29 彼女の距離感


「思っていたより大丈夫そうね」


 保健室からの帰り道、あたしの足取りを見て氷乃ひのはそんな感想を漏らした。


「だいぶ楽になったからな」


 嘘です。


 本当は最初から元気だっただんけど、寝て更にすっきりしただけです。


 でも、これはあたしの心の中にしまっておこう。


 怒られたくないからね。


「体調を崩すなんて貴女らしくないものね」


「……そだな」


 氷乃がそんなあたしの機微を察するくらいなのだから、悪くない仲になっていると思う。


 それでも“友達”という関係にすらなれていないのは、よく分からない小説設定と氷乃の心の壁のせいだ。


 その距離を縮めるには、もっと初歩的な問題があることに気づいた。


「思ったんだけどさ」


「何かしら?」


「氷乃の“貴女”呼びって距離感遠くね?」


 そう。


 お互いの呼び方だ。


 あたしは“氷乃”と苗字呼びだし、氷乃に関しては“貴女あなた”と名前ですらない。


 これがどうにも他人行儀というか、距離感を生んでしまっている。


「……其方そなた?」


「名前で呼べ、名前で」


 どうして頑なに二人称にこだわる。


 しかし、氷乃は難しい顔をしながら口をへの字にしていた。


 なんでだよっ。


「必要あるかしら?」


「あるでしょっ、貴女って誰のことか分かんないじゃん」


 道歩く人全員が対象ですよ、その呼び方っ。


「でも分かっているでしょ?」


 それは氷乃があたし以外と喋らないから奇跡的に成立しているだけであって、これが大勢とコミュニケーションを普通に取る子だったら絶対に成立していない。


「何のために名前ってものがあると思ってるんだ」


「他人との区別をつけるためよ」


「分かってるなら呼んでよっ」


 つまり名前で呼ばないってことは、氷乃にとってあたしは“他人と差がない”ってことじゃないか。


 うおおおっ。


 どうしても呼ばせたくなってきた。


「……考えておくわ」


「それ絶対に言わないやつじゃんっ」


 明日になって急に呼び方が変わってるとか氷乃に限ってはないだろう。


 この話題を終わらせようとしているだけにしか聞こえない。


「それにほらっ、主人公とヒロインが名前で呼び合わないっておかしくないか?」


 うーん。


 この意味わからない“設定”から抜け出したいとは思っている。


 だけど、距離感を縮めるのにこの設定を利用してしまう。


 使いたくないのに使ってしまう、二律背反な気持ち。


 どうやったら抜け出せるんだ、このスパイラル。


「……それは、距離間が縮まってから呼び合うものでしょ?」


「そうだよ、だからもうよくない?」


「まだ早いと思うわ」


 ガードが堅い。


 ヒロインならともかく、なんで主人公の方のガードが堅いのかなっ。


 もっとラフに言い合うもんじゃないのかなっ。


「じゃあ氷乃が名前で呼び合う距離感って、具体的にどうなったらアリなのさ」


 そもそも距離感なんてものは完全に主観になる。


 明確な物差しも基準もない。


 氷乃なりの解釈を教えて欲しい。


「付き合ってから、じゃないかしら」


「ええっ」


 付き合うまで、名前すら呼ばずに過ごすのか氷乃よ。


 果たして、その接し方でその相手とは結ばれるのか……。


 ていうか。


「あたしと氷乃ってまだ付き合ってなかったの?」


 なんか客観的に聞くと、修羅場みたいな発言に聞こえるけど。


 あくまで設定の話ね、リアルな方じゃないよ。


「創作における恋愛は付き合ったら終わりじゃない」


「いや、そうでもないんじゃない……? ものによると思うぞ」


 付き合うまでの過程を描いてるものは確かに多い気がするけど。


 でも必ずしもそれだけでない。


「でもそろそろ付き合ってる頃だと思うんだけど」


 けっこうベタな展開はやってきたでしょ。


「何を勝手に勘違いしているのかしら」


「いや、だって初めて氷乃の小説を読んだ時には告白してたから……」


 てっきり付き合ってると思うじゃないか。


「あれはクライマックスよ」


「あたしは初手でクライマックス読んでたのかよ。ていうか最初からクライマックス書くなよ」


