21.裏切って欲しいの。


          *


 『火鼠ひねずみの間』の窓際で、徐々に膨れてゆく月を見上げていた。


 ハル子さんは浴衣一枚を身につけ、さんに片膝を立てている。ひじをその上に立て、頬杖をついた様は、ふわりと乾いていた。夜の匂いが、まったりと水気を孕んでいるぶん、その対比は際立っていた。


「まぁ、何とも気だるい」


 突如、背後でした女のこえに、ハル子さんはゆるゆると首を巡らせた。頬に触れていた指を外す。ハル子さんの骨張った白い手首は行き場を失い、宙に留まった。裾を割って表にさらされているすねひざも、同様に白い。ハル子さんは、そこに女の視線を感じ、腹の下が冷える感触を味わった。


 そこにいた女は、緋色の襦袢じゅばんの着物を重ねてまとっている。湯上りの女は、夜気そのもののようでさえ、あった。


 歌枕うたまくらさんである。


 確かに、つい先ほどまでこの『火鼠ひねずみの間』にはハル子さん以外の、生きた者の気配はなかった。それがほんの一時。ハル子さんが、月光に照らされ、魂を散らすが如く光る桜の枝葉を見下ろしている間に、それこそ降って湧いたかの如く、と女の気配は室内に現れ出たのだ。


「本当に。ハル子さまが持つのは、まるで男のような色香ですわね」

「なに。姫さまが、婿候補者の部屋へ夜這よばい?」


 ハル子さんがあきれ声でつぶやくと、歌枕うたまくらさんはくすくすとやわらかく、そしてくぐもった笑い声を響かせた。


「一体どうやってこの部屋まで? ここまでたどり着くには候補者の部屋の前もいくらか通らなくてはならなかったでしょうに」


 歌枕さんは、含みのある眼差しで、すっと指を持ち上げた。指は白い。指した方角は、参棟の最奥にある、この『火鼠の間』の更に奥の壁――いや。



「……非常階段から上ってきたのね」



 合点したハル子さんに、歌枕さんは「ふふ」と声をもらしてから、ゆるゆると畳の上に腰を下ろした。


「大体、私は貴女あなたに見合いの間は話しかけてこないようにと云ったはずだけれど」

「ですけれど、ハル子さまもお話し相手が欲しくていらっしゃいますでしょう」

「なにを」

「欲しくなるころです」


 歌枕さんは、真ッ直ぐに云い切った。


「そんなことは」

「欲しいはずです。欲しかった、とおっしゃいませ。嘘はいけませんよ」


 ハル子さんは細めた眼で歌枕さんを見つめ、やがてあきらめの嘆息をこぼした。


「まったく――」


 嘆息ついでにハル子さんは、片膝立てていた脚を下ろし、桟に腰を預けたまま歌枕さんのほうへ向き直った。


「困ったものね、鬼打木おにうちぎさんにも。ちゃんとお見合いの場に出てきてくれなくては困るわ」


 歌枕さんはしっとり座り込んだまま、「ふふふ」と口角を美しく持ち上げて笑う。


「ハル子さまは特に、今のままではが悪くていらっしゃいますものね」

「貴女はそれでいいでしょうね。内心『ザマヲミロ』なんて思っているのじゃないの?」

「ハル子さま、お言葉が過ぎますわよ」


 さすがのハル子も己の失言を自覚し、歌枕さんへ謝罪した。歌枕さんは手持ち無沙汰に花瓶の花を一輪抜き、葩弁かべんを千切る。「風邪をひくわよ」とハル子さんが忠告してみれば、「ハル子様のほうが薄着でしょう」と返された。

 暫時ざんじ間があく。歌枕さんは、ふいに溜息をもらした。


「――ですが、さすがにわたくしも腹にすえかねておりましたわ」

「あら。やっと本音をもらしたのね」

「わたくしが怒っていないとでも思っていらっしゃいましたか?」

「いいえ」


 ハル子さんはすその乱れを直し、自身の首筋につと触れた。そのまま鎖骨までを撫でる。自身の膚肌は、上等な陶器のように、よく冷えていた。

「貴女がを愛していることも、彼が貴女を愛していることも、よくわかっているわ。これは貴女達の問題であると同時に私の賭けでもあるのよ。わかっているでしょう?」

「でも……でも姫、姫さまは、彼の存在を知っていらっしゃったじゃないですか」


 歌枕うたまくらさんのこえが震える。もしや酔っているのでは――と疑った。


「どうして、どうしてこんな、意地の悪いことを……」

「貴女の口から、彼という存在があることを聞いていたに過ぎないわ。『魂音族こんいんぞく』は、相手のこえを聞いて、初めて己の半身であることを悟るのよ。可能性がゼロだった訳ではないわ。そうでしょう?」


 歌枕さんは答えず、まんじりとした眼で葩弁を千切った。ハル子さんは指を組み、冷ややかな口許を笑みの形にして見せる。それは、とても歪んで見えた。


「もし彼が皇太子の半身だったとしたら、彼は本当に姫を裏切れるかしら? 本当に貴女を伴侶と定められるかしら?」

「ハル子さま……」



「私はね、彼に裏切って欲しいの。半身を捨てて欲しいのよ」



 歌枕さんは、そこで初めて眼を見張った。ハル子さんは、静かなひとみの奥で鬼火のような熱を秘めている。


「もし彼が貴女を裏切ったら、私は絶大なる失望を味わうわ。しょせん『魂音族』は半身という運命を断ち切れないのだというものを見せ付けられて。だけどその代わり、私は巨大な権利を得ることになる――下限を十二年としてね。そして彼が貴女との愛に殉じれば、私は権利を得られない代わりに、未来への希望を――変革の可能性を――得ることになる。前者ならば私は失望の変わりに代償を得、後者ならば利益ゼロの変わりに希望を得る。丸損と云うことはありえないわ」

「ハル子さま……それは、詭弁きべんです」

「わかっているわ。これは私の心のためだけの、自己満足よ」

「そのために、わたくし達の感情をもてあそぶのですか?」



「その程度のことで騒ぐのじゃないわ。?」



「――……。」


 歌枕さんは溜息を落とし、静かに散らした葩弁をてのひらにまとめた。


「ところで歌枕さん。話は変わるけれど、うつぼ君が色々と気付きはじめているわ。まったく厄介だこと」

「うつぼ君――あの、目許が涼しい少年ですか?」

「そうよ。とてもこえが美しい……」


 何気なくその言葉を云った後で、ハル子さんははっとした。


「ねぇ。貴女に彼の聲は美しく聞こえる?」

「さぁ――極々一般的な、でも美しいとは云い難い、少し凝った音に聞こえますけれど?」


 ハル子さんは口許を被い、しばし絶句した。


「どうしよう――それはつまり、彼が……」


 歌枕さんもそのことが示す事実に思い至ったらしく、「ああ」と吐息をもらした。


「どうなさるおつもりですか? まぁ、これで婿ことが明らかになり、わたくしの父はと云うわけですけれども」


 ハル子さんは、苦蟲にがむしを噛みつぶしたように唇を引き結び、それから大きく溜息を吐いた。



「こういう――予想外の伏兵を突きつけられるのって、私、大嫌いよ」





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