第三章 シーグル、グレン 3
エルフィンが胸を抑えながらゆっくりと立ち上がる、エトヴァスはゆっくりと近づいてくる
フィロリスが柄を強く握り締めた、ルーイがエルフィンの傍に降り立つ。
「〝原書〟を渡してください所長、そうすれば……」
エトヴァスは懐かしい目をして言った、その表情は目以外からは読み取れそうにもない。どこにでもいそうで、どこにでもいそうにない、エトヴァス〈なにか〉なのである。
「そうか、お前が」
「所長、お願いします」
所長と呼ばれたエルフィンは、10メートルほど先にいる男に目を向けた。
「エルフィンさん?」
ルーイがエルフィンとエトヴァスの間に割って入る。
「昔の部下ですよ、研究所時代のね」
エトヴァスがそれを聞いて苦笑いを浮かべた。
「渡す気は」
「残念だが。それにもう私は所長などではないよ」
「そうでしたね」
「私はあれをアステリスクに渡すわけにはいかない」
力なく首を振るエルフィン、それでも口調はフィロリスの知っているエルフィンだった。
「そう言うと思っていました、力ずくでも返してもらいます」
一歩前へと進むエトヴァス、チャリンと金属の輪が当たった。
「俺が相手してやるぜ、ルーイは傷を治してやってくれ」
フィロリスがカタナを一振りする。
正面で向き合う二人。
お互いの顔をじっと見た。
「もしや、あなたは……そうですか」
「なんだよ」
思いついたように頷くエトヴァスに対して、ぶっきらぼうに答えるフィロリス。
「運命とは奇遇なものですね、所長」
「ああ、そうだな」
フィロリスを見つめたままエルフィンに言う。
エルフィンは抑揚のない声で返した。
「なんのことだよ」
「いえいえこちらの話です」
とぼけた顔で首をかしげる。
少しの間をおいてフィロリスが言う。
「……あんたが、レインを襲ったんだな」
「ええ」
隠すでもなくあっさりとエトヴァスは認めた。
「なぜ、レインさんを?」
「なぜ? 私達には彼女が必要だからですよ」
一見ごく普通の少女にしか見えないレインを、超国家組織として大陸の一つを統治するアステリスクが必要とする理由はないはずだ、そう、わざわざ反対の大陸、エスカテーナが治める土地まで出向くことは考えられない。
「必要?」
回答にならない答えに、質問をするルーイ。
「それは、所長が一番よく知っているはずです」
フィロリスはエトヴァスを見たままだ、ルーイはエルフィンを見上げたが、エルフィンは表情を変化させるでもなく、フィロリスと同様にエトヴァスの目をしっかりと見ていた。
「まあ、あなた方には関係のないことですよ」
エトヴァスがフィロリスの顔を見た。
「ああそうだ、あなたには少し関係あるのかもしれませんね、フィロリス君」
「!?」
平然とフィロリスの名前を言うエトヴァス。
「あなたのことならあの当時の研究所員全員が知っていますよ、研究所を崩壊させた張本人なのですから」
下を向くフィロリス、わずかに震えている。
「いや、張本人という言い方は適切ではないのかもしれませんね、何しろあなたは……」
そこまで言い終わらないうちに、フィロリスのカタナが走っていた。
右肩すれすれの位置でかわすエトヴァス、わざとかはわからない。
そのまま右へ払い上げる、エトヴァスは後ろに下がりすれすれの範囲で切先を逸らす。
「てめぇ……」
間合いを見切られている様子のフィロリス、一方エトヴァスも反撃する様子がない。エトヴァスが揺れるたびに金属の輪が高い音を鳴らす。
ルーイは、フィロリスが怒りに任せてカタナをふるっているのだと感じた。
日ごろは短絡的な行動が目立つフィロリスだが、こと戦いに関しては、二手先を読むことを忘れていない。そうしなければ接近戦で勝利を収めることは出来ないからだ。
「エルフィンさん」
起き上がろうとするエルフィンにルーイが声をかける。
「何とか起き上がれます」
致命傷ではないにしても、相当の傷を負っていることは誰の目から見ても明らかだった。ただ、刃による凍傷がないだけだ。
全く当たる気配をみせないフィロリスの攻撃、余裕を持ってエトヴァスが口を開く。
「どうして君が私を攻撃しなくてはいけないのですか?」
右斜め上からの斬撃を止めて、フィロリスは一歩後ろにステップをした。
「どうしてだなんて理由がいるのか?」
「少なくとも、あなたに危害を加えるつもりはありません、命令されたこと以外行動する気はありませんから」
当たり前といった感じでエトヴァスが答え、釈然としない様子のフィロリスに続ける。
