第20話


* 七月十日


 週が開けた月曜日。私はいつも以上に重い気分で出勤した。理由はもちろん先週の金曜日の出来事だ。日頃の疲れが溜まっていたとはいえ生徒の前で二度目の寝落ちとは。しかも今度は数十分なんて可愛らしい時間ではなく、ガッツリ六時間も熟睡してしまった。おまけに病人である要くんに気を使わせてしまう始末。いったいどんな顔して会えばいいんだろうか、考えるだけで気が滅入る。


「おはようございまーす……」

 職員室へ入った時の挨拶も今日はおざなりだ。とっとと席に着いて甘めのコーヒーでも飲みながら授業の準備でもしよう。とにかく考える時間が欲しい。要くんの件もそうだが、私が今一番頭を悩ませているのは彼の母親のことだ。なぜ私は結弦と呼ばれたんだろう。一般的な推理をするのなら私が結弦という人と容姿が似ていたから見間違えたんだろうけど、それだと幽霊でも見たのかというほどの驚きようが腑に落ちない。


「ってかテンパりすぎてロクに挨拶もできないまま帰っちゃったけどどうしよ……」

 要くんが事情を説明してくれていたら助かるんだけども。あぁダメだダメだ。ちっとも分からん。思考も未だに明けない梅雨のせいでうねる髪の毛みたいにこんがらがってる。こんなの冷静に分析しろって言うほうが無理でしょ。

 と、もう全てを投げ出してベッドで惰眠を貪りたい欲求に駆られた時、丸井先生が「飛鳥井先生、ちょっといい?」と珍しく真面目な様子で顔を寄せてきた。

「どうしたんですか?」

「実はね、校長先生から飛鳥井先生が出勤したら校長室に連れてきてくれって言われてるの」

「え、校長先生、ですか。わざわざなんの用なんでしょう?」

「とにかく早く行ったほうがいいわ」

 校長先生が直々に一教師へ? 憂鬱だなぁ。ただでさえあんまり話したことがない人なのに朝っぱらからだなんて嫌な予感しかしない。ウチの校長先生は珍しく女性なので実はよくある三ヶ月面談とかでした〜、とかで済めば万々歳なんだけども。


「失礼します」

 必要以上に長く感じた廊下を抜けて校長室に入ると校長先生が応接間に座って待っていた。てっきりいかにも社長席ですといった奥の机にいるのかと思っていたのでまずそこで私は虚を突かれる形となった。

「飛鳥井先生。どうぞお掛けになって」

「あ、はい。失礼します」

 校長先生は齢五〇半ばだけど背すじが伸びているし、私と同じスラックス派であることも相まってバリバリのキャリアウーマン然としてカッコいい。まぁ、そのせいで威厳がありすぎてちょーっと取っ付きにくいが。


「あの、校長先生。ご用件というのは……」

「まぁまぁ飛鳥井先生。そう焦らずに」

「は、はぁ」

「そうそう。いい茶葉が手に入ったのよ。飛鳥井先生は紅茶好き?」

「え、あ、はい。人並みには」

「そ。じゃあ淹れるからちょっと待ってて」

 のっけから調子が狂う。私は紅茶を飲みにきたわけじゃないし、用が済んだらとっとと戻って授業の準備だってしたいのに。しかしここで断れないのが悲しい社会人の性である。

「飛鳥井先生はもう本校には慣れましたか?」

「えぇ、それはもちろん。日々充実しております」

「それなら安心しました。私も昔はここで教鞭を執っていたのですが、みな手の掛からないいい子でしょう?」

「そ、そうですね」

 心にもないことを言うと罪悪感が凄い。けど『本当は手の掛かる子が一人いるんです』なんてこの空気で言えるわけないでしょ。

「ところで飛鳥井先生のクラスには欠席する頻度の高い男子生徒が一名いると聞いていますが」

 ドキリ、と心臓が強く脈動した。


「えぇ、確かにいます」

「どんな名前だったかしら」

「要渚くんといいます」

「そうそう、要くんだったわね。以前、緊急の職員会議でも名前の挙がった子だったわ。近隣中学の女子生徒に声を掛けたとか」

「ですからその件は何かの間違いかと。彼がそんな不審者じみたことをするとは思えません」

「あら、随分肩を持つのね。その子のこと」

「教え子を信じるのは当たり前のことかと」

 何が言いたいんだろう。明らかに探ろうとしてるな。

「いいですか、飛鳥井先生。今の時代はコンプライアンスだ多様性だなんだと世間が相当うるさく、過敏になっているんです。波風は極力立てないようにしてくださいね。本校の名前に傷が付きますから」

