第25話

 その答えを聞いた私は気の毒に思った。彼が、あるいはあの母親が、ではない。この親子二人ともが。ふと、共依存という言葉が頭に浮かんだ。

「それに母さんがあんな風になったのは僕のせいでもあるんです」

「なにそれ、どういうこと?」

「先生は去年ウチの母さんが起こした問題のこと、知ってますか」

「いや、問題が起きたこと自体は知ってるけど内容までは……」

 丸井先生や校長先生がチラっと触れていたっけ。その割に聞いても教えてくれなかったけど。


「僕の去年の担任が今年から別の学校に異動したことは知ってますよね」

「うん、聞いた」

「その原因を作ったのが母さんなんです」

「というと?」

「えっと、話せば長くなるんですけど、僕って去年の入学早々から今みたいに欠席ばかりしてたんです。それで当時の担任、歳は知らないけどかなり若い女の人で、その人に結構しつこく聞かれたんですよ。どうしてそんなに休むの、とか、いじめられてるの、とかね。真面目で凄く優しい人だったんですけど、当時の僕にはその優しさを正面から受ける余裕がなかったんです。端的に言えば、ちょっと鬱陶しかった」

 その光景は自分でも見たかのようにありありと想像できた。余裕がなかったというのは高校生になったばかりでお店の手伝いをする忙しさからくるものだろう。


「僕は愚痴をこぼすような形で六月くらいに母さんにそれを伝えたんです。もう義務教育じゃないんだからほっといてほしいよ、みたいにね」

覚えてるかな。はじめは私にも同じことを言ってたよ、キミ。

「その時、確か『僕だって留年はしたくないからもう少し学校に行く頻度を増やすよ』って母さんに言った記憶があります。母さんが学校に乗り込んで来たのは翌日のことでした」

「乗り込んだ?」

「えぇ。その日はたまたま参観日だったんです。でも母さんは忙しいから行かないって言ってたので僕もそのつもりでした。だから教室に入ってきたときは驚きましたよ。もっとも、そのすぐあとにさらに驚く事態が起きたんですけど……」

 私は生唾を飲み込んだ。この子、意外と気を持たせるというか話し方が上手い。


「母さんは教室の後ろの扉から入ってくるや否や、机のあいだを縫うように歩いて行って、僕たち生徒の目の前で先生の胸ぐらを掴んだんです。そして言いました。『ウチの息子を誑かしたのはアンタね』と。その時の怯え切った先生の表情を思い出すと今でも申し訳なくなります……」

「あの目で射すくめられた……ってコトね」

「はい……」

 蛇に睨まれたカエル。きっと、当時の担任を言い表すのにこれ以上正確な表現は見当たらないだろう。


「それ以来、担任の先生はちょっと……心を病んだというか、具体的に言えば休職しちゃって……」

「それで結果的に異動した、と」

 要くんは静かに頷いた。これで丸井先生や校長先生が深入りするなと言っていた理由がよく分かった。分かったところで、私は手を緩めるつもりはないが。

「でも分からないな。それと要くんが母親を庇いがちなことがどう繋がるの?」

「母さんは姉ちゃんを亡くしてから……いえ、僕が余計な事を言ったあの日から少しずつおかしくなっちゃったんです。だから僕も責任を感じてるっていうか……」

 言いながら自信なさげに俯いていく要くんはしばらく沈黙して「あの、これからちょっと気持ち悪いことを言いますけど構いませんか」と妙な断り方をした。


「こう言うと変に思われちゃうかもしれませんけど、母さんは僕に対して行き過ぎた愛情を持ってるんです」

「愛情? どこがさ。むしろ反対に思えるんだけど。だって子どもを学校に通わせようとしないことのどこに愛情が――」

「母さんは僕を常に自分の手元に置いておきたいんですよ。もう、自分の家族を手放したくないから。自分の店を手伝わせてるのも半分はそれが理由です」

「……」

「さっきも言いましたよね。僕が母さんに残された最後の家族なんだって。最初の旦那さんは事故で亡くなって、姉ちゃんも死んで、ほどなくして次の旦那が出て行って……。自業自得な面もあるかもしれないけど、母さん、凄くかわいそうな人じゃないですか」

