6w1h1r ⑨
彼は慣れた仕草でトランクに私のキャリーケースを積み、後部座席のドアを開けた。黒い大きな手で乗るような動作をする。ずっと、白い歯を見せる微笑みを崩さないまま。促され乗った車は暖房が効いており、短時間でも冷たい外気にされされた身体がゆっくりと温められる。
シートベルトを締め、背もたれに寄り掛かった。スモーク越しのアパートは薄暗く、日の眩しさはどこかに行ってしまったみたいだ。セダンタイプのタクシーが横に揺れながら、雪を掻き分けて進んでいく。スタックしそうなほどの雪をものともせず、車は大通りへと出た。
小路を右折し、大通りを北上する。強い風が北海道特有のパウダースノーを巻き上げ、道端には吹き溜まりがたくさん生まれていた。あの辺りはきっと膝が埋もれてしまうほどの雪が積もっているだろうなぁと、ぼんやり景色が流れていくのを見る。
雪道の運転は苦手だ。やわらかな雪はいいのだけれど。五月とはいえ、降雪シーズンと比べたならばはるかにあたたかなこの時期は、表面の雪が解け、アスファルトに近い雪へと水分が通り、それが車によって踏み固められる。水分を含んだ雪が固められたとしても、それは真冬のように硬く滑るものではない。きっと家に帰る頃には――いや、職場に着くころには動けなくなった車がいくつか現れるのではないだろうか。
職場。そうだ、私は仕事に行こうとしていたんだ。コートのポケットにしまっていた携帯には、誰からの連絡も入っていない。一度画面をスリープし、景色に視線を移す。車はトラブルなく進んでいく。幹線道路に続く跨線橋を進み、市街地を越えて。
◇
一度瞬きをしただけだった。眼前に広がる光景に志村は、ほう、と息を吐く。感動ともとれる、驚きと、呆け。雪は何処にもなく、透き通った浅い湖は空の青さを反射する。そびえたつ大きな白い鳥居には、黒いしめ縄が飾られている。あけ放たれた後部座席の扉から見えるその光景は、現実のものとは思えなかった。
雪はもうどこにもない。初夏の風が吹く。陽射しのあたたかさに勝る涼やかな風は、あたたまった体を容易に冷やす。軽石が敷き詰められた湖岸を進むが、あのドライバーはどこにもいない。辺り一面の水と空。そうして、真白な鳥居。
スノーブーツでは歩きにくい砂利道を進む。その先に白樺模様の小さな掘っ立て小屋を見つけた。厚手のコートに身を包んだ体には熱がこもり、汗が滲む。白樺か、白樺。額の汗を拭い、だだっ広い砂利道にぽつりと建つ駅舎へと向かう。
「あ」
線路のない湖岸に建つ駅舎の中には改札が一つあるものの、券売機や窓口は設置されていない。どこにもいなかったドライバーが優雅に座る、金属製のベンチ以外は。志村の声に気が付いたドライバーはにこりと笑う。人好きのする笑みを浮かべた彼の口元には、やはり白い歯が覗いていた。
「仕事があるから、職場に行きたいんですけど」
そう尋ねるが、彼は何度か頷いただけで動き出そうとはしない。
「まだ連絡は来てないけど、もう始業時間を過ぎてるから急ぎたくて」
時間を確認しようとポケットから取り出したものは携帯ではなく、仕事中に使用するPHSだった。マナーモードにされたPHSは今もうるさく震えている。何度も何度も同じ部屋からのナースコールが鳴る。職場で忙しく働いているスタッフの誰かがコールを取るまで、それはずっと震えていた。
その様子を見ながら、なおも頷くだけのドライバーに痺れを切らした志村は、病棟が忙しく大変な状況であるためここに居る場合ではないこと、急いで向かわなくてはいけないことを、声を荒げて説明する。
説明をし終えた志村を見て、ドライバーは穏やかな口調で「どこへ」と話す。
「どこへって……」
決まっている、病棟だ。病棟に行かなくてはならないのだ。
「どこの?」
「どこの……?」
どこの病棟へ行きたいんですか。そうドライバーは言う。志村はその問いに対する答えを持ち合わせていないのか、回答することができずに口籠るしかなかった。呆れたように首を振って見せたドライバーの態度に、かあっと顔が熱くなる感覚がした。自分がどこへ行かなくてはいけないのかは分かっていたはずなのに、病棟に行かなくてはならないことしか答えられない。
志村から視線を外したドライバーは「車で待ってます」とだけ話し、この駅舎から出て行ってしまった。まったく振り向くことなどもしないで、どこか煩わしそうに頭を撫でていた。
ベンチしかない空っぽの駅舎に残された志村は、コートやズボンのポケットを探る。PHSとは反対のポケットに入っていた携帯を見つけ、安堵のため息が漏れた。PHSとは違い、何一つ震えることはないけれど、なくてはならない物。ベンチに座り、メッセージアプリを起動する。職場のグループは半月前から一つも動きはなかったはずであったが、既に数件のメッセージが届いていた。
それは師長からの業務連絡であり、志村を呼び戻すような内容ではない。分かりました、と打ち込んだメッセージは送信不可の表示が提示され、一向に送ることができなかった。日勤者以外であろう同僚のメッセージはぽんぽんと投稿されているにもかかわらず、志村のメッセージは何度投稿しても、その全てが送信不可になってしまう。
携帯の電波は問題なく受信することができており、現に他のアプリケーションは問題なく開くことができていた。開くことができたアプリの中でも、趣味で繋がったメンバーが在籍するグループに向けてテキストを送信する。送信不可にはならなかった事実に、安堵に満ちた息がもれる。
数件の既読がついたメッセージに返信はない。今日は平日だ。そして、それもお昼の前、まだ忙しい午前の時間帯。誰もみんな帰ってきていないのだ。仕事からも遊びからも。職場からの通知は既に止まり、画面には送信することができなかったメッセージが悲しそうに残っている。仕事は、日勤は滞りなく進む。病棟に戻りたい私がいないままに。
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