第20話 長広舌ふたたび
解散になったので、僕は旧校舎に向かう。
そこに後ろから声をかけられてびっくりした。
「結城くんも自習室に行くの?」
振り返ると添田さんがいた。
「さっきは虫を取ってくれてありがとう」
「いや、大したことないよ。あ、それで僕は図書館に用があるんだ」
「そっか。急に呼び止めてごめんね。じゃあ」
一礼すると添田さんは建物の東側にある通用口の方へと向かう。それを見送って僕は正面玄関へと進んだ。
みんなの認識している図書室は旧館の一階の西側を占めている。
僕が用があるのは地下の書庫だった。
一抹の不安を覚えながら扉のところまで行くと、表に張り紙はない。すりガラスからは明かりが漏れていなかった。
この場合、延滞になっても俺は悪くないよな。
そんなことを考えながら念のため、取っ手に手をかけ力をこめると扉がスライドする。
中に頭を突っ込むと明かりが点いていた。
首を捩じって扉の裏を見るとすりガラスの部分には何かのポスターがぴたりと貼られている。なるほど、このせいで光が漏れないようになっていたのか。
首を戻すとカウンターには円城寺さんが座っていた。
目をつぶって舟を漕いでいる。
僕は扉を閉めるとわざと足音をさせながらカウンターに近づいた。
円城寺さんが薄目を開ける。
「なんだ、少年? 本の返却か?」
「読み終わらなかったので一度返しにきました」
「律儀なことだ。また借りていくんだろ?」
僕から本を受け取るとリーダーを取り出して、本のバーコードを二回読み取った。そして、僕に本を渡してくれる。
その途端に円城寺さんは左手を口に当てつつ大きな欠伸をした。
僕の顔を見て気だるげな声を出す。
「本当は休みにしても良かったのだが、少年が来るかもしれないという義務感で連休の谷間に出勤してきた私にそのような非難がましい目をするのか。いやはや、まったく、恩知らずとは思わないのかね?」
「別に何も思っていません。そんな円城寺さんにちょっとした謎があるんですけど、聞きたいですか?」
円城寺さんはぐにゃぐにゃしていた体を真っすぐに起こした。
「それは素晴らしい。では早速聞かせてくれたまえ」
「前回以上にとりとめのない話ですよ」
「それを判断するのは私だ。ここまで暇だと謎はなんでもいいという気分なんでね。轍鮒の急だ、コップ一杯の水程度のものでも拝聴しよう」
テップノキュウ。すぐには音が言葉に変換されず考えてしまう。
円城寺さんは僕の表情を伺っていた。どうやら教養を試されているらしい。ちょっと癪に障ったので、ボケることにする。
「デッドプールって九作もありましたっけ?」
言ったそばから出来の悪さに恥ずかしくなった。
円城寺さんはうんうんと頷いている。
「私の言ったことが分からなく話をずらそうというなら、機知というものだ。分かっていてなら、それは稚気だが、私は嫌いじゃないぞ」
「すいません。忘れてください。わだちの中の魚が干物にならないように、そういうつもりで話します」
ちょっと表情を変える円城寺さんに対して、僕はベランダ男のことを説明する。
話が進むうちに円城寺さんは目を輝かせ始めた。
「なるほど、それは面白いな。確かに何か事情があるように思える。それで、覗きではなさそうだというんだね?」
「雑居ビルの壁と小さな窓、それに数台の車しか見えませんでした。それにその人はベランダの柵の外には興味を示す様子もなかったです」
「スマートフォンに接続した赤外線カメラで撮影していた可能性は?」
「しゃがみ込んでいましたけど、そんなふうにケーブルで伸ばしたものを操作するような動きはしていなかったと思います」
「そうか。それで少年は、外に出たいわけでなく、中に居たくないからやむを得ず外に出ていたと考えたわけだ。その発想の転換は悪くないな」
着眼点を褒められたようでちょっと嬉しい。
「シックハウスの可能性はないと潰されちゃいましたけどね。確かにほんのちょっと外に出るだけじゃ意味が無いですし。それで、中に同居人がいて喧嘩をしてしまい外に出された可能性も考えたのですが、自分でもその解釈にはしっくりきていません」
「まあ、世の中には想像もつかないような趣味嗜好を有している人間というのはいるものだ。まあ、趣味というのは元々興味のない者にとっては無価値だからこそ趣味と言える面もあるな。さしずめ、この私なら謎解きがそれに当たるのかもしれない」
