七夜八夜 SS

一夜 告白

 女はさめざめ涙を流しながら部屋の中央に置かれた椅子に腰を下ろしていた。脂をたっぷりと蓄えた黒く長い髪の毛は、蛍光灯の光を受け、てらてらと不純な照りを見せつけている。

 四畳半ほどの狭い個室、ただただ嗚咽する女の声が満ちていく様は、情のない相手とはいえ胸を重たくさせるものだ。


「私、私……!」


 誰も声を上げぬまま数分か、もしくは数十分が経ち、痺れを切らしたように女が声を出した。それをテーブル越しに白髪頭の初老の男が仏のような笑みで聴く。話を強要することはせず、ただ微笑みを湛えて女を見ていた。


「わ、私じゃ……私じゃないんです! 本当なんです、わっ私じゃないの! 本当なの!」


 机の上に拳を置いて、震える体をずいと男へ寄せるが、すぐに何かに気づいた面持ちで今度は小さく縮こまる。

 女は、何も言わぬ男が付けていた記名章を盗み見て「違うんです、大鳥さん……」と縋るような目をしてみせた。顔を伏し、上目で大鳥に視線を送る。大鳥はただ笑みを浮かべるばかりだ。


「私っ、普通に夜勤をしていただけなんです! い、いつもみたく十六時から日勤の申し送りを聞いて、それでっ、それで、ちゃんと仕事をしてて」


 女は落ち着きなく部屋の隅々に目線をやり、これまでの経過をつらつらと述べ始める。曰く、零時まで働いた後で帰らなくてはと思い、冷気が溢れる黒黒とした夜道を一筋の光で裂き進んだとのことだ。


「帰ったけど、でも、仮眠休憩だけど仕事だからって急いで戻ったんです……」


 口籠った女は、肩を落として憔悴しきった様子を見せる。落ち着きなく視線を泳がせ、机の下できつく握った両の拳はカタカタと震えていた。

 また職場に参じた女は手にキャリーケースを持っていたと話す。それが今何処にあるのかも分からないと言い、またはらはらと泣いてみせるのだ。


「他の看護婦仲間は何処にもいなくって、私しか……。それで、仮眠に入る前に、皆の顔を見ておかなくちゃといけないって」


 そして女は黒黒とした閉鎖空間を光と共に巡見したらしい。次いで、恐ろしいものを思い出したのか、わっと声を出して両の手で顔を覆った。

 またも枯れぬ涙を零し、数刻が経つ。女は顔を覆ったままで、


「みんなベッドに括りつけられて……。口を開けて廃人みたいで、そ、それで、た、たすっ助けないとって。真田先生を呼ばなきゃって。で、でも、先生が来るまでにやれることはやらないといけなくって……他の皆はいなくって、それで、それで」


 皆のベッド柵も手袋もロープも、全部外して、隠したんです。

 指を震わせるが、女の声は涙声ではなくなっていた。大鳥はそれでも黙って、ただ笑顔でいるのだ。涙で湿度の高まる空間は、教会の懺悔室ほど罪に苛まれてはいない。

 女は己の手掌に視線をやり、ぽつりぽつりと思いおこした記憶を話す。


「私、皆を助けようとしたのに、誰も動いて逃げようとしなくって……。う、動けないんだって思って、ベッドの背もたれを上げていったんです。だ、だって、起き上がるのに手助けがいるんだと思ったから」


 寝たきりで延命の人が多いから、どうにかしないとって。そう続けた女の表情が、うすらと緩む。恍惚としたように、ぼおっと遠くを見つめているような目を大鳥に向けた。


「みんなの身体を上げた後に、私、二階の当直室に呼ばれたんです。――胸がどくんってなって、行かなくちゃならなかったの」


 口元で両手を握り、愛おしそうに笑む。その手に頬を寄せるようにして、恥ずかしげもなく頬を赤らめる。

 大鳥の視線を受けて尚、惚けた女は「先生は優しくて……。やだ、こんな時なのに」と、膝をすり合わせ身を捩って見せた。女としての悦び。身体をくねらせ、大鳥の眼前に座るものは紛う事なき女であると主張する。


「そ、それで、私は真田センセとほんの少しだけ、一緒に過ごして、急いで戻ったんです」


 悦に浸った表情の女の口調は自信にあふれたようだった。得体のしれぬ何かに怯える様子は失せ、ただ、女としての愉悦と矜持が残っている。


「戻ったら、そこに寝ているはずの人がいなくて、私、必死になって探したんです。でも、いなくって、病室から出られる人じゃないのに」


 突然目を開き、何か言いたそうに口を開くが言葉が出ない様子だ。女の目線は、ずっと笑みを湛える大鳥に注がれる。


「私じゃないんです!」


 目を見開き、金切り声を上げ、女は立ちあがった。――かと思えば床にへなへなと座り込み、己の殻に閉じこもるかのように細い腕で自身を抱くのだ。

 開いた目からはぼろぼろと涙がこぼれ、白い塩ビタイルが濡れていく。唇を震わせて、違う、違うと呪文のように繰り返すのだ。まるで懺悔室となってしまったこの四畳半の空間は、大鳥の赦しを希う女の色に侵食されている。


