命の安定装置

ユーリイ

命の安定装置

遺書を書いた。

別に読ませたい人もいないけれど。書かなきゃ死ねない気がした。

終わり方だけをずっと考えている。綺麗な終わり方ができれば、それまでの全部どうでもよくなると思って生きてきた。

この世界に生を受けて22年。偏差値50もいかない高校を卒業してすぐに働き始めた企業は、染まりに染ったブラック企業だった。切り詰めた生活でもカツカツな給料。毎日のサービス残業。休日出勤。家賃4万のおんぼろ社宅。

辞めようにも高卒の俺を雇ってくれる企業などどこにもなく、今更転職活動などできなかった。周りの知人が大学4年間を遊び尽くし、俺よりうんといい企業に内定をもらっているのをみると、なんとも言えない気持ちになる。別に彼らが悪いわけではない。きっと、俺が悪いわけでもない。


思えば、俺は生まれた時から負け組だった。姉2人とは俺だけ血が繋がっていなかった。彼女らの母親が他界したころ、俺を連れた母親と彼女らの父親が再婚した。

それから俺が成長し、母親が蒸発するまでそう時間はかからなかった。母が残していったのは大量の借金と俺という存在だけ。

愛情なんて、どんな形をしていたのかも覚えていない。家に俺の居場所はなかった。母が残した借金、血の繋がってない事実。全てが申し訳なかった。

時計を見れば、もう夜中の4時になるところだった。立ち上がって仕事に行く準備を始める。準備といっても歯を磨いて着替えるだけだけど。そろそろ死ぬ準備が整ってきたところだ。仕事を辞めると伝えよう。別に俺1人がいなくなって困るような現場じゃない。というか、困ろうがどうだっていい。

エナジードリンクを飲み干すと、ふいに携帯が鳴った。暗い部屋には明るすぎる画面を見ると、父親からのメールだった。思えば最後に声を聞いたのは「成人おめでとう」だったか。今更なんの用かと気になりもしたが、見る気にもなれずベッドに放り投げた。


歩道橋の下を走る車を眺める。日付も回った夜中に車を走らせるなんて、彼らは俺の仲間なのかもしれない。人生も道路のように、進むべき道が決まっていたらよかったのに。

殴られた左頬が痛い。手が出るほどの熱量で辞めるのを止めてくれたことに感激しつつ、本当に俺の事を想っているのなら殴ったりしないよなと冷静になる。

「ここ辞めてどうすんだよ。お前なんかのこと雇う企業どこにもねぇからな」

「これだから高卒は打たれ弱くて嫌になるよ。これからどうするわけ?」

上司に言われた言葉が頭の中で再生される。

”これから”なんて、生きたいやつだけが考えられる特権だ。これから起きるであろうことに心が踊ったら、どれだけ幸せだろうか想像もつかない。


甘くて不味いお菓子をつまみに、9%のジュースを流し込む。乾杯は1人の方が気楽でいい。

酔うと小学生時代を思い出す。セミとカナブン捕まえて、自転車でどこまでも走って、浜辺に秘密基地を作って、道に生えてる正体不明の果物を勝手に食べて、公園にでっかい穴を掘って、学校の自由プールに行って、服のまま海に飛び込んで、最終日に泣きながら宿題して。