そう言ったきり、円城寺さんは目をつぶって背もたれに体を預けた。
カウンター越しに向かい合わせの位置にある椅子に座って僕はきょろきょろと周りを見てしまう。
首を真正面に戻すと嫌でも円城寺さんの姿が目に入ってきた。
ぱっと見にはリクライニングチェアで仮眠をとっているように見える。
つまり、僕は女性の寝顔をまじまじと観察している状態になってしまうわけだ。
一般的にはあまり好ましくない行動のような気もする。
でも、自然と目は円城寺さんに吸い寄せられてしまうのだった。
肌の色は白く、少し不健康そうな印象を与えている。唇の色もあまり彩度が高くなかった。口紅でも引けばまた印象はかわるのかもしれないが、その気は無さそうだ。
無造作にまとめられた髪の毛の量は多く、艶やかで長い。きっと平安時代なら、この髪だけで多くの男性を虜にしたに違いないと思う。
白衣の胸のあたりがゆっくりとわずかに上下していなければ生きているのか心配になるほど静謐な印象で佇んでいた。
ひょっとすると疲れが出て寝てしまったのかもしれない。そんな疑念が湧いたが、声をかけるのは我慢した。僕は何もしていないが、別に退屈でもない。
僕は神様から啓示が下されるのを待つように円城寺さんを見つめ続けた。
ついに目が見開かれる。
「少年、まだ居たのか」
「それはご挨拶ですね」
「いや、褒めているのだ。思索の邪魔にならぬように気配を殺しているとは感心したよ。それで、少年、一ついいことを教えてやろうじゃないか。女性に対して干物というのはやめた方がいい。本人に自覚があっても他人に指摘されても腹が立たないかというと別問題だからな」
あ。さっき、轍鮒の急の返しのときにそんなことを言ったっけ。
「それは失礼をしました」
「まあ、いいさ。私は気にしていないぞ」
「それで謎は解けましたか?」
「まあ、なぜ外に出ていたのかという理由については推測がついている。では、条件を整理しようか。まず、この通称ベランダ男が部屋の外に出ているのは必要に迫られてやむを得ずということになるだろう。少年が目撃したように、男は一度外に出て、短時間で中に入り、また外に出てきている。部屋の中に居辛いものがあるのであれば、男は可能な限り外に出ていようとするだろう。ただ、スマートフォンの操作という点からすれば屋内の方が圧倒的に快適だ。しゃがんだ膝の上の不安定な場所で作業をするより、机などの上の方が効率はいいだろう。しかも、屋内には光回線が引いてあるという。それなのに外に出てきている理由の答えは、少年の友人の行動にある」
秋山の行動?
「公衆無線の電波を使いたかったということですか?」
「そうだ。では、わざわざ光回線よりも速度が遅い無線を拾いたいのか。考えられるのは身元の隠蔽だろう。前提条件として、携帯電話のキャリア回線は契約者が特定されるので論外だ。そして、部屋に引いてある光回線は高速だが、ネット空間へアクセスする際にIPアドレスが接続業者に残ってしまう。つまり、良からぬことをしでかした場合に、アパートの住居十五宅のうちのどこかの住民が実行したということが記録に残ってしまうわけだ。一方で公衆無線の場合は、本人確認がそれほど厳格ではないようだね。アクセスポイントまでは特定できても、その周辺半径約百メートルの範囲から接続されたという推定しかできないわけだ」
「理屈の上ではそうですね。でも、犯罪なら警察が捜査をするでしょう?」
「ベランダ男もつい気が緩んで夜間にやっているようだが、日中なら何千人がスマートフォンを持ってうろついている繁華街だぞ。夜間だって、簡単に対象範囲をしらみつぶしにはできないだろう。よほどの重罪ならともかく、警察がそこまでの人員を割くのは難しいな」
「それで、何をしているかまで分かりますか?」
「ここから先は推測の精度は落ちるぞ。刑事事件としては警察が積極的に動くほどではないが、自分がやっているのを知られるのは避けたい。その塩梅にぴったりなのは、ネット上での誹謗中傷だろう。発信情報開示を食らって民事訴訟を起こされると賠償金を請求されるだけでなく、社会的に瀕死状態になるからな」
憑かれたようにスマートフォンを触るベランダ男の姿を思い返すと、円城寺さんの推理した内容にぴたりとはまる気がするのだった。
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