凝縮型ユートピア――樹海に行ったら人間辞める羽目になった――

笹本

樹海に行ったら体中から草が生えて来た。

 日に日にエスカレートしていくいじめに耐えかねて樹海までやって来た。ここまで来ればきっと、「ごめんなさい、もう逃げません」って気持ちになる。

 そうしたら、また学校に帰っても頑張れるだろう。そう思って。


 1年前からいじめられている。夏休み前に予兆を感じ、新学期の始まりとともに確信した。机に白い菊が置いてあった。それが激化の合図だった。

 耳に入る忍び笑いがグルリと体を取り巻くと、頭が真っ白になって怒ることもふざけることもできない。ただ押し黙ってその状況を享受してしまった。タイミングを逃してしまった。それから死人扱いされている。

 とはいえ、彼らが僕をいないものとして扱うことはなかった。体育でペアを組めばタンゴだと茶化されはしたものの、先生が介入するような露骨なことは起こらなかった。先生がいれば。

 そうでなければ、腐った匂いがするとか、汚いとか、学校来るなとか、改善を試みても止むことのないお約束の言葉を吐かれながら、殴る蹴るなどの暴行を受ける。それも見えない場所に。

 頭や腹をやられて蹲れば、

「お前死んでるんだから痛くないだろ」

「人間のフリするなよ」と咎められて頭を踏まれる。

 授業に集中したくとも、

「死んだ奴に人権ないけど?」

「おい何教育を受ける権利享受してんだよ」

「親に言ってやれよ。教育を受けさせる義務はなくなったってさぁ」と言ってくる連中だ。自分たちに与えられた権利を放棄してまで権利を侵害してくる。

 私物なんか常に持ち歩いていないと駄目だったし、持っていたとしてもお釈迦にされた。今は色々な所に隠している。誰にも見つからないような所だから埃っぽくなって、余計に煙たがられているんだけど。


 大概のことは気にしなかった。もちろん痛いのは嫌だし、持ち物を駄目にされるのには困ったけど、別に死にはしないと思ったから。

 でも、理科室にあった薬品を食事に混ぜられた時にやっと、これはマズいだろうと理解した。下手したら死ぬと感じた。

 そこで慌てて担任に相談をした。放課後、誰もいなくなった教室で今までの事を洗いざらい話した。その後、どうにかしてくれないかと頼んだ。

 すると、先生は毎朝挨拶をする時のような穏やかな顔で、「嫌だ。ってちゃんと言ったの? あなたがちゃんと断らないから駄目なのよ。ちゃんと真正面からぶつかりなさい。すぐに先生に言いつけるなんて卑怯よ。甘えちゃ駄目」と、ハッキリと言った。

 信じて欲しい余りに痣を見せようと服を脱げば、「先生はそういう冗談嫌いよ」と顔一面に人を心底軽蔑する表情を浮かべて教室から出て行った。

 そこで、自分の過ちに気付く。証拠は僕が全て片付けてしまっていたから。大袈裟にはしたくない、まだ先生を頼らなければならないほどの状況じゃない、そうやって抵抗せず、彼らに加担していたのは僕だった。愕然とした。

 どうしても納得できなかった。が、学校において先生は絶対である。人数の次に強いのは社会的地位だ。年齢だ。人望だ。何一つ持ち合わせていない自分が一人でどうにかできる問題じゃない。

 だから、自分の概念を根本から変えてしまおうと思い付いた。人に会えるかすら分からない樹海で極限を体感すれば、命が無事なだけで神に感謝するだろう。

 先生が助けてくれなくても、「まあ、生きてるしなあ」と朗らかな気持ちでいられるはずだ。そういう風に考えた。考えて、今に到る。


 アウトドア用のブーツが腐葉土をギュウと踏み締める度に、湿った落ち葉の擦れる音が響く。

 逃げるように辿り着いた樹海は思っていたよりも良い所だった。3000円もの交通費を払った甲斐がある。

 蛇のように絡み合う木々はかっこいいし、地面にボコボコと開いている穴からはヒンヤリとした空気が漂って来て、何とも居心地がよさそうだ。

 ここに秘密基地を作りたい。そんなことを思いながら、背負っていた鞄から水筒を取り出して一口飲む。よく冷えている。

 足元は気を付ければ転ばない。ちゃんとした靴を履いて来たのだ。大穴に落ちないようにゆっくり歩けばいいだろう。

 ここで死ぬつもりはない。だからちゃんと準備をしてきた。服装だってちゃんとしている。無謀な格好をして周辺住民に止められたら堪ったもんじゃない。

 親には友人の家に泊まると言った。スクールカーストの最下層になり下がった今、夏休みに遊ぶような友人などいないが、母は嬉しそうに「よかったじゃない、行ってらっしゃい」と見送ってくれた。