 声を絞り出す渚くんは泣きそうだった。目が潤んで見えるのは夜の街明かりが瞳で乱反射しているせいか、あるいは。

 少し、彼を一人にしておこう。


「……事情は分かった。けど学校には来て」

「で、でも顔の傷が」

「それは私が解決する。眠たいかもしれないど明日の朝ちょっと早く来られる?」

「それは、まぁ……頑張ります」

「よし、いい子だ。私との約束だよ」

「え、あ、うん……はい」

 彼と触れ合うなかで少しずつ分かってきたことがある。要くんはこんな風に”お姉ちゃん感”を出されると弱いのだ。それもこれも結弦さんの影響だろう。死してなお彼の生き方に影響を与えてるんだから罪深い人だ。



 要くんが自宅のほうへ向かったのを確認した私は本来の目的を果たすためにもう一度スナックへ向かった。幸い、ドアはまだ鍵が掛かっていなかったからすんなり入れた。

「帰ったんじゃなかったの?」

「まだ目的を果たしてないので」

 呆れたような眼差しを向ける母親を無視して私はカウウター席に着いた。今度は帰れとは言わないようだ。


「その行動力とふてぶてしさだけは渚にも見習ってほしかったわね」

「どうも」

「褒めてないけど。で、なんにする?」

「精か体力がつくものとかあります? ニラレバ炒めとか」

「ウチは定食屋じゃないのよ。酒を頼みなさい酒を」

「ではハイボールを」

 彼女は物言いたげな目で私を一瞥し、手早くカクテルを作る。一言も発さずに。差し出されたグラスは薄い琥珀色に染まっていて、はじける炭酸が香りを空中に霧散させた。かすかに漂うアルコールの匂い。やっぱりこういった環境で未成年を働かせるのはどうかと思う。

 ただまぁ、彼の話を聞いた後だと少し印象は変わるけど。


「で、アンタの目的とやらは?」

「その前に……」

「前に?」

「私ってそんなに結弦さんに似てますか?」

 その名を出した途端、彼女の目の周りの筋肉がピクリと動いた。

「息子さんから全部聞きました。事故のことももちろん」

「あのバカ息子……」

 彼女は嫌悪感を隠さずダルそうに自分の前髪を鷲掴みにした。それに対して私はちょびっとだけ罪悪感が湧いた。この人にとってはきっと思い出すだけで苦痛だろうから。


「結弦さんの件は、その……お悔やみ申し上げます」

「いいわよ畏まらなくて……。もう何年前の話だと思ってるの」

「たとえ何年経とうとも、かけがえのない娘さんを奪われた事実は変わらないでしょうから」

「知った風な口を……」

 ここからはテーブルに隠れて見えないけど彼女が拳を握りしめたのが気配で分かった。それから彼女は私から視線を外して遠い目をした。いや、どこかを眺めているみたいだ。私の後ろの……おそらくあの家族写真があるあたりを。

「結弦はいい子だったわ。本当に私の子なのか疑わしいくらいにね。渚のほうがよっぽど……」

――私に似てる。そう呟いた彼女の表情はとても痛々しかった。


「お母様にとってそれは良いことではないのですか?」

「どうだかね。渚はよく分からない子だから。何をしたいのか、何をしてあげたら喜んでくれるのか、どんなことなら嫌がるのか、ちっともね。自分の意見や意思がないのよ、あの子は」

 私はグラスに手をつけず先を促した。

「昔からそうだったわ。アレをしたい、コレが欲しい、どこそこに行きたいって聞いた記憶がないのよ。友だちと遊びに行くことも家に呼ぶこともなかった。あの子が誰かと一緒にいて楽しそうにしているところすら見たことがないの」

 それはきっと、あなたのことを慮ってのことじゃないでしょうか。


「渚くんは幼い頃から一人でいることが多かったんですか?」

「そう、ね。とにかく結弦にベッタリだったからほかの子が入る隙なんてなかったって言うほうが正しいかもしれないけど。結弦も結弦で再婚して弟が出来るって聞いた時はネガティブな反応をしてたのに、いざ渚と触れ合ったら態度が百八十度変わるんだもの。それ以降、私の代わりに保育園の迎えに行ったりして子守りを積極的にするようになってね。いったい渚のどこが結弦の琴線に触れたんだか」


