑う。
「ハル子さまは特に、今のままでは
「貴女はそれでいいでしょうね。内心『ザマヲミロ』なんて思っているのじゃないの?」
「ハル子さま、お言葉が過ぎますわよ」
さすがのハル子も己の失言を自覚し、歌枕さんへ謝罪した。歌枕さんは手持ち無沙汰に花瓶の花を一輪抜き、
「――ですが、さすがにわたくしも腹にすえかねておりましたわ」
「あら。やっと本音をもらしたのね」
「わたくしが怒っていないとでも思っていらっしゃいましたか?」
「いいえ」
ハル子さんは
「貴女が彼を愛していることも、彼が貴女を愛していることも、よくわかっているわ。これは貴女達の問題であると同時に私の賭けでもあるのよ。わかっているでしょう?」
「でも……でも姫、姫さまは、彼の存在を知っていらっしゃったじゃないですか」
「どうして、どうしてこんな、意地の悪いことを……」
「貴女の口から、彼という存在があることを聞いていたに過ぎないわ。『
歌枕さんは答えず、まんじりとした眼で葩弁を千切った。ハル子さんは指を組み、冷ややかな口許を笑みの形にして見せる。それは、とても歪んで見えた。
「もし彼が皇太子の半身だったとしたら、彼は本当に姫を裏切れるかしら? 本当に貴女を伴侶と定められるかしら?」
「ハル子さま……」
「私はね、彼に裏切って欲しいの。半身を捨てて欲しいのよ」
歌枕さんは、そこで初めて眼を見張った。ハル子さんは、静かな
「もし彼が貴女を裏切ったら、私は絶大なる失望を味わうわ。しょせん『魂音族』は半身という運命を断ち切れないのだというものを見せ付けられて。だけどその代わり、私は巨大な権利を得ることになる――下限を十二年としてね。そして彼が貴女との愛に殉じれば、私は権利を得られない代わりに、未来への希望を――変革の可能性を――得ることになる。前者ならば私は失望の変わりに代償を得、後者ならば利益ゼロの変わりに希望を得る。丸損と云うことはありえないわ」
「ハル子さま……それは、
「わかっているわ。これは私の心のためだけの、自己満足よ」
「そのために、わたくし達の感情を
「その程度のことで騒ぐのじゃないわ。私を誰だと思っているの?」
「――……。」
歌枕さんは溜息を落とし、静かに散らした葩弁を
「ところで歌枕さん。話は変わるけれど、うつぼ君が色々と気付きはじめているわ。まったく厄介だこと」
「うつぼ君――あの、目許が涼しい少年ですか?」
「そうよ。とても
何気なくその言葉を云った後で、ハル子さんははっとした。
「ねぇ。貴女に彼の聲は美しく聞こえる?」
「さぁ――極々一般的な、でも美しいとは云い難い、少し凝った音に聞こえますけれど?」
ハル子さんは口許を被い、しばし絶句した。
「どうしよう――それはつまり、彼が……」
歌枕さんもそのことが示す事実に思い至ったらしく、「ああ」と吐息をもらした。
「どうなさるおつもりですか? まぁ、これで彼は皇太子の婿とは違うことが明らかになり、わたくしの父はハズレたと云うわけですけれども」
ハル子さんは、
「こういう――予想外の伏兵を突きつけられるのって、私、大嫌いよ」
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