第23話


「姉ちゃんの話をしてたら思い出したんですけど、僕、このあいだ怪しい中学生に声を掛けたことがあるんですよ」

お墓参りの帰りに要くんがおもむろに口を開いた。結弦さんの話でなぜ中学生が出てくるのかよく分からないが私は無言で先を促した。それは要くんが不審者だと学校から疑われた一件に違いないから。


「その日は珍しく早起きして学校へ向かったんですけど途中で開かずの踏切に掴まっちゃったんです。その子は遮断機のすぐ近くに立ってました。僕が来てから十分は足止めされたからそれ以上待ってたことになりますね。控えめに言っても挙動不審でしたよ。トランペットか何かの楽器ケースを持ってたので吹部の朝練に遅刻しそうって感じですごく不安そうにしてました。で、通過する電車を全てジーッと眺めて……」

「開かない踏切を単純に恨めしく思ってた、なんて単純な話ではなさそうね。続けて」

「はい。僕もすることがなくて暇だったからなんとなくその子を観察してたんですけどちょっと普通とは雰囲気が違うなって感じて……。どう違うかって言われたら難しいですけど僕には踏切が開くのを待っているようには思えなかったんです」

 要くんの考えを聞いた私の頭には疑問符がいくつも浮かんだ。遅刻しそうなのに踏切が開くのを待っているわけではないってどういうことだ、と。


「先生、ピンと来ませんか? 踏切が開かないことを希望する状況が」

「いや、開いてほしいと願う気持ちならまだしもその逆ははぇ。渡りたくないってことは遅刻しても構わないってことでしょ? なんだったら学校に行きたくないってことで……」

「マンションの廊下で僕にダイブをかました先生なら分かると思いますと」

「ちょっと。恥ずかしいこと思い出させないで――」

 そこでようやくハッとした。ただ、出来ることなら当たってほしくない考えだ。


「まさか」

「そうです。あの子はあの日、自殺するつもりだったんじゃないかと思うんです」

「それじゃあ、来る電車来る電車全てを不安そうに眺めていたのは……」

「電車に飛び込む勇気と覚悟がなかなか決められなかった。そういうことじゃないですか」

「いや、さすがに考えすぎじゃないかな。だいいち、なんでそんなことが分かるのよ」

「過程は違えど僕も同じことをしようとしてたんでなんとなく分かるんです」

「同じことって……」

「あの日、先生が飛びこんでこなきゃ今ごろ僕は姉ちゃんと同じ所にいました。早い話が、僕も死ぬつもりだったんですよ」

 絶句。担任の教師に向かって死ぬつもりだったと発言するこの子の神経に私は唖然とした。それも世間話をするようなあっけらかんとした態度で。


「だってキミ、それは私の誤解だって言ってたじゃない。なんとなく黄昏れてた。あの日そう言ったよね?」

 冷や汗を掻きながら私は念を押して問い詰めた。しかし当の本人はどこ吹く風といった様子で飄々としている。この温度差はなんだ。

「逆に聞きますけどあの状況で素直に自殺未遂を認めると思いますか? 恥ずかしいから適当に誤魔化したんですよ」

「適当にってねぇ。そもそもどうして自殺なんか……」

「これも前に言いましたけど生きる意味を見出せないからですよ。大好きだった姉ちゃんはもういないし、この生活を続けていても母さんから一生付き纏われるだろうし、だったらとっとと死んで自由になりたいなぁって。あ、生きてれば楽しいことだってあるよ、みたいなありきたりな説得はやめてくださいね? 人生はプラスマイナスゼロだとか言う人って決まってプラスの人ばかりですし、そういうのもう聞き飽きてるんで」

 急に饒舌になったかと思えば十代にしてこの人生観。いや、死生観か。しかしそれを聞かされる私はどんな顔でいればいいのか。


「それで、どうせなら飛び降り自殺を自分でも経験しておこうって思ったんです。落ちていく時ってどんな感じなんだろう、走馬灯って本当に見えるのかなって、色々気になって」