 琴線、か。確かに彼には不思議な魅力があるように思える。かといって明確に人を惹きつける要素があるかと聞かれると微妙なところだ。好きになる理由って、例えば容姿が好みだったり性格や趣味が一致していたりと多岐に渡るけど要くんの場合はそれとは違う抽象的な何かが極一部の人を射止めるのかも。

 だとしたら……私もその一人なのかもしれない。自分でも彼をことさら目に掛けているという自覚はある。教師という立場上、それがよろしくないことだとも。同様にこの人もその一員なのだ。


「ねぇ、渚は学校に友だちいるの?」

 私は返答に窮した。多分、彼に友だちらしい友だちはいない。一般的な親はやはり子どもには友だちに囲まれていてほしいと願うものだろう。だから『います』と嘘を吐くのは簡単だ。だけどそれになんの意味がある。

「いないのね」

「私が見た限りは、ですが」

「いいわよ。どうせ同級生なんて大人になったら連絡を取ることもないでしょうし。アンタもそうじゃない? 今でも連絡を取り合ってる同級生とかいる?」

「いえ、一人も。実は私も休みがちだったので学校で話すような友だちはいなかったんですよ」

「そうなの? 家庭の事情か、そうじゃなけりゃ病気?」

「えぇ、まぁ。そのせいで留年してますから」

「……大変だったわね」

 社交辞令だろうけどこの人から気を遣われるとどうも調子が狂う。情緒が不安定なのかな。


「私の留年は正直、しょうがないで済ませられる話なんです。どうすることもできなくて精一杯やった結果ですから。ただ、渚くんは違います」

「……」

「ご存じだとは思いますが、息子さんはこのままのペースで欠席していくと出席日数が足りず、進級できません。その要因のひとつとして夜遅くまでこのお店を手伝っていることが挙げられます。それに成長期の夜更かしは心身に悪影響を与えますし」

「だから手伝いをやめさせろって?」

「そこまでは言ってません。ただ、どうにか頻度を抑えられないでしょうか? たとえば他に従業員を雇っていただくとか」

「そんなお金ないわよ。アンタだってだいたい察してるでしょ」

「えぇ、まぁ。渚くんはいつも年季の入った服を着ていましたから。サイズも小さめでしたし」

「あーアレね。アレは渚が着るって譲らないのよ。みっともないから外で着るのはやめなさいって言ってるんだけどね」

「物を大切にしている、ということでしょうか?」

「そんな大層な理由じゃないわ」

「では、どういう意味で?」

「あの服はね……ぜーんぶ結弦のおさがりなの」

 その言葉を聞いた私が取るべき最も自然は反応はどれだろう。普通の女なら気持ち悪がったかもしれない。でも私は鼻の奥がツンと痛みを発するばかりで感情に大きな揺らぎはなかった。 


「明日、息子さんともう一度話してみます」

「無駄だと思うけどね」

 私はグラスを空にして席を立った。

「お代、ここに置いておきます。これからますます暑さが厳しくなるのでどうぞご自愛ください」

「……どういう風の吹きまわし?」

「渚くんが心配してましたよ。ここのところ体調が悪そうだって」

「本当にベラベラとよくしゃべる子だこと……」

 彼女はまた大きな溜め息を吐いた。この溜め息には担任の教師ごときに心を許しすぎだという意味が込められているように感じられたけど去年のこともある手前、気のせいじゃないだろう。


「あーそうだ。連絡先、書いといてくれる?」

「えっ」

「えっじゃないわよ。三者面談するんでしょ。都合のつく日があったら連絡するから」

 今までのらりくらりとかわし続けてきた割りにはヤケに物分かりがいいな。それに今スマホを持ってるんだからこの場で入力すればいいのにと思ったけど私にとって不都合な点はないので素直に従った。


「ついでに名前もヨロシク。ウチは連絡先だけ渡して帰っていくお客さんが多いから名前がないと誰のか分かんなくなっちゃうの」

「は、はぁ。これでいいですか?」

「ん。サンキュ」

 渡したメモ用紙を彼女はジッと見つめている。それは私が挨拶をして店を出る時まで続いた。


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