第八話〝世界の秘密〟
一夜明けたおかげかずっと取れなかった気分の悪さもだいぶ和らいで、僕はルカの手を引いて歩いた。昨日は心身の疲労と知覚の混濁に圧されて握る気にもなれなかった小さな手は、この数日の冒険でがさがさしてきたけれど変わらず暖かい。それだけでいくぶん気分が晴れるから、足取りは自分で驚くほど軽い。
『なんだか霧が濃いみたい』
だいぶ目的地に近づいたところで、ぎゅ、と手を握る力が強まったから振り向くと、ルカがいそいそとペンを動かしてそんなことを言った。
山道だった。行く手は木の根っこだらけで険しいはずだが、回復してきた体調、結束した心象、フクロウの羽毛を数えられそうな僕の眼、ルカもゴールドランクなのだから、人生でいちばんスムーズに進める道だった。息は上がるけれど、緑豊かな山だから水場を見つけるのにも苦労がない。
「そうなの?」
『霧が あっちの方から流れてきてて」
ルカがメガネの奥で目を細めながら行く手を指差す。僕の眼には霧が見えない。が、確かに霧の深いところで成長するキノコの植生が多いことはなんとなくわかった。
「ええっと。向こうのほうに霧の発生源がありそうってこと? へえ……」
行けばわかるだろうからと足を早めた。
「霧の濃いところってさ、いっぱいあるけど……何が原因で霧が濃くなるのかは、分かってないんだよな。にいちゃんもその手の調査よく呼ばれるらしいんだけど、見つかるのはキノコばっかりでうまくいかないんだって。あの研究所。霧の濃いところにわざわざあるってことはそういう研究してるのかな……ごめん。喋れてる? 伝わってる?」
ルカがこくこくとうなづいたので安堵しつつ、一段と高い木の根によっこいしょとよじ登り、彼女から荷物を受け取る。身軽になった彼女が登ってきて、荷物を返す。慣れたやり取りだ。適度に休憩をとって、合間に雑談する。ルカもそろそろ筆談に慣れてきた。
『見学とかしてみたいかも』
「相手にしてくれるかな。子ども2人で」
『大丈夫だよ! もう立派な冒険者だもん』
「そっか」
足を進める。
研究所がルカにも見えてくるあたりまで近づくと、さすがに僕にも湿度の上昇が肌でわかった。ゴールドランクのメガネは霧の流れを視ることができるようで、ルカが確かにあそこからだと眼前の建物を指差す。
「ルカ。卵は毛布にくるんで、鞄の奥に隠しておくんだ」
『なんで?』
「いい人がいるとは限らないだろ。すごいお宝を運んでると、嫉妬した冒険家に狙われることもあるって、にいちゃんが言ってたんだ」
ルカは神妙に頷くと言われた通りに卵から光が漏れないよう毛布に包み、荷物の中に隠した。それから僕たちは意を決して薄白く分厚い扉を叩く。ルカが口を動かして何かを言う。たぶん、すみませんどなたかいらっしゃいますか、みたいなことだろう。
何度かノックと呼び掛けを繰り返して、二人して顔を見合わせたころ。ようやく重たい扉が開いた。
「――」
姿を見せたのはしわくちゃな顔のご老人で、気難しそうな目にはシルバーランクのメガネをかけていた。くたびれた白衣が目を引くが、背筋はまっすぐ伸びていて、全体的には健康そうな印象を受ける。
薄いレンズの奥の目は真っ先に僕に向いた。たぶん、僕がミミナガでもないのにメガネをかけていないから。
「――!」
老人がくるりと背を向けて建物の中に入っていく。ルカがペンを握る。
『「まさか」って言ってた』
「まさか……? なんだろう」
ルカは首をかしげて答えた。
老人はすぐ小走りで戻ってくる。その手にはペンと小型のホワイトボードが抱えられていて、僕に向かってそそくさと何かを書き記し始める。まるで、僕の耳が聞こえないことが一目見ただけでわかったみたいに。
老人は達筆な平仮名でこう言った。
『お前、メクジラの血に触れたな?』
僕は咄嗟に老人の手からボードを奪い取った。ルカに見られるわけにはいかなかったから。でも、手遅れだったみたいだ。彼女は目を見開いてうろたえたように僕を見て、唇を震わせ、何かを言った。ごめん、聞こえない。
「……あなたは、メクジラの研究をなさってるんですか」
首肯が返ってくる。骨張った手が無言で突き出され、ボードを返すよう促してくる。僕はルカの顔を見る。不安げに揺れる黒い目が、ゴールドメガネ越しに僕を見返す。
