第24話 5月28日(日)の朝~ツユリさんとミナイさん――あと、時々お母さん~
☆☆☆☆○○○○
日曜日です。
タナカくんが六時に起きてリビングへ向かうと、そこには驚きの人物がいました。
「よっ、息子ちゃん」
ツユリさんです。ツユリさんが家の中にいたのです。
「つ、ツユリさん……っ!?」
タナカくんはどうして彼女がいるのかわかりません。昨日の夜に泊っていったわけでもなく、それなら「
「ど、どうして……?」
タナカくんが尋ねると、ツユリさんは驚きました。
「……ん? 知らないのか!? ダンナのヤツ、こういうことは知らせとけっての! えーっとな、木曜の夜、だったかな? ダンナがあたしに会いに来て、合鍵を渡して行ったんだよ。『女の子のことはお前の方が絶対に詳しいからミナトの力になってやってくれ』ってな」
タナカくんにとってそれは初耳でした。ツユリさんがうちの合鍵を持たされていた、なんて。ですが、それはケントさんがタナカくんのことに悩んで真剣に考えて出した答えであろうことは伝わってきて、タナカくんは嬉しい気持ちになりました。
「……そう。……それで、どうしたの? ……ですか? ……今、結構早い時間帯……」
ツユリさんがどうやって家の中に入ったのかという手段は理解したタナカくんが、今度はどうして訪ねてきたのかという理由について尋ねました。
すると、ツユリさんは真剣な顔になって答えます。
「ああ、それはな……。大体一週間が経つだろ? 息子ちゃんが娘ちゃんになってから。それで、変わったことがないか聞きに来たんだよ。電話じゃねぇのは、息子ちゃんの『それ』が未知すぎるから、だな。問診だけじゃ重大なことを見逃しちまうかもしれないし、触診もしに来たってわけ」
今日、ツユリさんはタナカくんの身体のことを心配して駆けつけてくれたのだと言います。そんなツユリさんに、タナカくんは申し訳なく思いました。お医者さんは忙しいお仕事だという認識がタナカくんにはあったからです。
「……すみません。……わざわざ来ていただいて。……あ、あの、お仕事の
「気にすんなよ。あたしは小さな診療所勤めだからな。日曜は閉めてる。そんなことより、あたしにとってはあたしの患者の方が大事なんだよ」
ツユリさんの予定を狂わせてしまったのではないか、と気を揉んでいたタナカくん。そもそも、『これ』は病気ではないのでツユリさんに診てもらう意味はまったくと言っていいほどないのです。それでも、タナカくんの問いに、ツユリさんはタナカくんの不安を払拭しようと努めて笑顔で返してくるのです。そのことに、タナカくんは余計に後ろめたさを感じました。
「あ、あの、えっと……! その、き、今日は、朝市があって……!」
タナカくんは「これ以上ツユリさんを縛りつけるわけにはいかない」という思いに駆られて、遠回しに「診察を必要だとは思っていない」旨をツユリさんに伝えようとしました。
利用したのはデパートでやっている日曜の朝市でした。タナカくんの家の家計は裕福ではないため、セールを狙う必要性は高いと言えます。ですので、「こう言えばツユリさんは引いてくれるはずだ」とタナカくんは踏みました。ですが、ツユリさんは諦めませんでした。
「セールか? そういや、お金はあんま持ってない、ってダンナが……。いや、んなモン、ダンナにいかせりゃいいだろ。――おい! ダンナ!」
そう言って、廊下に出て、扉を片っ端から開け放っていくツユリさん。タナカくんはそんなツユリさんを止めようとしますがその間もなく、ツユリさんはお目当ての部屋を見つけてその中へずかずかと入っていってしまいました。
そして、
「起きろ、ダンナ!」
「ふが……っ!? えっ!? ふぁ!? つ、ツユリ!?」
「息子ちゃん借りるから朝市行ってこい!」
問答無用でケントさんを叩き起こします。布団を剥ぎ取られ、枕を引っ張られた反動でベッドと壁の隙間に落とされたケントさんは、ベッドの上から見下ろして命令してくるツユリさんに開いた口が塞がらなくなっていました。
タナカくんに助け出されたケントさんでしたが、その間にクローゼットを漁って服を見繕っていたツユリさんにその服やらカバンやら、言葉やらを突きつけられます。
「四十秒くれてやる。それまでに支度を済ませてデパートに向かえ」
「なっ!? 横暴が過ぎる!」
「アンタが行かなきゃ、息子ちゃんが行かなきゃならなくなるだろうが。それだと、あたしが息子ちゃんを診れなくなる。それでもいいって言うなら、あたしは構わねぇが?」