「も……も、戻ったら、一人がベッドから落ちてたんです……。アラームがずっと鳴ってて、何だろうって見に行ったら動かなくて、ね、寝てるんだと思ったんです」


 走り回った犬のように息を荒げ、苦しそうに胸元で硬く拳を握り、女は身体を震わせた。大鳥は表情も態度も、その一つすら変えることは無く、女の後頭部しか見えぬ空間にも笑みを見せる。

 女は己の見た恐怖を受容するため、干天に晒されたかのように乾いた喉へ、粘稠ねんちゅう度の高い唾液を送り込んでいた。


「でも起こしたらだらんってしてて、首が……く、首が変な方に曲がってたんです」


 女の耳には人工呼吸器の接続不良アラームが残る。物言わぬ死人に代わり、その苦しさを告げる機械音が。

 耳を塞ぎ、頭が床に着くほどに身体を折り曲げ、室外にも聞こえるほどに叫ぶ。女の周りには何もいないというのに、机の脚に腕がぶつかる事も気にせず「来ないで! やめて!」と必死に叫ぶのだ、女は。


「お巡りさん信じて! 私は本当にやってないの! 嘘じゃないのよ!!」


 半狂乱し「信じて」「やめて!」と叫ぶ女が普通ではないことは明らかであった。大鳥は貼り付けた笑みのまま、右手を上げて室外へ合図を送る。

 白衣を着た数人の男が入って来たかと思えば、未だ床に座り込んで叫ぶ女を手際よく拘束し、連行していく。つんと鼻に刺さるアンモニアの臭い。

 淡黄色の液体と涙で濡れた床を男の一人が環境清拭ワイプで清拭をして、女を追って足早に部屋を後にする。

 大鳥が笑顔を崩さぬまま女がいた空間を見ていれば、羆を思わせるほど大きな体躯をした男がやってくる。先程の男らと同様に白衣を纏って。


「いやあ、助かりました。警察を呼べと言われたら従うしかないですから、すみません」

「ははは。何も気にしないでくれていいさ。いやはや知ってはいたけど、真田くん、君たちも大変だね」


 大鳥は人間らしく快活に笑い、真田に座るよう促した。椅子の座面から臀部の半分近くがはみ出ているが、真田は気にせずに腰掛ける。

 たっぷりと蓄えた顎の肉が三重にもなった真田は、ありがとうございます、と会釈をする。それは愛嬌もある仕草であり、大鳥もどこか満足そうに笑うのだ。


「まあ今はあれで済んでるけど少し面倒くさくなりそうだから、セレネース一アンプル生食百で溶いて時間かけて投与していいよ。少しどろっとするくらいで管理しよう」

「分かりました。すみません休日に、院長先生のお手を煩わせてしまって」

「いやいや良いんだ。彼女は私の担当患者だからね」

「三浦さん、最近落ち着いていたんですけどね」


 部屋の隅に取り付けられた監視カメラで、真田は三浦と大鳥の様子をすべて見ていた。少しずつ錯乱し、失禁するまでの女の姿を。


「とはいってもね、僕たちと彼女らは同じ世界を生きているようで見えている世界は違うんだ」

「本当にそうですね」


 大鳥は朗らかに笑む。


「警察を呼べと叫ぶ人がいたら、僕のことを呼んでくれていいからね。本当に警察が介入するような事案になってしまったら、僕たちが咎められてしまうんだから」

「……そうですね」


 真田の記憶には過鎮静となり息を引き取った患者や、強い暴力性を持つ患者が抑制され言葉すら発せなくなった姿がある。精神疾患は臭いもの同様蓋をして管理する。

 精神症状の増悪がないよう鎮静下で管理され、容易に抑制をされ、人間らしさを失った患者ばかりがここにいた。


「身寄りがない人間を受け入れるなんて、医療職として正しい奉仕活動のように見えるけどね。僕は精神障害者と生活保護受給者が嫌いなんだよ。分かるかな」


 真田は曖昧に返すのみであったが、大鳥は反応を期待しているわけではないようだった。どこか満足そうに数回頷き、笑い皺が深く刻まれた眼で真田を見る。


「自分を看護師だと思い込んだ精神患者により、一人の尊い命が散った。僕たちはその間、隔離室で患者の対応に当たっていた。いいね?」

「……はい」

「医療安全に提出する書類は僕が作っておくから、あとは任せるよ」


 大鳥が立ち上がったのを見て、真田はその後に続く様に大きな身体を揺らす。エレベーターに乗り込んだ大鳥はまた笑顔を見せた。


「彼女も看護師になりたいって夢を叶えられて良かったんじゃないか」


 閉じた扉を前に、爪が食い込むほどに拳を握る他真田にできることはなかった。

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