終わることなんか知らなかった、あの無邪気さをはもう取り戻せない。俺は大人になった。取り残されたような、酒では取り除けない虚しさに潰されそうになる。

俺はこのまま惰性で生きなければならないのか。生きる意味が、ただ生まれたからでいいのか。そこまでして、生きる意味はあるのか。

いや、ないだろ。22年も俺は俺として生きてきたんだ。もう解放されてもいいだろ。

明日、死のう。どうせ明日には家もなくなるんだ。さっさと死んでしまおう。自殺前夜にしては、心は穏やかだ。


プルルプルル

もう、朝か。痛む頭を無視して仕事に行く準備をしようとして思い出す。

「辞めたんだったな」

窓を見ると外はまだ暗い。

プルルプルル

寝ぼけていたのか気づかなかった。これはアラームじゃなくて着信音だ。

時計を見ると夜中の4時半。こんな時間に電話をかけてくる人など上司以外ありえない。

一言文句を言ってやろうと思い、携帯を耳に当てる。

「もしもし」

「……」

「何の用ですか」

「想太、まだ起きていたのか」

びっくりして携帯を落としそうになるのをこらえる。画面を見ると、父親からの着信だった。

そういえばメールを無視していたな、と思い出す。

「…何の用?」

「メールを見ていないようだったから、電話なら出るかと思って」

「こんな時間、普通電話かけないでしょ」

「日中は仕事かと思って」

仕事は、やめた。言うかどうか迷ったが、どうせ興味ないだろうと諦める。

「元気にしてたか?」

「まぁ、それなりに」

「そうか。よかった」

本当に何の用だろう。この会話に意味はない。

「何の用?」

もう一度聞いてみる。もしかしたら誰か死んだのかもしれないな、一緒に葬式でもしてもらおうか、なんて呑気なことを考える。

「いや、特にこれといった用はないんだが」

「え?なんで電話かけてきたの?」

「親が子供の声を聞きたいと思うのに、理由が必要か?」

なんて返せばいいのか分からなかった。今更親ヅラかよとでも言ってやりたかったが、どうやら俺はまだ親からの愛を欲していたようだ。

「いつでもいいから家に顔を出しなさい」

先程の質問には答えなくていいと言うように、俺の返事を待たないまま父親は話を続ける。

「酒は飲むのか?美味い酒が手に入ったから一緒にどうだ」

「…なんで?」

「ひとり酒は寂しいんだ」

「違うよ。なんで今更」

息が、しづらい。俺は今日死ぬのに。死のうと思っていたのに。どうして今更、このタイミングで電話をかけてきたのだろう。今までだって、俺たちはお互い無関心に生きてきただろ。

「父さんももう歳だから。死ぬ前に後悔したくないんだよ」

後悔って。贖罪かよ。罪滅ぼしのためにかけてきたのか。期待するな。この世で最も残酷なのは、叶わない希望だ。

「俺、今日死ぬ予定だから。帰れないよ。仕事は辞めたし、金もない」

一呼吸に言った後、残った息を吐く。言ってしまった。止められるだろうか。馬鹿なことを言うなと叱責されるだろうか。もうこのまま電話を切ってしまおうか。

「そうか、そうだな。それは、驚いたな」

顔から携帯を遠ざけたのだろうか、電話越しの父親の声が遠くに聞こえる。心臓の音がうるさい。怖気付くな。人に言ってしまったからには、もう変えられない。

「それなら、今日のうちに帰ってきなさい。交通費は払うから」

そう言うと、父親は少し笑ったようだった。

「美味しいもの食べて、よく寝て、また始めればいいんだ。愚痴くらい聞いてやる。だから一度顔を見せてくれ」

思ってもない言葉に、気がついたら涙が溢れていた。そんな優しい言葉、もっと昔に伝えてくれたらよかったのに。

「俺のこと、恨んでんじゃねぇの」

泣いていることを悟られないように、あえて強い口調で言う。

「まさか。愛してるよ。けれど、そう思われても仕方がないと思ってる」

ため息の後、鼻をすする音が聞こえた。なんであんたが泣くんだと言ってやりたかった。

「冷たくしてしまったと思ってる。分からなかったんだ。なんでお前が俺を避けるのか。俺は弱かった」

俺だって弱かった。全てが申し訳なくて、勝手に父親に嫌われていると思い込んでいた。それが、亀裂を大きくしたんだ。

「俺、しばらく働く気ないよ。すね齧るよ」

「いいさ。お前用の大学の学費があるよ。ゆっくりしていけばいい」

天井を見る。涙を拭う。

全部どうでもいいと思っていた。俺が死んでも、悲しむ人どころか気づく人さえいないと思っていた。でも、違ったみたいだ。弱さが足りないんじゃなくて、弱みを見せる強さが足りなかったんだ。俺を想ってくれている人を、俺が想えていないだけだったんだ。

「家の住所、送ってよ。忘れちゃった」

「分かった。お金も振り込んでおくから、ゆっくり準備しておいで」

返事をせず電話を切る。涙を堪えるのに必死で言葉なんて紡げなかった。

今日、俺は死ぬ。新しい俺に生まれ変わる。気分がいいから、まだ世界に抗おうと思う。終わらせる勇気があるなら、次を選ぶ恐怖にも勝てると、そう思いたい。

父さんから送られてきた住所を見る。「今は猫がいるよ」と黒縁模様の猫の写真も送られてきていた。その猫があまりにもブサイクで、不覚にも少し笑ってしまった。

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