「あなたはあの事故以来、アステリスクとは何の関係もない、何の関係もないのだから、この件に関わる必要はない、そうでは?」
「目の前でやられている奴がいて、黙って見てろっていうのか」
「所長にもこれ以上危害を加えるつもりはありません、もちろん抵抗しなければ、ですが」
「レインを連れて行くんだろ、だったら同じことだ」
少しの沈黙もなくエトヴァスが答える。
「あなたが彼女をかばう必要がどこにあるんです?」
少しだけ考えてフィロリスが小さな声でつぶやいた。
「……必要はない」
「そうでしょう」
力強くフィロリスが返す。
「レインはきっとあんたらがすることを望まない、だから俺はあんたを止める、ただそれだけだ」
「……そうですか、それなら仕方がありません」
フィロリスはそれ以上何も言わなかった。
力をこめて踏み込み、エトヴァスとの間合いを詰める、まだ湿り気の強い砂に足跡が残った。
怒りはおさまっていないようだが、冷静さを取り戻したのか的確にエトヴァスに攻撃をしかける。
エトヴァスの白い服に細かな傷が入る。
懐から二本のナイフを取り出し、フィロリスのカタナを受ける。
鉤つきのナイフは、刃物を受け止め流すことができる。
広場には硬質的な音が響く。
フィロリスが優勢であった、傷一つついていない。
射程距離が長いカタナを利用し、ナイフが攻撃範囲に入らない程度に間合いを取りつつ牽制をしていく。
血の滲んだ左腕を気遣い右手のナイフでカタナをはじく。
押され気味のエトヴァスがひゅぅ、と息を漏らした。
「いけない、フィロリス」
しかしエルフィンの声は交戦中のフィロリスには届かなかった。
「エルフィンさん? 何が……」
ドスッ
傍にいたルーイがエルフィンに聞こうとしたが、その声は鈍い音に覆われてしまった。
フィロリスがエトヴァスの方に倒れこむ、エトヴァスが身をかわしたので、フィロリスはそのまま地面に叩きつけられた。
一瞬何が起こったのかわからないフィロリスは、自分の背中に痛みを感じたまま起き上がろうとした。
更にカタナを握っていた右手に痛みが走る、フィロリスはその体勢で顔を上げた。
右上腕部にナイフの傷跡、服が裂け、血が滲み出している、手に力が入らない。
エトヴァスがかわすときにつけたものだ。
動脈は……大丈夫みたいだな、フィロリスはそう判断して左手で体を起こし後ろにはねとぶ。
右脇腹に衝撃、その反動でフィロリスの体が左後ろに跳ぶ、エトヴァスが左足で蹴り飛ばしたのだ。
グッ、体勢を立て直し、エトヴァスを見る。
「もう、やめませんか」
「何を、した」
呼吸器に痛みが出たのか、フィロリスの呼吸が安定しない。
背中はただの打撲のようだ、切り傷がないのが分かる。
「あなたは私には勝てない」
ライゼンに言われた言葉を、自分に言い聞かせるように言うエトヴァス。
カタナを左手に持ちかえて、感触を確かめる。
「何をした」
自分の心とエトヴァス両方に言う、エトヴァスが何らかの攻撃をしていることには違いない。
踏み込むのを躊躇するフィロリス、うかつに攻撃するのは危険だ。
「って思うと思ったか!」
左手に力を込めて、真横にカタナを振るう、間合いを一瞬取り忘れて受けた右手のナイフが吹き飛ぶ。
勢いで斬撃を繰り出すフィロリス、力でエトヴァスが押し切られていく。
「どっから来るのか分からねぇなら、あんたを叩くだけだ!」
フィロリスにしてみれば当然の理屈だ。
魔術を主に使う者への最も基本の対策法を実践する、少々短絡的な行動ではあるが、他に手はない。
「ほらっ、どうした」
力の入らない左腕から空いた右手にナイフを持ち替えるが、フィロリスの速さに片手ではついていけそうにもない、エトヴァスは判断した。
誰にも分からないほどさりげなく右足で地面を叩く、土の感触を確かめているようだ。
先ほどと同様に息を漏らす。
気配を感じて、斬り込むフィロリスがさっと左によけた。
フィロリスの後ろから土の塊が飛んでくる、かすった右腕が鈍器を当てられたかのように肉が軋んだ。
浅く切れた傷口から血がフィロリスのうめきともに溢れる。
とっさに振り返ったがそこには何もなかった。
エトヴァスのナイフがフィロリスの肩をかする。
「フィロリス!」
ルーイの声が飛ぶ。
おそらく声は届いているのだろうが、フィロリスには反応する余裕はない。
「彼は操作術者です!」
ルーイが続ける。
ナイフを刀の根元で受け流し、間合いを取り直す。
