ハニーハニートキシック ①
マグカップに注がれたカフェラテはとうに湯気をなくし、嚥下する口腔内や胃までの道を冷やしていく。私以外の客はテレワークしている会社員らしい人を除けば、ゆっくりと入れ替わっていた。火曜日の午後三時、大通りの一本南のビルに入ったカフェでの待ち合わせを取り付けてきた相手は、未だに来る様子はなく、連絡の一つもよこしやしない。
何度携帯の画面を表示しても、現在の時刻以外に分かることはない。既に時刻は午後五時に近づいた頃。暇つぶしに用意した本は既に読み終わり、その余韻にも充分浸ってしまった。
帰ろう。もうきっと誰も来ない。荷物をまとめ、伝票をもってレジへ向かう。電子決済にもすっかり慣れてしまった。軽快な決済音を確認し、レシートはいらないと店員へ伝える。
重たい扉を開けて、人がやっと通りすがることができる広さの通路をまっすぐ進む。突き当りのエレベーターに乗り込み、外に出る。街には冬が近づいており、道行く人たちはストールやコートなど、それぞれの防寒具を身にまとっていた。
地下鉄へ降りようとしたところで携帯が震える。通知は待ち人からだった。今から向かうとだけ表示されたメッセージに、もう帰りました、とだけ返信を済ませる。こんな出会いばかりだ。どんな人とも。
□
光熱費や水道代の高さを、実家から出て初めて肌に感じた。ドライヤーもヘアアイロンも実家だと何も気にせず使っていたけれど、少しでも使用時間が短いものを購入した。親の仕送りとバイト代で何とか学生寮の支払いを済ませ、できるかぎり自炊をして過ごす生活を数年続け、ようやく社会人。
友人に勧められてインストールしたマッチングアプリで、数人の異性と出会う機会に恵まれた。露出は少ないけれどボディラインが出る洋服を着て、メイクは薄くする。そうして出会った一人と、今日は三回目のデートの予定だった。せっかく化粧もして、彼に好評だったワンピースを着て、彼が行ってみたいと話したカフェを待ち合わせにした。
残念だったような、終わって楽になったような。本の余韻がまだ残っているのかもしれない。何かが満ちていないような不思議な感覚はあるけれど、化粧さえ落としてしまえばすっかりなくなってしまうだろう。
クレンジングオイルをぬるま湯でしっかりと落とす。こびりついた汚れを重点的に落とすように、まっさらな私が戻ってくるように、しっかりと。
鏡越しの、素肌の私。腫れぼったい瞼も、小さな胸も、全部昔のまま。あの子なら、と鏡を見るたびに考えてしまうのが嫌で、手短にスキンケアを終わらせた。夕方。それも曇りで、せっかくの休日だというのに気分が上がらない。
いまや動画サイトで流れてくるのは素性不明の爆買い美女だったり、美容に気を使う同性の日常生活ばかり。好きだったゲーム実況もライブ配信も、社会人生活が忙しく鳴りだした頃から見なくなってしまった。
今もただぼんやりとタブレットの画面をスワイプすることしかできない。私が何を見ようとしているのか、そもそも何がしたいのか、そういうこと全部、もやがかったように分からなくなってしまった。結局動画は再生せず、ベッドに倒れ込むことしかできないでいる。数回寝返りをうつけれど、別に眠れるわけでもない。
しなくてはならないことはたくさんある。仕事のことも、家のことも、通知が鳴り止まない彼のことも。何もかもしないといけないけれど、何もできない。ただ、何かに耐えるように体を縮こまらせて、ゆっくり深呼吸をする。二枚貝に包まれているように、内と外とを隔てた状態で。
すっかり夜も更けてしまった頃に、目が開いた。いつの間にか眠ってしまったらしく、口がからからに乾いている。まだベッドに沈んでいたい体をどうにか起こす。晩御飯を食べないといけない。たしか冷蔵庫にキノコクリームのパスタが入っていたはず。節約のためには自炊を、と思うけれど、ようやく慣れだした仕事と実生活の両立は容易ではない。
温めるだけで簡単に食べることのできる食事に頼ってしまうのは、ある意味必然。電子レンジが稼働する音を聴きながら、部屋の隅に置かれた段ボールからお茶のペットボトルを取り出す。数口を嚥下し、座椅子にぼんやりと座っているとすぐに温め完了の音が鳴った。
用事もないまま携帯をいじりながら、パスタをゆっくりと食べ進める。数秒から数分の動画を途中で何度もスワイプをしていたら、パスタはすぐになくなっていた。味はあまり覚えていないけれど、お腹だけは満ちている。食べ終えた容器を軽くゆすぎ、ゴミ袋に入れる。
再び座椅子に腰掛けて、携帯を握ったままぼんやりと座る。手に届いた振動でハッとし、画面を見る。それは高校時代の同級生だった菜緒からのもの。
『芽衣に助けてほしいことがあって』
たったそれだけ送られてきた通知が気になって、私はすぐに携帯を開いた。
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