凍えた手紙
藤原くう
凍えた手紙
視線の先の空が、青が赤へと変わっていく。
ここは、地球で最も高い山の頂上。地上から8848m先のてっぺんは狭く、三畳ほどしかない。
そんな猫の額ほどの場所に私は横たわっている。
見上げれば、空しかない。そんな場所は、非常に寒い。防寒服に身を包んでいるにもかかわらず、乾燥した冷気は幾重にも存在する布を貫いて、肌を刺してくる。
先ほど通ってきた尾根には人の姿はない。エベレストが人気だったのは二十世紀初頭のお話。三十世紀を迎えようとしている今、登山家とか冒険家の熱視線が注がれているのは、オリンポスだ。
だが、私にとっては、ここがよかった。空いているとか人気がないからとか、そういったことを抜きにしても、最期にここへ来たかった。
地球で最も高い山。
ここへは、死ぬつもりでやってきたのだ。
私は不死である。なんて合コンで言っても、人気をかっさらうことはできない。コミックとかムービーでは、ヴァンパイアやゴーストやビッグフットやヨウカイやらが存在しない世界が描かれているが、バカらしい。オニもいるしネッシーもいる。当然、宇宙人だっている。
だからって人間がいないわけでもない。私たちはいい感じに――時には痛ましい戦争を繰り広げながら――共存し、一つの共同体を作り上げている。国際連合というものが昔はあったが、そんな感じだ。
不死っていっても、吸血鬼みたいに血を吸う必要はない。また、ゾンビみたいに腐敗しているというわけでもない。ただ単に、なにされても死なないってくらいの認識で大丈夫だ。少なくとも、自分の知っている限りの方法では死ぬことはなかった。
年は、取っているのかもしれない。というのも、一応、年齢は変わっているようなのだ。千年に一度、人間でいうところの一歳、成長している感じか。
そういうわけだったので、私は人々の歴史を見ていたつもりである。これを読んでいるのが人間なのか、はたまた別の生物なのかは知らないが、歴史に明るいなら写真を探してみてくれ。絵画とか写真に私に似た顔のやつが映りこんでいるはずだから。
私は人々の営みを見るのが好きだった。特にヒトと名乗り始めた霊長類の一つが寄り集まってうごうごしているのが何よりも好きだ。だが、そこに入り込もうとはほとんど考えなかった。よく考えても見てくれ、私は年を取らない。しかし、ヒトは何もしなければ百年生きることも難しい。年を取っていく中で、姿が全く変わらないのは異常だ。
正直怖かった。ヒトの持つあくなき好奇心。それと裏返しの憎悪と凶暴性が私へと向けられるのが想像するだけで耐えられなかったのだ。
ヒトが二足歩行をし、火を操り、文明を発展させ、魔法と科学に精通し、宇宙へと飛び出していく。その間に、様々な種族との戦争があり、同族の中で殺しあっていた。
繰り返される生と死。
繰り返される破壊と創造。
私はそこに、不死に似たものを感じ取っていたのかもしれない。同じ不死属であるフェニックスのような、消えてはまた復活する炎のような……。
炎は遠くから眺めているだけでいい。じゃないと、焦がされてしまうから。
長い間、そう思っていた。
樹海を歩いているときのことだった。
遠くに人影が見えた。
登山客だろうか。それにしても珍しい。たいていは、登山道入り口まで車なりバスなりで移動するから、富士山の裾野に広がる樹海から歩くものはそう多くはないのだ。だが、いないわけではなく、その時は興味は全くなかった。
近づいていくにつれて、その人影がはっきりしてくる。
女性だ。それも、登山をするような恰好じゃない。ブラウスにスカートというシンプルな恰好。足元は滑りやすそうなスニーカー。どう考えても、登山をしに来たという格好でもなければ、山へ踏み入るにしてはカジュアルすぎる服装。
その手には太いロープが握られていた。
私は、彼女が何をしようとしているのか察した。この樹海は、そういったことが多く行われてきた場所なのだ。
察して、それでも何も言うつもりはなかった。止めるつもりだってない。
勝手にどうぞ。
何か言われたら、そう返すつもりだった。少なくとも――その顔を見るまでは。
私の進行方向上にいる女性が、こちらへと振り返る。
彼女を見た途端に、私の胸が高鳴った。――今思えば、私はこの時から恋に落ちていたのかもしれない。
女性は疲れ切った流し目を私にくれた。何ですか、邪魔するつもりですか、みたいな。ちょっと前の私なら、勝手にどうぞ、と言っていたところだろう。だが、口から出たのは別の言葉だった。
「好きです」
口にしてから、何言ってるんだろうと思った。そのくらい、突然かつ自然と出てきた言葉だった。
言った本人がそんな調子なのだから、女性はもっと意味が分からなかったに違いない。よどんだ眼をこれでもかといっぱいに広げていた。そんな驚きの表情さえもいとおしい――恋はヒトをおかしくさせるとは聞いていたが、ここまでだとは知らなかった。
「バカなこと言わないで」
確かにバカなことだった。いや、本当に。
だが、その時の、恋というものを知ってしまった私は、いつになく衝動的だった。理性は雷のようなショックに打たれて吹き飛んでしまったらしい。
拒絶されたにもかかわらず、私は距離を詰めていた。
女性は後ずさりしながら、バッグからナイフを取り出して、私を遠ざけようとするかのようにぶんぶん振る。女性が持つにしては武骨なそれは、木々の間から漏れる日光を浴びてぴかぴかと光っていた。
それが、いったい何だというのか。
私は近づく。女性は恐怖を出だしたように、悲鳴を上げた。
ナイフが突き出される。
