幕末武蔵伝

鳥海勇嗣

薄暮

──正保2年(1645年)

 九州は肥後国、熊本藩熊本城

 

「武蔵殿はまだお戻りになられんのかっ?」 

 上段の間※に座る、熊本藩藩主・細川光尚ほそかわみつなおは、苛立ちながら家臣に問うた。

(上段の間: 武家の屋敷で、下段の間に続いて、下段の間より床が一段高くなっている部屋。主君が家臣などに対面する場所とした。)

「はっ、再三にわたり使いの者を霊巌洞れいがんどうに遣っているのですが、武蔵殿はでも動かぬようでして……。」

 と、頭を伏したまま家臣が恐々として応える。

「いったい何が不満なのだ武蔵殿は? 新免武蔵をあんな洞窟で死なせたとあっては……我が藩は諸藩からの笑いものになってしまうぞっ」

 ──新免武蔵、またの名を宮本武蔵

 天下に名を響かせた剣豪は、その生涯、いかなる大名、武家にも仕えることはなかった。諸国を放浪し、行く先々で剣を教え束の間の弟子を取り、自由気ままな生活を送っていた。大名や地方の道場に世話になることはあっても、彼らが好待遇で召し抱えようとすると、さらに何千石もの高給をふっかけ仰天させ、頭を下げられたならば剣に値段はつけられぬと固辞をして、老年を迎えてもなお、風の向くまま気の向くままに放浪を続けていたのである。

 しかし、剣聖とはいえ病には勝てなかった。癌を発症した武蔵は、客分として過ごしていたここ熊本で、最後の時を迎えようとしていた。

 そして人生最後の大仕事として、また病床にある自分に尽くしてくれた礼として、熊本藩主細川家のために兵法書をしたためると約束した剣聖が、金鋒山きんぼうざんの洞窟で執筆を始めてから、かれこれ二年が経っていた。

「だいたい、例の兵法書も、既に書き上げられたと家中の者から聞いた気がするが……あれはどうなった?」

 後に『五輪書』として知られる書物、それらは既に武蔵の熊本での弟子、寺尾孫之允てらおまごのすけに手渡された後だった。

「恐れながら……どうやら、武蔵殿はそれでは満足がいかぬというようでして……。」

「満足がいかぬだと? むぅ……。」

 光尚は下唇を突き出し、腕を組んだ。

 確かに兵法に関してはこだわりの強い人物とは分かっていたが、まさかここまでとは。宮本武蔵の、最強の武人ならではのこだわりがあるのも分かる。光尚にも、武蔵がそう言うならば思うがままにさせてやりたいという想いもあった。しかし……。

 光尚の手元には往復書簡が握られていた。それは父・武蔵の安否を心配する養子の宮本伊織いおりからのものだった。

 宮本伊織はただの剣の上手に拾われた子供ではない。わずか二十歳で豊前小倉藩ぶぜんこくらはん(現在の北九州)の筆頭家老となってしまうほどの傑物である。武蔵が生涯、金銭にも屋根にも困らず放浪を続けられたのは、日本中に知られたその名から援助を惜しまない諸大名の存在もあったが、何よりも養子の宮本伊織の支えが大きかった。

 簡潔に言い表すならば、宮本武蔵とは諸国を放浪する小倉藩筆頭家老の家のご隠居だった。一つ付け加えることがあるとするならば、そのご隠居は天下無双の剣豪ということだ。

 武蔵が人物として図抜けているのは剣の腕だけではなく、人物としての突出もあった。伊織は武蔵と出会った頃には既に小笠原家に仕え、その聡明さから頭角を現していた青年だったが、伊織は出会うなりたちまち武蔵の人間性にほれ込み、それだけでは足りず養子として縁を結び、そしてほとんど時間を共にしたことのない父に人生を捧げてしまうほどだったのだから。

 それほどまでに武蔵に熱を上げていた伊織である。父を心配する手紙にも同じく熱が込もろうというものだった。もし宮本武蔵を無様な状態で死なせてしまっては、小倉藩の筆頭家老からどんな言葉で詰められるか、それもまた光尚の悩みの種だった。

「もはや頭を下げるしかあるまい。武蔵殿には「家名の恥であるからして、どうか城内にお戻りいただきたい」と、申しておるとお伝えせよっ。さしもの武蔵殿も、これで断らずにはいられまいっ」

 そう言って、光尚は折りたたんだ扇で自らの膝をぴしゃりと叩いた。

「ははっ」

 家臣はこうべを垂れると、膝をこすって数歩下がり、そして立ち上がって光尚のもとを去って行った。


──金鋒山きんぼうざん霊巌洞れいがんどう

 

 熊本城近郊にある洞窟だった。城から離れ、同じく近郊の村で養生していた武蔵は、執筆の際にはこの霊巌洞にこもるのが日課であった。

「確かに、あの兵法書には少々おかしなところがございました」

 家中の者と武蔵を迎えに行ったのは、武蔵の高弟・寺尾孫之允だった。孫之允は六尺(約180cm)もある武蔵の弟子にしては小柄な侍だったが、それがより彼を一目置かせる理由でもあった。すなわち、武蔵流を体得するには体の大小は問わないということだ。

「と、申されますと?」

 家中の者が問う。

「はい、先生のしたためた兵法書の最後の巻、弟子たちは「空の巻」と呼んでいる巻ですが、あれだけが異質だったのです……。」

「異質と……。」

「他の巻は先ず序文があり、その後に本文が続くのですが……空の巻だけは、まるで序文で終わってしまっているかのような……。」

 兵法書のことなどは分からない家中の者だったが、武蔵の高弟こうていの言うことなので間違いないのだろうと思った。

「常に状況は流れ変化する、変化し続けることが不変である、そう普段おっしゃっている先生がしたためたものであるならば、それはそういうものなのだろうと弟子一同納得しようとしていたところだったのですが……。もし先生が未完だと仰るのであれば、それはまさにそこのことではないかと……。」

「……ところで」

 孫之允の話しの途中から、家中の者は心配そうに周囲を見渡すようになっていた。

「なにか?」

 孫之允が問う。

それがし、この霊巌洞に足を踏み入れるのは初めてなのですが、武蔵殿はこんなに洞窟の奥深くで書をしたためられておられるのですか……?」

「……そういえば」

 ふたりの侍は、暗闇の中で立ち尽くしていた。

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