6w1h1r ⑩
運転手がいなくなった駅舎に残った志村は、仕方なくベンチに腰掛ける。臀部から冷たく硬い感触が伝わった。本当にこの駅舎には何もかもがない。ひっそりとした日陰のような鋭く冷ややかな空気の感覚が、今この空間に一人佇む志村を刺す。志村にはそれが他者からの視線のように感じられた。
手の中で震えるPHSの存在もそうだ。ディスプレイには様々な部屋番号と患者の名前が表示される。何度も何度もPHSを震わせるその訴えを、志村は一つもきくことができないままでいた。駅舎としての体裁を保つだけの小屋でできることは何もない。また鳴るかもしれない、手の中で誰かの訴えを感じてしまうかもしれない。ミヨのもとに居た赤子の声と、心電図モニターの異常アラームが耳奥で鳴り始める。このまま、この駅舎に居てはいけない。
「行かなくちゃ」
そう、自然と言葉に出ていた。ドライバーが戻った道を、志村は駆ける。足場の悪さに転びそうになりながらも、厚手のコートを途中で脱いで、必死に走る。次のナースコールが鳴る前に。耳に残る、大嫌いなメヌエットが鳴る前に、少しでも早く病棟に戻らないといけない。
どこよりもゆったりとした時間の流れを感じるけれど、志村にとってこの場所は休まる場所ではなかった。自分の居場所ではないという、確証のない実感が高まっていく。心臓が痛いほどに脈打っている。運動不足のせいもあるかもしれなかったけれど、出勤する直前の緊張感にも似たものだった。
ドライバーは笑顔を浮かべたまま、車の傍に立っていた。開かれた後部座席に乗り込むと、ドライバーも車に乗り込み、慣れた手付きでエンジンをかけた。ディーゼル車特有のエンジン音が車内に響くのを聞きながら、車はまたどこかへと向かって進んでいく。スモーク越しに見た鳥居のその先は、薄暗い雨曇りの空が広がっていた。
ポケットの中にしまいこんだ震えるPHSを手に握る。本来ならば志村自身が居るはずだった場所に、志村はいない。いつになったら病棟に向かう事ができるのかすら分からない状況で、志村に残るのは焦燥感と不安ばかりだ。何度となく鳴るナースコールの一つを見て、志村は衝動的に通話ボタンを押した。
耳に当てたPHSからは病棟の雰囲気が零れてくる。看護師が患者に話しかける声、ミヨの苦しそうな呻き声、お茶をよこせと怒鳴る声。どうして自分がその場にいないのかと、PHSを握る手に力が込められる。車に揺られ、ただ時間だけが過ぎて行く。焦っているのは志村ただ一人だけだ。
◇
脈が四十超えたらでしたっけ。
違う、下回ったら急ぐって言ってたじゃない。
そうだ。そう言われていた。誰に言われていたかはよく思い出すことが出来ないけれど、志村は業務で使用するワゴンをがらがらと押して病棟を歩いていた。病室から自身を呼ぶ声に対応しながらではあるが、病棟の一番奥に置かれた個室へ向かう。
窓からは、今にも雨が降り出してしまいそうなほど重たく厚い灰色の空が見えていた。天気が悪いと、患者はなぜかよく眠る。虚空に向かって話し続ける壮年の患者も、今日は静かに寝息を立てていた。穏やかな日だ。滞りなく業務は進み、必要な処置が全て終わり、患者は全員昼食を食べ終えた。眠たくなる休日の昼下がりの時間、欠伸を噛み殺しながら志村は受持ち患者のラウンドをする。
これから連れて行くからね。
誰かの声に、志村はよろしくお願いしますと返事をする。ミヨと赤子と、相沢がそれぞれ連れて行かれた。業務用のエレベーターに向かい進んでいく三人を見送った。三人ともにこやかに連れて行かれるけれど、今日は検査もなければ透析の予定もない。不思議がる様子もないところを見ると、きっと三人にはそれぞれ事情があるのだろう。
ミヨがいた病室はベッドが無くなると、ただのがらんとした空間に成り下がっていた。
隣のチームも穏やからしく、病棟全体がシンと静まっている。だからこそ心電図モニターが知らせるけたたましい異常アラームが、病棟の端に向かって進む志村の耳にも届いた。
「四十を下回ったら、急ぐ」
そう呟いた志村はハッとする。体には心地の良い振動が届き、車に乗っていた事実が遅れて思い出される。スモーク越しの窓からは、海のように広い水平線が覗く。海岸線を進み、きっと、病棟に行くのだろう。
ミヨと、相沢と。主任たちは何をしているのだろうか。終わりが見えない海岸線をぼんやりと眺めながら、志村はただ静かに呼吸を続ける。病棟に行かなくてはいけないけれど、もういっそこのままでもいいんじゃないか。何もない水の中に飲まれるように、深い藍色に溺れてしまうのもいいかもしれない。
「探し物は右ポケットにあるんじゃないの?」
「わぁ! ほんとうだ!」
