第19話 赤いダニ
秋山の家に遊びに行った翌日の日曜日の夜遅くまで読んだが、『ジャン・クリストフ』の第四巻を読み終わることができずにタイムオーバーとなる。
夜更かしして秋山とゲームをしたのが祟って、昼寝をしてしまったのが敗因だった。
円城寺さんが定める貸出期間は暦日判定なので、このままではゴールデンウィークの後半中に期限を迎えてしまう。
連休の中日の月曜日にやむを得ず一旦本を返却することにした。
母親は有給休暇を取得していたし、瑛次は何かの行事の振替休日ということで学校はお休みである。
正直僕もサボりたいという気持ちがあったが、仕方ないと肩をすくめ、そっと家を出た。
気候としては一年で一番気持ちのいい時期の一つである。
きっと多くの人は行楽などで東京から離れているのだろう。心なしか、朝の路上を歩く人の数も少なかった。
遊歩道のベンチに座る老人の周囲に鳩と雀が群れている。
老人が手にしているビニール袋の中身を待ちながら、とてとてと歩き回っていた。
僕が歩いていっても関心がなさそうに、ほんのちょっとよけるだけで飛び立とうともしなかった。
僕もここで朝食にしようと思っていたのだけど仕方ない。
学校まで行って、校内の並木道を進み、少し引っ込んだ位置にある木製のベンチに腰掛けた。
家から持ち出した買い置きの食パンを袋から取り出し、途中の自販機で買った飲み物で流し込む。
秋山家の朝食と方向性は似ているが、丁寧さとか豊かさという指標では遠く及ばない。
いつもよりは遅い時間だが、登校してくる生徒の数は少なかった。
さて、そろそろ教室に行こうかというときにふと横を見ると、背もたれの部分に赤い小さなものが点々とついている。
近くの植え込みから伸びた枝葉を伝った虫か何かだろう。
横に置いていた鞄にもくっついていたので手で払おうとする。
「あ、触らない方がいいよ」
声の方を向くと野球部のユニフォーム姿の男子生徒が足踏みをしていた。どうも朝からランニングをしていたところらしい。
大きく呼吸をして息を整えると話しかけてきた。
「それ、カベアナタカラダニって言って、そこのベンチに一杯いるんだよね。それで潰した体液に触れると炎症起こす可能性があるから。噛んだりはしないので気持ち悪いなら息を吹きかけて飛ばすといい」
「詳しいですね」
急に照れたような顔になるとコクリと頷く。
「いきなり話しかけて驚かせたね。それじゃ」
手を挙げるとランニングを再開した。
その後姿に、ありがとうございます、と声をかけると振っていた右手をまた一度上へと上げる。
鞄を持ち上げると目に付いたダニを吹き飛ばした。
自分の教室に入り、ちょっとだけ本を読み進める。
ホームルームが始まっても半分近くは空席のままだった。前の席の秋山も欠席している。
授業もほとんどのものが緩い感じだった。
これだけ欠席が多いとなあ、とぼやきながら先に進めずに復習で時間を終える。
中には、抜き打ちの小テストをする先生もいた。
うええ、と力ない声を漏らす生徒に対してニヤリと笑いながら言う。
「大丈夫だ。今日のテストは加点方式だ。どれだけ出来が悪くても減点はしない。最悪零点でも何も無し。お得なテストだろ? 今日休んだ者に対しても配慮をした素晴らしい内容じゃないか」
連休の谷間に出勤せざるをえないうっ憤を少しでも晴らそうという意図が透けて見えた。
昼休みの売店での攻防でも人が少なかったお陰で、人気の焼きそばパンを手に入れることができる。僕は普段あまり真剣に争奪戦に加わらないせいもあるのだけど、伸ばした手の爪で引っかかれることもあるという人気の商品を始めて手にした。
食べてみると取り立てて美味いというほどでもない。ごく普通の焼きそばパンだった。まあ、手に入りにくいという付加価値はあるのだろう。
パイとパンの中間のような微妙な生地にテラテラとしたチョコがかかっているものとどちらが食事らしいかといえば、間違いなく焼きそばパンに軍配は上がる。
もう一つの比較的人気の高いコロッケパンも食べると育ち盛りの胃袋も落ち着いた。炭水化物の炭水化物乗せ。ザ・カロリーの暴力である。
放課後になると一応弓道場に顔を出した。
上級生の人数が揃ったら練習をするが、そうでなければ危ないのでやらないと事前に聞いている。