なにも言えない。ボードを返そうにも手が震えてうまくいかない。あの圧倒的な死の光景がまだ網膜に焼き付いている。メクジラにきらきらとした憧れを抱くルカには、いちばん知られたくない景色が。
「――」
「――――」
「…………」
ひとことふたこと、博士らしき老人とルカが言葉を交わしたようだった。十中八九、メクジラの血とは一体なんなのかという話だろう。ルカが視線を迷わせながら僕の肩を叩き、震える手からボードを引き抜いて博士に手渡してしまった。僕はうなだれる。諦めるしかない。どのみちもう隠せはしない。
『メクジラの血を体内に摂取した者は、霧に惑わされない目を得るが、代償として聴力をうしなうことがわかっている』
「…………そう、ですか……」
『近くに死体があっただろう。あれに触れたのか?』
「……ええ」
「――」
ルカが泣き出しそうな顔をしたから、あわてて彼女の手を握り、じっと目を見つめて首を振った。僕は大丈夫だから。君が泣くことじゃない。彼女は涙の溜まった目をそのままに、曖昧に頷いて返す。とりあえず泣かないでいてくれるみたいだ。よかった。
『入りなさい』
老人はそう書き付けると踵を返し、僕たちを研究所の中へ招いた。僕とルカは互いの手を握りしめたまま、薄汚れた白衣の背について歩く。
霧が濃い。肌にじっとりと湿気がまとわりついている。それに少し埃っぽくて、なんだか嫌な感じのにおいもしている。握る手に力が入った。
『君にはすまないことをした』
研究室らしいところにたどり着き、使い古された椅子に座ると、博士がそう綴った。僕らは勧められるまま別の椅子に腰掛ける。椅子がたくさんあるようだけど、施設内に博士以外の人の気配はなさそうだ。
どういうことですか。問うと博士はよどみなく答えた。
『あれはここから逃げ出してしまった個体だ。再捕獲がうまくいかず、わたしが殺処分した』
(………………、…………、……え?)
思い出す。森をつんざき死の気配を含んだ轟音と、赤い霧、鉄の臭い。僕らを助けてくれた恩人たちが苦しみのたうち回るさま。必死で駆けていったこと。駆けていくしかなかったこと。吐き気。落としたメガネ。どす黒くぬめる地面。そうだ。
そう、だ。あのクジラは、血を、辺りにぶちまけて死んでいた。どう考えても自然な死にかたではなかった。何者かから爆発物に撃たれたような――
「――!」
ルカが両手で口許を覆い、肩を震わせている。
僕はそれでようやく静かな動揺から抜け出して、彼女の肩に両手を添えた。
「博士。その話は……彼女には刺激が強いので……できれば別室でお願いしたいんですけど」
「――!」
ぽか。ルカの拳が僕の肩に当たる。けっこう本気で殴ったみたいで普通に痛い。なんだよ、と思うと彼女はむくれた顔で、涙の溜まった目で。紙を筆圧でくしゃくしゃにして。
『もう隠さないで!』
「え、うわ、ごめん。泣かないで」
『もう一人で抱えないで!』
「いやでも、」
でもじゃない、とばかりに丸めた紙を顔に投げつけられた。とうとう決壊した涙が彼女の頬を伝う。うつむいたゴールドメガネのレンズに雫が落ちて流れる。ああ汚れちゃう。大事な超カッコいいメガネが! 僕はやっぱりどうしたらいいかわからず、ただごめんと繰り返す。
でも、だけど。やっぱり隠さないと、君はこうして泣くじゃないか。
「――!」
彼女が涙ながら博士に詰め寄った。「どういうことなの」だろうな、と聞こえなくてもわかった。博士は彼女を目に面倒そうに顔をしかめて、しっしと片手を払う仕草をした。僕は彼女の背を宥めるようにぽんぽんと叩き、ごめんねとささやいて、博士に向き直る。
「殺処分したというのは、一体なぜですか」
『メクジラは霧を生む有害な生き物だからだ』
「……霧を……生む?」
博士はホワイトボードに細かい字をびっしり書き連ねて寄越した。字が綴られ終わるまでの耐えがたい静寂を、僕らは固く手を握りあって凌いだ。
殺処分。殺処分か。あの災禍とさえ呼べるおぞましい赤い光景を、目の前のこの人が作り出したのか。そう思うと背筋が凍るような心地がする。が、耳の聞こえなくなった僕に悪いことをしたと謝ってくれたし、悪人と決まったわけでもない。まだ逃げ出す時ではない。とにかくも話を、事情を聞かなくては。