「わ、わかった! 私が行く! ミナトを診てやってくれ!」
「……父さん、僕は別に……」
「ミナト、心配いらないぞ! 父さんが行ってくるからな!」
「……」
ケントさんはツユリさんの言葉に心を動かされ、手早く出かける準備をして家を飛び出していきました。タナカくんの話も聞かずに、です。タナカくんは呆然自失になりました。
「さてと、それじゃあ診察に移るか」
「っ! ま、待って……!」
変わらず自分の時間を割こうとするツユリさんに、タナカくんの罪悪感は募りに募ります。
「えっと、その……! き、今日、バイトが……っ!」
今度はバイトがあることを理由に断ろうとしたタナカくん。ですが、ツユリさんは譲りません。
「……息子ちゃん、スマホ持ってる?」
「? ……う、うん……」
「ちょっと貸して」
ツユリさんはタナカくんからスマホを受け取り、何やら操作をし始めました。電話を掛けるような動作でしたが、その前に一旦タナカくんの方に向き直ります。
「……あ。息子ちゃんってバイトするのに学校に申請する必要あったりする?」
「え? ……うん。……ある。……申請もしてる、けど……」
「……そっか。じゃあ、家族構成は把握されてると見ていいか」
「これはなんの確認なのか?」とタナカくんがその意図を掴めずにいると、ツユリさんは通話を始めました。
『もしもし? ミナトちゃん? どうしたの?』
スマホからミナイさんの声がしてきます。
「ああ。あたしはむす……ミナトくんの主治医をしているツユリという者です。今回、緊急を要する事態になりましたので、ミナトくんの携帯からご連絡をさせていただきました」
「っ!?」
ツユリさんのとんでもない発言に、タナカくんは絶句させられます。とても困惑していました。
『お、お医者さん!? 緊急事態!? み、ミナトちゃんに何があったの!?』
ツユリさんのトンデモ発言は電話越しのミナイさんにも動揺をもたらしていました。
「あ、いえ。命に別状はありませんし、意識もはっきりしています。ただ、これまでに例のない病気を発症されたため、検査をさせていただきたいのです。本人に確認したところ、今日はそちらでアルバイトをする予定とのことでしたので、以上の理由により休ませていただきたくお電話差し上げた次第です」
ツユリさんの丁寧な説明によって、落ち着きを取り戻していくミナイさん。
『そ、そう……。大したことはない、のね? それなら、いいわ。ミナトちゃんに「お大事に」って伝えてもらってもいいかしら?』
「ええ。わかりました」
未だにあたふたしているタナカくんを余所にツユリさんとミナイさんの話は纏まっていきました。
要件を伝え終えたので、ツユリさんが電話を切ろうとすると、ミナイさんがそれを止めます。
「それでは失礼いたします」
『……少し待ってちょうだい。あなた、ツユリって言った? もしかして、ツユリ・イチカ?』
スマホから聞こえてきたのは名乗っていないツユリさんの名前。何故、今日初めて話したはずのこの電話の相手が自分の名前を知っているのか、とツユリさんは不審に思いながらも肯定しました。すると、
「……そうですが?」
『やっぱり! 丁寧な話し方をしてるんだもの、気づくのが遅れたじゃない! へぇー、あなたがお医者さんねぇ……。けれど、あなたなら安心してミナトちゃんを任せられるわ!』
「いや、何を知ったようなことを……。今、初めて話しましたよね?」
ミナイさんはツユリさんのことを知っているようでした。ツユリさんはというと、まったくわからない感じでしたが。顔を
『私よ、私! キ・ヨ・シ! んもう、私に名乗らせないでちょうだい! この名前、嫌いなんだから! ……それにしても懐かしいわねぇ。高校以来だから十年振りかしら? あの頃、私の
「
『そうね。親に無理やり結婚させられたもの。でも、相手方はすごく優しい方たちで救われたわ。それで、今はこうして本当の自分を曝け出せてるってわけ。だから、今の私はミナイ・キヨよ』
「そう、なのか……。それで今は息子ちゃんがバイトしてる喫茶店の店長、と……。世間は広いようで狭いな……」
ツユリさんとミナイさんは旧友だったのです。会っていたのは高校生の頃でした。当時、
ただ、当時のツユリさんは素行が悪く、ミナイさんの両親に