「あ、きたきた」
緑川先輩の明るい声が響いた。
道場内には数えるほどしか人がいない。僕を含めて一年生が七人、緑川先輩に部長ともう一人だった。
「今年の一年生は真面目だなあ。いいことだけど、部長、これじゃ練習にならないですよね」
巻き藁に向かって撃つときは先輩が二人ついている。つまり、今日の状態だと、射場で弓を引けるのは一人だけになってしまう。
「そうだな。せっかく来てもらったのに悪いが一年生には帰ってもらうしかないな」
「じゃあ、的張りしませんか? だいぶボロボロになってきてるんで」
「ではそうするか」
「ではでは」
緑川先輩の先導で、僕らは家庭科実習室へと向かった。
手際よく先輩が実習台の上に道具と材料を並べる。お鍋とビーカー、木べらと小麦粉が乗っていた。
新垣さんが勢いよく手を挙げる。
「はい。先輩質問です。先におやつでも作るんですか?」
「それもいいアイデアね。でも残念、違います。的を張る糊を作るの」
「え? 糊を作るんですか?」
「そう。的の大きさは結構大きいでしょう? 市販品の糊を使ったら何個あっても足りないから」
的の大きさは一尺二寸、つまり三十六センチメートルだ。人の胴幅とほとんど同じサイズである。もともとは武術だったということを感じさせた。
それだけの大きさの枠に貼り付けるのだから、糊も大量に必要になるというのは良く分かる。
「今日は人数がいるし、慣れてもらう意味も含めて二つでやるわね」
作業自体は難しくなかった。
鍋に小麦粉を入れて、ビーカーの水を少しずつ入れる。木べらで良くかきまぜて練り、弱火で火にかけながらさらに練ったら完成。
二つのものを比べたら出来上がりに差があったが緑川先輩は全然頓着しない。
「ま、こんなもんでいいんじゃない」
道具を片付け、糊の入った鍋を持って弓道場に戻ると、部長ともう一人の先輩が、枠と的紙を用意していた。
「的紙にまんべんなく糊を塗ったら、書いてある円と枠を合わせて貼るだけよ。簡単、簡単」
「すでに貼ってある的紙は取り除かなくていいんですか?」
「んー。あまりに厚くなったときは剥がすけど、これぐらいならそのまま貼っちゃって。きれいに取るの大変だから」
的紙を張り終わると、日の当たっている場所に並べる。
「小麦粉糊は良く乾かさないと腐ることがあるのが難点なの。まあ、金曜日までは天気が崩れないみたいだからこのままにしておきましょう」
作業が全て終わると弓道場から撤収した。
解散となるかと思ったら、先輩方が自販機で飲み物を奢ってくれる。
「今日は的張りお疲れさまでした。これで的は半年はもつと思う」
部長から労いの言葉をもらった。
「本当は三年生が率先してやらなきゃいけないんだけどね。都大会が終わっちゃうと参加率が落ちるんだよ」
苦笑している。
「君たちが入ってくれたお陰でなんとか秋季大会に団体戦で出られそうだし、緑川さんを助けてあげてね」
緑川先輩もそれに合わせた。
「よろしく~」
その姿を見ていると自然と支えなきゃという気分になる。
ああ。今日あったことを後で聞いたら秋山は悔しがるんだろうな。
そんなことを思いながら紙パックのジュースをストローで吸い込む。
すぐ横にいた添田さんが小さな悲鳴をあげ、鞄を地面に落した。
「どうした?」
男子の一人が声をかける。
「なんか赤い虫が一杯ついていて」
声をかけた男子が払おうとするのを僕は止めた。
「その赤いダニ、潰したの触ったら炎症を起こすらしいよ」
「マジ?」
僕は鞄を拾い上げて、息で吹き飛ばす。
「ありがとう」
添田さんにお礼を言われた。
「結城くんって、そんなこと良く知ってるなあ」
新垣さんに感心される。
それを聞く同級生の男子たちの反応はあまり好意的じゃない気がした。
「ああ、受け売りだよ。今日の朝、野球部の人に俺も注意されたばかりだから」
部長が顔を綻ばせる。
「それなら、同級生の真壁だろうな。野球部でやたら虫に詳しいんだ。あいつらしい。お、そんなところにいるとダニが移るぞ」
別の一年生男子に声をかけ、そいつが大騒ぎをしたので空気が和み、僕は密かにほっとした。
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