「そうか、あんた以外にも潜んでいるってことか」
何の感情の起伏もなく頷くエトヴァス。
おそらくどこかにエトヴァスの操っている魔物がいるのだろう、それがフィロリスに攻撃を仕掛けているのだ。
「タネがわかれば」
フィロリスがエトヴァスとの距離を一気に詰める。
「怖くない!」
移動のスピードを使い、カタナを振り下ろさずに固定してエトヴァスのナイフに当てる、詰めの防御体勢だ。お互い硬直する。エトヴァスは左腕に、フィロリスは右腕に怪我をしている。
力はフィロリスのほうが上だが、カタナは刀身が長いだけに距離が詰まると攻撃の種類が限られてしまう、それにフィロリスが怪我をしているのは利き腕だ。
「あんたが……コントロールしているなら、スイッチがどこかにあるはずだ」
フィロリスは自ら動きを封じさせて相手の出方を探るつもりだ、このままいけば力のあるフィロリスに押し切られてしまうのもエトヴァスにはわかっている。
エトヴァスがひゅう、と口笛にならない音を出す。
「それか!」
前もって予期していた通りにカタナを上に跳ね上げ、エトヴァスの懐に入る。
地面から土の塊がフィロリス目掛けて飛んできた、もちろんその場にはもう誰もいない。
土に擬態する魔物のようだ、土の盛り上がりからいくつもの鋭い触手が伸びている。
相手の死角に入るなら真下と真上がいい。一番死角になりそうな背後は意外と反応しやすい、振り向き様になぎ払うことができるからだ。
右袖に戻していたファイバーナイフを、腕を振り下ろすように動かし魔物のいる地面に突きつける、奇怪なうめき声が聞こえた。
触手が地面に倒れていくのを確認するまでもなく次の行動に移る。
そのままエトヴァスの右脇腹をすり抜けて、カタナの柄で背中を打つ。
バランスを失いかけたエトヴァスに斬りつけようと、空中で右手に持ち替える、痛みが走ったが、しびれて握れないよりはまだいい、エトヴァスの背中に振り向くように半回転してカタナを横に振る。
完全に決まる予定だった。
エトヴァスが唇を曲げてにやりと笑う。
「残念、もう一匹」
フィロリスのカタナが届く前、エトヴァスの影から土の塊がのびる、人間の腕ににも似ていた。その指らしきものにはエトヴァスが落としたはずのナイフが絡みついていた。
ナイフがフィロリスの左腹部に突き刺さる、自らの回転運動でそのナイフは限界までフィロリスの体にめり込んでいく。
フィロリスに背中を向けたまま、惰性で向かってくるカタナをエトヴァスは左腕に持ちかえていたナイフで受ける。力のこもっていないカタナを受け流すには怪我をした左腕でも十分だった。
力なく仰向けに倒れるフィロリス、右手にはもうカタナは握られていない。
左手を動かそうとしたが、自分では動かしているのかどうかの判断もつかない、よほど傷は深刻らしい。
人間の体はそう丈夫に出来ているものではない、たった一つの傷でも致命傷になることがある。
「……ちっ」
自分の体から温かい血液が流れ出ている、止められそうにもない。
まだこの程度では死にいたらないことはフィロリス本人がよくわかっていた。応急処置をすればまだ何とかなりそうだったが、感覚が失われてしまっている。
フィロリスは自分の意識が薄れていくのを冷静に感じ取っていた。
周りの音がやけに静かだった。
「フィロリス!!」
ルーイが叫んだが、その声はフィロリスの耳にはもはや届いていなかった。
エトヴァスはフィロリスを見ずにエルフィンに近づこうとする、その表情に変化はない、勝ち誇った顔でも仕事をやり終えた顔でもなかった。
「所長、今ならまだ彼は助かります、〝原書〟を渡してください」
右手に残ったナイフを懐にしまった、もう一つのナイフはフィロリスに突き刺さったままだ。
仰向けになり微動だにしないフィロリスを見て、ルーイが駆け出そうとする、それをエトヴァスが制止。
「動かないでください、彼がどうなってもいいのですか?」
ルーイが動きを止められた、湿り気のある土にルーイの爪がめり込む。
「所長、渡してくれますね」
さらに一歩近づくエトヴァス。
フィロリスとの距離が広がる。
「……ああ」
エルフィンがふらふらと立ち上がり、手前に落ちていた本を拾い上げる。
力なく投げた本、弧をえがく。
本を受け取ったのは、フィロリスだった。
虚ろな表情をしたフィロリスがエトヴァスとエルフィンの間に立っていた。
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