『まさか、あなたとまた話ができるなんて思ってもみなかったわ。積もる話はあるけれど、ミナトちゃんにもしものことがあったらいけないから切るわね? 暇な時でいいからうちの喫茶店に来なさい? サービスしてあげるから』
「ああ。そうさせてもらう。まっ、当分研究で忙しくなるだろうけどな」
ツユリさんとミナイさんは笑い合って電話を切りました。
一人、取り残されていたタナカくんがようやく会話の内容を頭の中で咀嚼してツユリさんに尋ねます。
「……え、えっと、知り合いだったの? ……ですか? ……その、ミナイさんと……」
「ああ。高校時代の同級生だよ」
ツユリさんのこの回答に、タナカくんは先ほどのミナイさんの発言が想起されて、首を傾げました。
「……え? ……でも、ミナイさん、十年前って言ってた。……それって、母さんが死んだのと同じ頃。……母さんが死んだのは二十五歳の時。……ツユリさん、母さんのこと、『あいつ』って呼んでた。……だから、同い年、って思ってたけど、違ったの……ですか? ……じゃあ、どうやって母さんと知り合って……?」
タナカくんの頭の中に疑問が湧いてきます。十年前にツユリさんが高校生だったのだとしたら、タナカくんのお母さんと同い年ではない、ということになるからです。計算をすると、ツユリさんはタナカくんのお母さんよりも七歳年下という答えが出てきます。この差は小さいとは言い切れません。小学校の頃でも会えないということになるのですから。そうなると、「どこに接点があったのか」とそれを謎に感じるのは当然のことでした。
顎に手を添えてうんうんと考え込むタナカくんに、ツユリさんは苦笑して教えてくれました。
「いや、そんな難しい話じゃないさ。ただ単にミナモ……息子ちゃんのお母さんとあたしの姉が高校の同級生だったってだけの話だよ。ミナモと姉はそんなに仲が良かったわけじゃないけど、文化祭に連れていかれた時に偶々ミナモと会って妙に仲良くなってさ。それから、よく一緒に遊んでたんだ。……で、高校生最後の年にあいつが亡くなって、今の職業を目指した。一年も残されてなかったから、そりゃあ猛勉強したよ。ダンナにも医者になる、って宣言して、な。それを覚えられてたのは、ちっとばかし恥ずかしかったが……」
ツユリさんが語ってくれたのは不思議な縁の巡り会わせでした。
――タナカくんの母が亡くなったからツユリさんは医者を志し、タナカくんに会うことになった――のだと。
タナカくんのお母さんとツユリさんの関係。そして、タナカくんとツユリさんの関係。更にはツユリさんとミナイさんも繋がっていて、タナカくんとミナイさんも繋がっている――そんな運命の巡り会わせに、タナカくんは思いました。
――(僕とツユリさんのお姉さんも、どこかで繋がっている?)――と。
実はこのタナカくんの考えは的を射ていたりします。
タナカくんが感慨深く頷いていると、ツユリさんは話を切り替えました。
「……時に息子ちゃん」
目を据えてタナカくんの全身を捉えてくるツユリさんに、タナカくんは何かの圧を感じて僅かにその身を翻します。
「……な、何……?」
「なんて格好してんだ?」
ツユリさんの指摘にタナカくんはたじろぎます。今のタナカくんの格好は、男の子の時に使用していたTシャツでした。というのも、昨日の夜はこの時期にしては異様に暑く、春用のパジャマでは過ごせなかったからです。タナカくんはちょっと大きいサイズのもの好む傾向があるので普段通りに動く分には問題なかったのですが、シャツのある一部がぱっつんぱっつんになっていました。生地の薄いTシャツには、流石のタナカくんの着やせスキルも形無しのようです。
「……き、昨日、暑かったから……」
理由を告げるタナカくん。しかし、
「サイズが合わない服は体型が崩れるとか、締め付けられて体調を悪くするとか、いろいろと悪影響があるんだよ! そんなきつい服、さっさと着替えろ! もっとマシな服はないのか!?」
ツユリさんに納得はしてもらえず、腕を掴まれてタナカくんの部屋へ連れていかれます(ツユリさんはタナカくんの部屋の場所を知らないので教えてもらってから)。そして、タナカくんの部屋の箪笥を全て引っ繰り返されて中身を物色されたあとに一言。
「……しまった。下着は渡したけど、服は買ってなかった……! こんなんじゃ、夏は迎えられない! おい、息子ちゃん!
――今から、服買いに行くぞ!」
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