はじまりのうたを考える

いつき樟

なにわづに さくやこのはな ふゆごもり

今は春べと

咲くや この花



「ちはやふる」でおなじみの競技かるたの最初に詠む、

難波津の歌。


一般にこの歌は詠み人知らず、

つまり、誰が詠んだか分からない歌であり、

にもかからわず、平安の時代には、

字の練習用に書く、手習いの歌

とまで言われていたそうだ。


誰が詠んだか分からない

けどみんな知っている


そんな歌だからこそ、競技かるたの序歌に選ばれたのも頷ける。



結論を言うと、私はこの歌が好きだ。

歌のリズムも、声に出したときの音の響きも好きだ。

さくやこのはな、という音の繰り返しも良いし、

なにより、この歌にまつわるエピソードが好きだ。


俗にいう、ググればすぐ出てくるので簡単に書くが、

この歌は仁徳天皇が皇子だったとき、

彼の弟君と、どちらが皇位を継ぐかと3年も揉め、

それでは国が立ち行きませんよと窘めた教育係が詠んだ歌だとか、


仁徳天皇が正式に皇位を継ぎ、

その即位をお祝いするために詠まれた歌だとか、


そういう逸話がある。



いずれにせよ、

難波津という歌い出しにあるように、

これは難波の宮の時代、

皇位継承に際して詠まれた歌だということらしい。


そして、この歌は一般に詠み人知らず、

誰が詠んだか分からない歌とされているが、

一説によると、仁徳天皇の弟君、

つまり、仁徳天皇と皇位継承で揉めた弟皇子に仕えていた、

「王仁」

という学者が詠んだものだという。


王仁という名前のとおり、彼は日本人……

当時でいうと倭人か、やまとびと、だろうか。

どちらにせよ、日本列島の者ではなく、

大陸、あるいは半島から来た者だというらしい。


そんな人間が、

日本で1000年以上も詠い継がれる歌を詠んだ

というのだから、実に興味深い。


さらに、仁徳天皇ではなく、その弟君……

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)

の、家庭教師として仕えていたとされており、

にもかかわらず、弟君ではなく、兄君の即位に際して

お祝いの歌を献上したというのも、また興味深い。



さて、こうなるとついつい下衆の勘繰りというか、

捻くれ者特有のナナメ読みが出てしまう。


なぜ王仁は、

「次の天皇、早よ決めなされ」

と急かす歌、

あるいは

「兄君のご即位、おめでとさんです」

という歌を詠んだのだろう。


普通の感覚なら、

弟君が即位したときに喜ぶ歌を詠み、

兄君が即位したら、静かに祝う、

あるいは都を去る

といった行動を取るのではないだろうか。


しかも調べてみると、

この弟君は、皇位継承の際に亡くなっているのだという。


なるほど、と。


つまり王仁は、実は仁徳天皇のほうに仕えており、

弟君の情報を流していた……

弟君暗殺、謀殺の下手人、

あるいはその協力者

であった。



……と、結論付けるのは面白いが、

だとするなら、と思う。


だとするなら、なぜこれほどの歌を詠めたのか。

なぜ現代にも歌い継がれる名歌を詠めたのだろう。


謀略に手を貸した人間に、

これほどの歌を詠める精神性が備わっていたのだろうか。


もしくは、

王仁の歌である

という情報がそもそもの創作であり、

別の人間が詠んだ歌を王仁の作とした、

だから現代では詠み人知らずの歌なのだ、

というふうにも考えらえるだろうか。



結局は過去の、

それも、日本史上では謎の時代とされている、

古墳時代の歴史であるため、

その真実は遥か闇の中である。





だからこそ、私はこう空想したい。




弟君の菟道稚郎子は、思った。


私よりも、兄上が皇位を継ぐのにふさわしい。

兄上には、仁と徳がある。


だから私は、死んだことにしよう。

私が生きていては、他の家臣が再び私をまつり上げ、

兄上の治世の邪魔をしてしまうかもしれない。


私は都を出て、遠く離れた地で静かに暮らそう。

王仁よ、今日まで私によく仕えてくれた。

これからは兄上を私と思い、

その知恵を兄上と、民のために用いて欲しい。



……弟君の願いを受け、

王仁は仁徳天皇の即位を祝う歌を詠んだ。


冬ごもる、雪の中のさくやこのはなに、弟君を。

春べの、咲き誇るさくやこのはなに、兄君を。

それぞれに思い描きながら。





綺麗すぎる、都合のいい妄想かもしれない。


けれど、ただの妄想というわけではない。

僅かながらの根拠もある。


ひとつ、

菟道(うじ)の名のとおり、

弟君を祀る神社は、京都府宇治市にある。


しかし、

なんと神奈川県平塚市にも、

この弟君を祀る神社があるのだ。


難波の宮は、現在の大阪市。

京都の宇治に、弟君を祀る神社があるのは、地理的に頷ける。

しかしなぜ、何百キロも離れた神奈川県に、

彼を祀る神社があるのだろう。


もちろん、都落ちをした弟君の家臣が、

弟君を忘れぬために、と祀ったのかもしれない。


けれど、難波の宮から遠く離れ、

兄の治世を眺めながら弟君が暮らした地、

あるいは弟君のゆかりの地、

という想像もできるのではないだろうか。



そしてもうひとつ、

この弟君の死、あるいは死に見せかけた都落ちを受け、

兄君である仁徳天皇は、

のちに聖帝(ひじりのみかど)と呼ばれるほどの善政を敷いたこと。


弟の謀殺を企てた者が、

民の貧困を救うために3年間税を取らないという

「民のかまど」

に語り継がれるような政治を行うだろうか。


そんな兄君の人間性を見抜いていた聡明な弟君だからこそ、

自ら皇位を退き、

自分に仕えていた知恵者である王仁に、

兄を支えてくれるよう願ったのではないだろうか。



もちろん、これもまた、後世の作り話なのかもしれない。

明治の世、数百年ぶりに権力に返り咲いた皇室が、

自身の統治の正当性を喧伝するために作った、

小奇麗なプロパガンダなのかもしれない。




けれど、思うのだ。


平安の時代には、手習いの歌と呼ばれるほど、

誰もが知っている歌になり、

それからさらに1000年の時が経った現代においても、

まだ詠み継がれる歌なのだ。


時代を越える芸術というのは、

それ自体が強い意志を持っている。


もちろん、百人一首の中にも、恨みや悲しみを詠んだ歌もあるから、

そういう負のオーラを持っているという可能性もある。



だからこそ、

声に出して詠んでみて欲しい。


音に出して、自分の体に響かせてみてほしい。



なにわづに

さくやこのはな

ふゆごもり


いまははるべと

さくやこのはな



少なくとも私は、

この歌にそういったネガティブなものを感じない。


あるとすれば、

雪の中、花開くのを待っている梅の蕾に対する、

寂しさを含んだ健気さ

のような感覚だろうか。



喜び、寿ぎの中にある、

僅かな哀しみ。

それを

「さくやこのはな」

という七音に込め、

わずか三十一音しかない音の中の、

十四音を用いてでも詠む。


だからこそ名歌と呼ばれ、

今もなお歌い継がれるだけの力を持っているのではないだろうか。



そんなロマンを感じさせる、

この難波津の歌が、

私は好きだ。

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