第27話 


☆ 飛鳥井 こころ


 翌日早朝。人の出入りがなくてほぼほぼ物置と化している狭苦しい教科準備室で私は化粧に勤しんでいる。

「先生。僕、まさかこんな形で人生初化粧をするとは思ってもみなかったです」

 そう。化粧と言っても自分のではない。要くんの頬傷を隠すためだ。傷の範囲は広いけど浅かったのか、既にかさぶたになっていたから助かった。


「今は男の人だって化粧する時代なのよ。歳をとってからのシミ隠しとかね。キミくらいの若さだとニキビも隠せるし」

 とはいえ彼の顔はニキビみたいな凸凹とは無縁なのだけれど。

「本当はメンズ用のコンシーラーとか使いたかったんだけど、なにぶん時間が時間でね。買えなかったから今日は私ので我慢して。肌の色味は合わせたから違和感もあんまりないし、誰にもバレないと思うよ」

 鏡に映った自分の顔を見る要くんは傷が目立たなくなったことにいたく感心しているみたいで目をパチパチさせながら「すげぇ」と呟いた。


「どんなもんよ。ちょっとは尊敬した?」

「先生にこんな特技があったとは」

「いや、別に特技ってわけでは……。こんなの誰でも出来るわよ」

「そっかぁ。でも女の人って大変ですね。学校は校則で化粧禁止って言うくせに大人になって働き始めたら化粧くらいしなさいって注意されるの、理不尽じゃないですか?」

 それから要くんは「強制じゃないけど妊娠と出産もしなきゃだし」と呟いた。

「少子高齢化だなんだ言っていざ十代で妊娠したら、やれフシダラとか、やれイヤラシイとか。じゃあどうしてほしいんだよって感じで。大昔なんて十三、四で出産してるのに。時代が違うって突っ込まれたらそれまでですけど」

「へぇ、キミもなかなか面白いことを言うじゃない」

「だって、姉ちゃんはそういう現代社会の価値観に殺されたようなもんじゃないですか」

「……」


 私は化粧の仕上げをする手を止めた。そう繋げるか。だけどこの子の言うことは決して荒唐無稽ではない。彼はきっと、社会がもっと十代の妊娠を祝う空気だったら結弦さんの命を奪う飛び降り自殺なんて起きなかったと言いたいのだ。でもね――

「要くん、それは土台無理な話だよ。望まぬ妊娠と中絶件数の多さは、社会が若者に対して不信感を抱くには充分すぎるんだ」

「……分かってますよそんなこと。愚痴をこぼしたかっただけです」

 ちょっと拗ねた要くんはプイっと顔を背けた。が、朝日に目が眩んでしまったみたいで顔をしかめた。おっちょこちょいだなぁ。


「ほら、こっち向いて。まだ仕上げが終わってないんだから」

「は、はい……顔、近いです」

「近くで見ても傷がバレないようにしないといけないからね。我慢して」

 両手でガシッと顔を掴むと、母猫に首根っこを咥えられた子猫みたいに大人しくなる要くん。私も彼の扱い方がだいぶ上手くなったみたいだ。伊達に苦労させられてないね。しかし要くんはどうにも外のほうを気にする素振りを見せているのが気になる。


「お客様? ジッとしてほしいんですけど?」

「や、ちょっと見覚えのあるものが外にいたような気がして……」

「見覚え? なにそれ」

「墓参りに行った時に話した中学生ですよ」

「え、その子がいたってこと?」

「いたっていうかこっちを見てたっていうか……」

 私は窓を開けて周囲を見渡した。けどそんな子どころか人影すら見えなかった。ここは二階だから外から見えないこともないけど、裏を返せば意識的に覗こうとしなければ中の様子なんて探れないし。


「要くんの気のせいじゃない?」

「……だといいんですけど」

「だったらさっさと仕上げを済ませちゃおっか。あんまりのんびりしてると私、朝礼に間に合わなくなっちゃうから」

「あ、はい」

 要くんには何度も騙されたことがあるけど彼は意味のない嘘は吐かないし、下手に私を惑わせるようなことを言うタチでもない。だから私も少し気になった。このまま放っておいていいだろうか、と。ただ、悲しいことに私は社会人なので確証もないのに職場を放棄することはできない。結局、この件は心のしこりとして残り続けることになるんだろうなぁと思いつつ、私はまた彼の頬に手を添えた。


「先生」

「んー?」

「なにか隠し事してません?」

 ドキッとした。危うく手元が狂って傷隠しが台無しになるところだったし。

「先生ってば今日、不自然なくらい何も気にしないんですよ。普段通りを装い過ぎてるというか、いつも通りでいる演技をしてるって感じがします」

 私は彼の頬に手を添えたまま動きを止めた。多分、今の精神状態じゃ仕上がりが下手になっちゃうから。


「隠し事ねぇ。してるといえばしてるかな」

「それって僕に関係あること?」

「うーん……うん」

「そっか」

「あれ? 聞かないんだ」

「いや、だって僕に対して秘密にしてることなんだから僕に話しちゃダメなんじゃ?」

「それはそうなんだけど、こうも素直だとなんか調子狂っちゃうね」

「じゃあこうしません? 僕も先生に対して隠し事があるんでそれをお互いに告白しあうってことで」

「教師に対して交換条件を持ち込むなんて悪い子」

「先生ほどじゃないです」


 そう言って要くんは今しがた傷を隠したばかりの頬にえくぼを作った。あぁ、なんだろ。今、すごく楽しい。仕事をサボって一日中ここで他愛もない話をしていたいくらいに。でもこの時間はきっと永くはない。要くんが卒業するまでは持ちそうだけど、なんだったら私の気分次第で今この瞬間に壊すことだって出来る。嗜虐心に近いこの気持ちはなんて言えばいいんだろう。

「よし、こんなもんかな。うーん、我ながら上出来」

 鏡を向けると要くんは「おぉー」と感嘆の息を漏らした。

「すげぇ。なんか芸能人の肌みたいです」

「これなら授業も出られるし、みんなにもバレないでしょ」

「はい、ありがたいです」

 ペコリとお辞儀をする彼。イイ感じの高さに頭がきたから両手でついクシャクシャと撫でてしまった。


「じゃあ要くん。またホームルームで」

こうしていつも通りの一日が始まる。そう信じていた。 直後に要くんが暴力事件を起こすまでは。

 慌てた様子で夏目さんが職員室に現れた時は何事かと思った。とにかく来てくれと一緒に教室へ向かうと拳から血を滴らせて大きく肩で息をする要くんが目に入り、普段の姿とのギャップに私はまた変な夢でも見ているのか思ったくらいだ。

 目の前には鼻を押さえてうずくまる田中くんがいる。教室はシンと静まり返り、誰も事態の収束に乗り出そうとすらしていない。状況から見て要くんが暴力を振るったと見て間違いない。田中くんは一見しただけで鼻の骨が折れていると分かるほどの重症だった。


 理解が追い付かない私は目だけで彼に問いかけた。どうしてこんな事をしたの。なぜ自ら学校に通えなくなるような事件を起こしたの、と。これじゃあ傷隠しの化粧も台無しじゃない。

 普段は虫も殺せないほど優しい顔をしていた要くんの表情はどれだけ記憶を遡っても見たことがないほど怒りに震えていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る