「その好奇心を私は勉強や将来のことに向けてほしいよ」

「将来かぁ。なーんにも思い浮かびませんよ。予定ではもう死んでるはずだったので考えてませんでしたし」

「要くん」

「はい?」

 私は何も言わず彼の頬を叩こうとした。実際にその直前までいった。けど頬に触れる直前で勢いを殺したから実際にはペチンと触れるだけだった。


「先生?」

「私は今……嬉しさと怒りが混同してるの。どうしてだか分かる?」

「……えぇ、まぁ、なんとなく」

「ならいい」

 手を放す際、指の腹が輪郭をなぞると少しだけざらついた。それが微かに伸びたヒゲだと気づくと、こんな子どもみたいな顔をしてるくせに体だけは少しずつ大人に向かっていることが妙に気に障った。キミはまだ、大人になるには早すぎる。

「その子とは結局どうなったの?」

「今にも遮断機をくぐって渡りそうな雰囲気だったので『踏切、もう開くからそんなにソワソワしなくて大丈夫だよ』って言いました。それだけです。何も起こりませんでしたよ」

「そっか」

 私は彼を置いて歩き出す。あれだけ赤々としていた空は不気味なアズキ色に変わっていて、生暖かい風がそっと背中を押した。それがもう帰れと急かしているみたいだった。

『まだ早い』

 誰かがそう言った気がしたけどそれはまぎれもなく幻聴なのだ。


「先生。さっき言ってた将来のこと、ちょっと訂正します」

「訂正?」

 振り向きざまに問うと、彼は「自分から道を閉ざそうとしている子どもを見つけたら、それを止められる大人に僕はなりたいです」と言った。

「死にたいなら一人で誰にも迷惑かけずに死ねって付け加えるのも忘れずに、ですけどね」

「それは口に出さなくていいんだよ……」

「だって先生、考えてもみてくださいよ。誰にも迷惑かけずに死ぬなんて無理に決まってるじゃないですか。首吊りだと糞尿は垂れ流しになるし、電車に飛び込んだらダイヤが乱れて乗客に迷惑かけるし、運転士はトラウマになって仕事を辞める人だっているみたいですし、バラバラになった遺体を片付けなきゃいけないし、東尋坊や富士の樹海に行ったって遺された人が悲しくなることに変わりはないでしょ? だからこれは僕なりの自殺の止め方です。そんな場面に遭遇することなんてそうそうあってたまるかって話ですけどね」

「……相変わらずキミらしいね」

「それほどでも」

 褒めてないよバカちん。

「要くん。明日もちゃんと来なよ」

 彼はそっと頷いた。


 *


 夕飯を食べながらボケーッとテレビを眺めていると画面の向こうで募金活動に勤しむ中年の女性が目についた。その人はマスク越しに懸命に声をあげ、何かを訴えている。

〈ヒロトくんを救う回です。三歳の男の子です。アメリカに渡って心臓移植手術を受けないと生きられません。どうか皆さまの力でヒロトくんに生きるチャンスをください〉


 募金をしてくれた通行人に大げさなほど何度も頭を下げる彼女はヒロトくんとやらの母親らしい。テロップには【深刻なドナー不足。海外移植目指す家族】と書かれていたからおおよその事情は分かった。年に一度か二度、こういったニュースを目にする。

それから画面が切り替わって男性のアナウンサーが『脳死と判定された人からの臓器移植を可能とする臓器移植法が施行されて二十六年が経ちました。しかし、国内のドナー不足から海外に渡航して移植を目指すケースがあとを断ちません』と言ったところで私はテレビを消した。

 この手のニュース、とりわけ海外でと強調されると言いようのない罪悪感に苛まれてしまう。災害を生き延びた人が亡くなった人に対して申し訳なく感じるように。

 私も今、同じような感情を抱いて胸が少しだけキュッとなった。私は運が良かった。ただそれだけなんだ。でもそれとは対照的に天から見放された人がいる。結弦さんはその典型だった。