『500年前にこの世界を覆った謎の霧、“SUPINA”は、メクジラと呼ばれる不可思議な生物の噴き上げる潮だ。この潮はあらゆる電波を妨害し、人々から視力を奪い、世界を湿った薄暗いものに作り替えてしまった』
「……」
『われわれはメクジラが霧の原因であることを突き止め、長年調査をしていた。もっと奴らの生態がわかれば、人類が霧を克服する手立てが見つかるかもしれないと』
ペン先が動く。僕らはじっとして、緊張に冷えた手のひらを固めている。
『そこでまず見つかったのが、メクジラの血液が人に霧への耐性をもたらす薬となることだ。多くの同僚が視力を求めてそれを飲んだ。しかし、重大な副作用があった。メクジラの血液は脳に作用し、聴覚機能を完全に破壊する』
完全に破壊。……そうか。
薄々は感じていたけど、やっぱりこの耳はもう死ぬまで絶対に聞こえないのか。にいちゃんの朗らかな声も、母の眠たげなぼやきも、ルカの楽しそうなよく弾む声も、僕にはもう。
『さらに言えば、個人が霧への耐性を持ったところで、通信機の妨害などには対処できない。根本的な問題は解決しない。メクジラの血液を薬に使うという案は、すぐに棄てることとなった』
「……それで、殺すことに……?」
博士は大きく頷いてみせた。
悲しみと衝撃と、いろいろなものがない交ぜになって言葉が出てこない。メクジラは、霧の原因。世界人口を十分の一まで減らしたという伝説の大災害の、元凶。人類からあらゆる鮮やかな色彩を、絶景を奪い去った。そんな凶悪なものだったなんて。
僕らが小さな絵本に見た空飛ぶ鯨は、あんなにも鮮やかで、美しくて。ルカが目を輝かせて、ほんのり頬を染めて、宝物だと語ってくれた、そんな、きらきらした、憧れだったのに。
どうしたらいい。
だって、僕らは今――メクジラの卵を隠し持って、守っているのだ。
ルカのこめかみに恐怖からだろう冷や汗が伝っている。
下手な真似をしなければバレはしないだろうけど、でも、このままじっとメクジラの卵を守って持ち帰ることは、果たして正しい選択なのだろうか? 博士の言うことが本当なら、メクジラは人類の敵で、駆除の対象で。
いや待て。なにも殺すと決まったわけではないかもしれない。実験動物としてだけでも。そんな淡く破滅的な期待が過る。
「この施設……霧が濃いですよね。個体が逃げ出したって言ってましたけど、他にもメクジラがいるんですか?」
『いや。あれが最後だった。しかも、卵を宿している貴重な個体だった。わたしは別にメクジラを皆殺しにしたいわけではない。霧を晴らしたいだけなのだ。だから、なにか遺伝子にアプローチができれば、霧を出さない赤子を生み出せるのではないかと、生体実験を試みた。が、逃げられてしまった』
「そんな……」
『君たちは死体の付近に極彩色の卵を見かけなかったか? わたしが探したときには見つけられなかったが』
来た。
恐れていた問いだ。
僕は迷わず首を横に振った。いいえと声帯を震わせた。万一隠すつもりで隠せなかったら、後から自ら申告するよりもリスクが大きいからだ。それからルカの方を見る。彼女は全身に悲壮を浮かべて震えている。迷っているのかな。メクジラの赤ちゃんを、守っていいのかどうか。殺していいのかどうか。
一緒に育てようって、言ってくれたもんな。
その言葉を思い出すたびに、なんだか胸が暖かくなる。
だけど。でも。どうしたらいいのか、なにを選んだらいいのか。わからなくなってしまった。
博士は残念そうにため息をつく仕草をした。僕らが研究の役に立たないとわかるとどっと力を抜いたみたいで、煩雑に散らかった紙を足で払い、椅子に深く座り込む。埃っぽい研究室は持ち主の様子につられて急にくたびれて見えた。
『こちらの話はこのくらいだ。そちらは他に聞きたいことはあるか?』
「…………」
いいえ、とは、言えない。
言いたいことが山ほどある気がした。胸のなかが苦悩と葛藤でぐるぐるしている。だがなかなかうまい言葉にはならない。なにより、ルカの背負った荷物のことが気にかかる。メクジラの卵を、この博士に渡すか、どうか。
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