ミラー越しに志村を見つめるドライバーが、そう流暢に話す。上着の右ポケットには使う予定のない有線のイヤフォンが入っていた。使う予定なんてないのに、志村の口調はやけに明るく、はねるように喜ぶ声音をしていた。ドライバーの真っ黒な瞳が洞のようで、底の見えない不安をわずかに感じたけれど、イヤフォンを再びポケットにしまう時にはその不安は無くなっていた。
車が道路脇に停車する。震えたPHSには病棟の番号が記載されており、志村は急いで通話ボタンを押す。どうやらPHSがどこにあるのかを知りたかったらしい日勤者と、今の病棟の状況についてやりとりする。
ミヨは無事にご家族のもとに帰ることができたこと、相沢が転院したこと。あの赤子は、私と主任だけが存在を知っていたようで、細やかにどんな子供だったかを伝えても日勤者は困った声を出すだけだった。
日勤者との会話の最中、志村の言葉を追うようにドライバーも話し続ける。
「終わったみたいですね」
「一緒になにか食べに行きませんか」
「オフィス街においしい寿司があるんです」
志村がミラー越しにドライバーを睨みつけてみても、ドライバーは目を細めたままにっこりと微笑んでいる。
「日勤では戻ってこない」
ずっと、ずっと。
「おつかれさま」
ずっと。
「おつかれさま」
「迎えに来るよ。帰りは夜勤かな」
ドライバーは微笑んでいる。気味悪さに、志村は背筋が冷えるのを感じた。誰がどこに、迎えに来ると言っているのだろう。夜勤は帰ることができないのに。――本当に、帰ることができない?
数秒、ドライバーと志村の目が合う。この人とは一緒に居てはいけないと、志村の中で一つの確信が生まれた。このドライバーと何処かへ行くことはできない。けれどそうした志村の思いがあっても、拒絶は意味を成さなかった。志村にはここがどこであるのかということも分かっていなかったし、どのように帰ったらよいのかも分からないでいた。
「終わったんだね、お疲れ様」
ドライバーからかけられたその言葉の意味が理解できない。何が終わったのか、何がお疲れ様なのか。その言葉の意味するところが不明瞭なのに、言葉はひどく明瞭だった。
話しかけられ続ける間も、日勤者との電話は続く。運転席を降りたドライバーが、隣の後部座席に座った。腕と腕がぶつかりそうなほどに志村の方に寄って座るドライバーから逃げるように、志村は出来る限り扉に近づいた。
恰幅の良いドライバーの身体が近づいてくる不快感と恐怖が募る。
「番号教えて」
「ここにするよ」
そう話しかけるドライバーはやはり笑顔が張り付いている。差し出された紙はちぎられており、コーヒーでも零したかのような汚れがついていた。ドライバーが志村の耳元でささやくのを、志村は身体を固まらせることでしか耐えられない。何を言われたのかは認識できない。
けれど差し出された紙とペンは、きっと志村自身の連絡先を書いてほしいのだろうと推察させるには充分だった。縋るような気持ちで続けていた日勤との電話が、日勤側から切られる。ゆっくりとPHSを下ろした手を見て、半ば無理やり紙を握らされた。
「迎えに来るよ」
にっこりと笑ったドライバーが後部座席から運転席へと戻る。誰が、どこに迎えに来るのか。ゆっくりと動き出した車は海岸線を進む。いくつかトンネルを越える道中、また、静かに瞼を閉じた。
□
口が乾く。口呼吸だったせいか、口腔内がぬるつくような気持ち悪さを感じる。シャワーに入ることも億劫でなんとか化粧だけは落としたけれど、歯を磨くことも忘れてしまったみたいだ。
まだぼんやりと重たい頭のまま、洗面所に向かう。指を通した髪は油分を含み、いやなぬるつきが指に絡んだ。鏡越しの志村には濃いクマがあった。たった一回の夜勤で、おどろくほど老けたような感覚がある。
歯磨きを済ませ、シャワーに入る。浴室の床が不自然に濡れていることに合点がいったのは、髪も体も洗い終えた頃だった。あまりの眠たさに、一度シャワーを浴びたことすら忘れていた。
ぼんやりしたままドライヤーで髪の毛を乾かす。全自動かつ一瞬で髪が乾く方法があるならいくらでも投資したいと思いつつも、そうはならない事実を飲み込んで小刻みに片手を揺らしながら、せめてダメージを最小限にしようと抗った。
欠伸を噛み殺して数十分。ようやく乾いた髪をひとくくりにして、洗濯を回す。午前十時には帰宅したけれど、すでに時刻は十七時を回ろうとするところ。志村にとっては日常になった明けの生活を始める。明けによく見る不可解な夢は覚えている範囲で書き起こし、親しい友人しかいないグループに投稿した。
―――――
6w1h1r 完
いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのようにしたのか。そして、どうなったのか。
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