鋭い切っ先が服を破り、肉を切り裂いて、内臓をえぐる。熱にも似た痛みが腹部で生まれたかと思えば、ぱっと全身へと広がった。
痛い。
それだけが、頭の中で駆け巡る。視界は真っ赤に染まり、心臓が打つたびに明滅した。
それでも、私は生きている。
あまりの激痛にひざが折れそうになるのを必死にこらえて、私は口を開く。
「死ぬのはやめた方がいい。――めちゃくちゃ痛いからさ」
私はできる限りの笑顔を取り繕って、言った。
それが、出会い。
私と彼女の奇妙で運命的な出会い。
今思い返してみると、なんだか出来すぎている感は否めなかった。だが、現実だ。
彼女は、私の想像通り、自殺しようとしていた。なんでも、仕事に疲れてしまったらしい。ここ数世紀は、法に触れない範囲では何でもできる。何でもできるから、何をすればいいのかわからない。迷っている間に、ヒトは――知性を有する存在は――摩耗し、精神的な病気を発症してしまう。彼女もそんな感じだったのだろう。
それが、私と出会ったことで一変した。
「信じられなかったよ、あの時は」
いつの日だったか――あれは、富良野っていうところのラベンダー畑を見に行った時だったか。そんなことを懐かしそうに言っていた覚えがある。
初対面をはたしたあの日、仕事に疲れたと乾きつつある血だまりの中で彼女は話してくれた。
だから、私はそんな彼女を旅へと連れていくことにした。私はヒトと対話なんてできやしない。できることいえば、世界中宇宙中を案内することくらいだから。
この頃になると、仕事はしなくてもよいものとなっていた。止めようと思えばいつだってやめることができたし、どこへでも行くことができた。
そうして、旅をした。
野を歩き、山を踏破し、川を下り、海を泳ぐ。
たぶん、いろいろなことをしていたと思う。
ヒトと不死者という種族の壁はいつの間にかなくなって。
私たちは入籍した。
不死者のために、言っておくが、結婚はいいものであり悪いものである。
いいことといえば、好きな人と一緒にいられるということ。悪いことは好きな人と別れるかもしれないということ。
わかりきったことだ。自分たち以外は、みな、寿命を抱えている。これは、定命の中では長生きな方のエルフでも変わらない。
ヒトは百年生きられたらいい方だ。もっとも、現代におけるヒトは、機械化や電脳化という選択肢もあるから、十世紀単位で長生きできる個体がほとんどだ。
だが、それは後天的に得られるものだ。
そして、絶対に得られるというものでもない。
一億人に一人いるかいないかの確率で、機械に適合できない体質がいるのだ。
彼女もそうだった。
三十台も半ばに差し掛かかった彼女が機械化しようとしたときに、医者からそう宣告された。
全く、想像していなかった。
だってそうだろう。不死の人間と、後付けとはいえ不死になろうとしてなれなかった彼女。運命的な出会いと言ったが、ここまで運命的なはずがないだろう。
ないに決まっている!
私は何か方法はないかと探し回った。日本中、世界中、宇宙中……。
何もなかった。
いや、そんなはずはない。まだ何か――。
誰かが私を腕を引っ張った。その手を見れば、しわくちゃの手。腕から体へと視線は動き、老年特有の朗らかな表情をたたえた女性がいた。
彼女はゆっくりと首を振った。
私にはどうすることができない。
彼女をどうすることもできなければ、私自身をどうにかすることだってできない。
いや一つだけ、手があるかもしれなかった。
私は不死だが、生命活動を行わないわけではない。熱い寒いはちゃんとわかるし、空腹という概念だって存在している。眠らないとふらふらする。髪はゆっくりと伸びていくから、新陳代謝という概念はある。そのくせ、刺された傷は時を巻き戻したみたいに再生していくのだから、不思議だ。
とにかく、新陳代謝が存在しているというのが大切だ。それを遅らせることで、不死性もまた可能な限り減らせるのではないか。そうでなくとも、永劫に近い時を眠りにつくことができるのではないか。
荒唐無稽な考えであった。こんなことを、彼女に話すつもりにはなれなかった。死の淵に立ったもの特有の、諦観にも似た穏やかな表情を見ていたら話す気になんてなれるはずもなかった。
だが結局はこうして、エベレストの山頂へとやってきていた。
隣には、彼女が横たわっている。
息はない。心臓に動きはない。数日前に息を引き取ったばかりだ。享年百十二歳。老衰死だった。
風によって飛ばされた雪が、彼女の顔に積もっていた。それを払うと、仏のような優しい笑みが日光に照らされる。
私は諦めることができなかった。だからこうして彼女を背負ってここまでやってきた。
「一緒に天国へ行けたらいいなあ」
天国というものがあるかはわからない。一部の宗教は天国を探しに銀河を旅しているというが、未だに見つかっていないのだ。
だが、天国という概念は地球で生まれたものであるなら、地球のどこかに存在しているのだろう。
そして、好きな人といられる、地球で一番高い場所は、天国といっても差し支えなかった。
日が湾曲した水平線の向こうへと消えようとしている。
冷たい夜が、私たちを覆いつくそうと、その手を伸ばしてくる。
もう眠ろう。
私はため息をつき、左手で骨と皮ばかりになった彼女の手を握る。
もう片方の手で、ナイフを握り締める。
思い出のナイフ。
私を貫いたナイフ。
これでもって私の物語の終わりとしよう。
ナイフを高々と掲げて、ゆっくりゆっくりと脈打つ心臓めがけて振り下ろす。
凍えた手紙 藤原くう @erevestakiba
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