「まさか亡くなってるなんてなぁ……」

 箸を置いて突っ伏すとヒンヤリとしたテーブルの感触が頬に広がる。夕方に触れた結弦さんのお墓は太陽の光を思う存分に浴びていたからとても熱かった。まるで、死してなお生命力に満ち溢れているかの如く。そう感じたのは自分が不甲斐ないからかも。

 私はまだ、何も成し遂げていない。もう三十歳になるっていうのにこの体たらく。これじゃあなんのために生きているのか分からない。


 当時の私はもっと大きな志を持っていたはずだった。夢や希望に満ち溢れていたのに、ごく普通のつまらない生活を甘んじて受け入れている今の私をあの人が見たらどう思うだろう。きっと『もっとシャンとしなさい』とでも言って背中をバチーンと叩くんだろうなぁ。

 こういう時、神代先生ならなんて言うかな。最後に会ったのは五月の定期検診だから二ヶ月前ってところか。今は夜の十九時を少し回ったところ。ちょっと思い切って電話しちゃうか。仕事中だったらすみません。その想いが通じたのか、神代先生はなんとワンコールで出てくれた。


〈どうしたのこころちゃん。あなたから電話なんて珍しいじゃない〉

「あ、どうもです。ちょっとまぁ、色々あって。えっと……今お時間よろしいですか?」

〈そんなにかしこまらなくていいわよ。私とこころちゃんの仲でしょ? ちなみに今日は昼勤だからもう終わり。残業なんてせずにパパーッと帰ってきたトコ〉

「そうだったんですか。お疲れ様です」

〈そっちもね。教師って激務だから大変じゃない? 体ちゃんと労わってる?〉

「えぇ、なるべく……」

〈そーお? ならいいけどね。こころちゃんは自分のことを蔑ろにするきらいがあるからちょっと不安だわ〉

「む、昔の話じゃないですか」

〈そうは言っても人間の本質はそうそう変わらないものよ〉

 電話口で先生が笑う気配が伝わる。けど私は上手く笑えなかった。


〈で、どうしたの? こうしてわざわざ電話するくらいだから何かあったんでしょ。ひょっとして今のニュース見てた?〉

「今のニュース?」

〈あら、違った? 心臓移植のドナーが見つからないからアメリカで移植手術を受けるために募金が必要ってニュースをやってたからてっきりそれを見て何か思うことでもあったのかなぁって思ったんだけど〉

「……先生はエスパーか何かですか? まさにその通りなんですけど」

〈エスパーじゃなくて残念でした。私はただのしがない名医です〉

 突っ込むところなのかなぁ、ソコ。とまぁ世間話はこの辺りで切り上げて私は心の中に引っかかっている思いの丈をぶちまけた。先生は聞き上手だから勝手に口が動いていく。ただ、初めのほうこそ相槌を打っていたけど次第に静かになっていったことだけが引っかかった。


「というわけなんです。まさかお姉さんが亡くなってるなんて思わなかったから私、彼に辛い思いをさせちゃったかもしれなくて……あの、先生? 聞こえてますか?」

〈……なんてこと〉

「いや、ちょっと先生? どうしたんですか?」

 明らかに様子がおかしい。会話になってないし、そもそも声が震えてる。

〈そうか、そういうことね。苗字と住所が違うから気づけなかったんだわ……〉

「苗字? あのぉ、すみません。話が見えないんですけど……」

〈その子。歳は今年で十七よね?〉

「え、えぇ。高校二年生なので。先生、さっきからどうしたんですか。ちょっと怖いですよ?」

〈私、その子と十三年前に会ってるわ。もっとも、向こうは覚えてないでしょうけどね〉

 私は驚きのあまりスマホを落としそうになった。それと妙に心臓がうるさい。コンクールの出番直前で緊張しているみたいに、心臓だけが別個で意思を訴えているみたいに。

〈こころちゃん。ひょっとしたら私たちはもの凄く狭い世界で生きてきたのかもしれないわ〉




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