 ついでに、「これで服でも買いなさい」とお小遣いまでくれた。それで準備もできたのだ。一日や二日で帰るわけにはいかないし、死ぬつもりもない。

 元々樹海には鬱蒼とした暗い森のイメージがあったのだが、辺りを見回せば植物が賑やかに煌めいている。住めるものなら住みたいくらいだ。

 夏休みは始まったばかりだし、母には泊まり先を教えていない。今や連絡網なんてものはないから、母が誰かに所在を訊いて回ることはないはずだ。学校に電話したとしても、ここに来て事態に気付いた担任はうまくはぐらかすだろう。そういう人だ。だから、見付けられる心配をせず安心して樹海をうろつける。

 しかし、ここは本当に居心地がいい。ユートピアかもしれない。とにかく木々が美しく、生き生きとしている。手頃な所に生えている幹に触れると、今にも鼓動が聞こえてきそうだった。

 樹海では死体を見付けると聞いたことがあるが、運がいいのかまだ見掛けていない。その代わりに衣服の切れ端や食べ物の包装などが散らかっている光景には縁があった。

 今跨いだのは誰かの首を吊ったロープかもしれない。最後に食べた食事の包装かもしれない。その時に着ていた服かもしれない。そんなことを考えながら樹海を歩いた。ゾッとしなくもないが、現実味がなかった。


 ごめんなさい。そんな気分にはならない。もう逃げません。逃げて良かったと思う。もう帰らせて下さい。あそこにいるよりも、こっちの方が幸せだ。

 どんどんどんどん心が樹海に傾いていく。このまま上手く暮らせないだろうか。家族のことさえどうにかできれば、ここにいられるのに。その辺の物を適当に食べてサバイバルするように生きる方がきっと楽しい。

 そんなふざけたことを考えていたのがいけなかった。落ち葉に隠されていた大穴に落ちてしまったのだ。

 自然って怖いと思う間もなく足がどうにかなった。痛いと言うより熱い。とても熱くて感覚がない。麻痺している。力が入らない。ズボンを捲くることすら恐ろしい。

 これはまずいぞと携帯電話を取り出すが圏外だった。

「誰か」

 できる限り声を張り上げるが、反応が無い。焦りのせいか、急に喉が渇いてきた。慌てて水筒を取り出して飲むが盛大に零した。地面を潤してどうする。残った水は大事にしよう。

 腹も減ったが、口の中がパサパサになる食べ物しか持っていない。どうして缶詰を持ってこなかったんだ。ちくしょう。どうしてつわものぶって乾パンなんか用意したんだ。

 そうして暫く焦っていたが、随分歩いて疲れていたし、動けもしないものだから、もうどうでもよくなってきて、柔らかく湿った土に身を任せた。

 すぐに眠気がやってきて、抗うことなく目を閉じた。


 どのくらいそうしていたのかよく分からない。泥のように眠っていた感覚だけがある。

 目を覚ましてすぐに携帯電話で時間を確認してみるが、電源が落ちていた。電源ボタンを長押ししてみたが付かない。完全に電池が切れている。防水だから雨で故障したとは考えにくい。いったいどれだけ放置すればこんなことになるんだ。

 今日は何月何日の何曜日で何時なのだろうか。

 体を起こし掛けて足をどうにかしたことに気付く。やってくる痛みに身を竦めるが、全く痛くない。首を傾げながら足元に目を遣る。

 足から植物が伸びていた。根付くレベルで寝ていたのか。自分の鈍さに恐れ戦きながら捲くれなかったズボンを捲くると、傷口があったらしい場所から植物が生えている。

 宿り木だろうか。だとしたら養分を吸われているはずだし、そもそも人間に宿るだなんてふざけたことがあるだろうか。

 そういえば、まったく腹が減っていない。喉も乾いていない。自分の身体の様子に不信感が募っていく。

 もう一度足を見る。植物は十センチほど伸びている。ここまで育つのに一・二週間は必要だ。つまりその期間寝ていたことになる。にも関わらず、空腹も喉の渇きも感じていない。人は水を飲まなければ三日で死ぬはずだ。寝ながら泥水でも啜ったのかもしれないと思ったが、口元は全く汚れていない。

 何かがおかしい。体に異常はないだろうか。深い穴の中にいるのを良い事に服を脱ぐ。

 潔く全裸になって気付いた。体中の至る所から植物が生えている。体の毛が全て蔓や茎になっていて、まるで洋画の美女の髪の毛や纏う布のように大事な所を隠してくれていた。

 それで思わずビーナスの誕生のポーズをとった。虚しくなった。

「ねえ、君、大丈夫……?」

 上から降ってきた声に頭を上げる。穴の淵には明るい髪色をした青年がいて、困惑した様子でこちらを見ていた。なんてタイミングで来るんだよ。

 彼が心配しているのは頭と体のどちらだろうか。何を訊きたいのか分からないし言葉も出なかったから、思わずへそから生えていた植物の実だか種を千切って、投げ付けた。

「いたっ、ちょっと、何すんの、やめてっ」

 僕は痛くなかった。

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