 どういう順番で書いてるんですか。


 そういう手法はあるんだろうけど、氷乃は物語が書けない所からスタートしているんだから絶対狙ってるはずがない。


「私が難しく思っているのは人と親密になるまでの過程、その物語よ。それを作ることで人の感情を理解できるようになりたい、何度も言っているでしょ」


 うーん。


 これが氷乃の謎理論。


 一見それっぽく聞こえるけれど、どこか間違っているようにも聞こえる。


 あたしは頭が良くないから、そういう考えもあるのかと聞き逃してきたけれど。


 氷乃との関係性を深めていく中で、その言葉に違和感を感じるようになってきた。


「でもそれってさ、“物語”を書こうとしている時点でムリじゃない?」


「……どういうことかしら」


 あたしが氷乃の創作行為そのものについて口を出すのは初めてだ。


 それもあって氷乃の温度が下がる。


 あたしはそれ以上にひやりとするわけだけど、言ってしまった以上はもう引っ込めることは出来ない。


「物語は作り話ではあるけど、そこには作者なりの体験や経験が入ってくるもんでしょ? 純度百パーセントの妄想なんてきっとないでしょ?」


「……それはそうだろうけれど」


「だから、特に恋愛感情なんていう人の心に触れるものなんだから。それを氷乃が経験しない事には書けないじゃん」


「だから、その経験を私は小説を通して……」


 いやいや、だから話は捻じれるのだ。


 その事にもっと早く気付くべきだった。


「いや、氷乃自身が経験しなきゃダメだと思う」


 読者、つまり受け取り手であれば経験したことのないものを受け取ることは出来ると思う。


 だけど作者、作り手には経験が必要になるはずだ。


 だって他人に伝えることは難しい。


 それを自分自身が経験していなければ、きっとその輪郭すら伝わりやしない。


 ましてや、それが人間の根幹的感情であればあるほど、その嘘は透ける。


「……その経験が出来ないと言っているじゃない」


「いや、だからあたしがいるんじゃん。あたしは氷乃と物語を通してじゃなくて、実際に触れ合おうしてるんだから。氷乃もそうしなよ」


 そうしない限り、あたしと氷乃の間の距離は縮まらない。


 創作として触れ合おうとする氷乃と、創作を利用して実際に触れ合おうとするあたし。


 過程は同じでも望む結果に差があると、そこにはズレが生じる。


 そのズレがきっと大きくなってしまったんだ。


「勝手な言い分ね」


 頭をわずかに下げている氷乃の黒髪はしな垂れ、その表情を隠している。


 ただ、その冷たい温度だけが伝わってくる。


「私はそこまでは望んでいない。あくまで感情を理解するための行為であって、他人との触れ合いを求めているわけじゃない」


「だから、それが矛盾してるんだって」


 自分や他人の感情を理解するのに、人との触れ合いだけを拒否することはきっと出来ない。


 多種多様な価値観を知っていくことで、初めて目に見えない感情に触れることが出来るんだと思う。


 だから、氷乃の求めているものと実際の行動には矛盾が生じている。


「そう、なら貴女は私には人の感情を理解できないと言いたいのね」


「いや、そうは言ってないじゃん。あたしはもっといい方法があるって言ってるだけで――」


「もういい、分かったわ」


 遮るように、拒絶するように、氷乃は言葉を区切る。


 その“分かった”は、あたしの言い分を理解してくれたものとは思えなかった。


 冷たく重い空気を乗せたまま、氷乃はあたしに背中を向ける。


「私はそこまでの行為は望んでいない。貴女が求めている行為ははっきり言って不要なもの、おせっかいそのもの」


「……なんで」


 そんな、悲しいことを言うのだろう。


「でも貴女の意見を否定しても意味がないことも分かっている。だから終わりにしましょう」


 どうして氷乃は、そういう結末しか迎えられないのだろう。


「貴女との物語を描くのは、今日で終わりよ」


 感情を知ろうとしている人間が、そんな冷たい終わり方を選んでしまうのだろう。

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