「それは重々承知しております」

「そう。だったら改めてお聞きします。あなた、先週の金曜日の真夜中にその要くんの家から出てきたというのは本当ですか?」

 その言葉をぶつけられた途端、また心臓が自分の意思とは関係なく荒ぶった。そうか、私がわざわざ校長室に呼ばれたのはそういうことか。


「ほかにもありますよ飛鳥井先生。要くんの親御さんは飲食店を経営しているようですが、あなたはそのお店……スナックに要くんと連れ立って入っていったことがあるみたいですね」

 そこまで知られてるのか。いったい誰が垂れ込んだんだか。しかしスナックという単語を強調して言ったのはどういう了見だろう。教職に就いている人からすればあまり良い印象を持てない職業かもしれないがどうも嫌味ったらしい。それだけ私に罪の意識を持たせるためか? いずれにせよ行動を把握されてるなら下手な誤魔化しは通用しないな。


 だから私は開き直って正直に伝えた。元は家庭訪問のためにスナックへ行ったこと、手料理を振る舞われたこと、夏風邪をこじらせた彼の看病に行き、日頃の疲れも相まってうたた寝と言うにはあまりにも長い時間眠ってしまったこと。包み隠さず全て。それを聞いた校長は眉間を押さえ、険しい表情となった。


「事情は概ね理解できました。しかしながら一教師として見過ごすことのできる行為ではありません。聞けば、あなたはその要くんとことさら仲が良いようじゃありませんか。二人きりでいるところを見かけることが多いと他の生徒や教員の方から聞きますよ」

「おっしゃる通りですが、それはあくまでも業務の一環として結果的にそうなっているだけです。ひと様の家庭をとやかく言うわけではないですが彼の家庭はネグレクト気味ですし、進級が危うくなるほど欠席を繰り返す生徒となればそれをサポートするために自ずと触れ合う時間が増えると思いませんか?」

「えぇ、それは一理あります。要くんの件は昨年もちょっとした問題になりましたから。だけどね飛鳥井先生、考えてもみてください。あなたが年頃の男子生徒の母親だったとして、真夜中まで女性教師と息子が一緒に過ごしていたらどう思いますか。誤解されても言い逃れできませんよ?」

 その瞬間、私は羞恥と怒りで顔から火が出そうだった。誤解って、つまり私と要くんがことをしたのではと疑われてるってことだ。自然と手が拳の形を取った。


「校長先生……。ひとつだけお聞きしてもよろしいでしょうか」

「なんでしょう」

「要くんに関する昨年の問題について詳しくお聞かせ願えますか」

「あなたは知る必要のないことです」

 校長先生は冷たい目で私を見てくる。少なくともこの人は私の味方ではない。要くんの味方でも。大事にしてることは学校の名に傷がつかないかどうかという世間体だけなんだ。

「そうですか……。では失礼します」

「待ちなさい飛鳥井先生」

 私は踵を返しかけた姿勢のまま「なんでしょう」と答えた。

「一人の生徒に情を入れ過ぎると破滅を招きますよ」

「……お心遣いに感謝いたします」

 

 ドアを力任せに閉めたくなる気持ちをこらえて足早に校長室を去った自分のことをこれほど褒めたいと思ったのは初めてだ。

 職員室へ戻るとさっきとは違って何人かの思わせぶりな視線を感じた。それで目が合うとすぐに逸らされるんだからヤんなっちゃう。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、丸井先生が小走りで私に近づいてきた。

「どうだった飛鳥井先生。大丈夫だった?」

「大丈夫だったって何がですか」

「何ってそりゃあ……」

 あぁ、なんだ。もう周知の事実なんだ。それにしても情報の回りが早いこと早いこと。金曜の出来事で今日はまだ月曜の朝だってのに。田舎の噂話かよ。

「平気ですよ。ただの誤解ですから」


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