第15話
あの後のことは、あまり思い出したくない。友枝さんの悔し涙も、博之さんの生きた心地のしていないような顔も、狼狽する奥さんや娘さんも、どこか他人事のように、根掘り葉掘り事情を聞きだそうとする参列者も。
「お前があの男に教えたのか」
「そうだ」
傘をさしている分、いつもより距離がある。雨音はほとんどない。おれは歩いて帰るという阿久津を追った。日曜ということもあって甲州街道沿いは夜でも車が絶えず、赤いテールランプが絶えず光を放っている。
「どうやって接触した?」
「スナックでタバコを吸っていたとき、持っていたマッチが駅前のシティホテルのだった」
「それで会いに行ったのか」
沈黙は肯定。おれはためらったのち、さらに聞いた。
「なぜ? なぜ、斎藤に通夜の予定を教えた」
「なんでだろうな……」
「……」
阿久津はいつもの無表情で応えた。
「そうだな……人を一人殺しながら、なんでもない顔して過ごしている奴らの、本性を暴いてみたくなった、のかもしれない」
お前、なにを言っているんだ。そんな言葉は、たぶん、車のエンジン音や、排気音にかすめ取られてしまった。これ以上、どうして、と訊いてもしょうがない。
「いつ分かったんだ」
「なにを」
「……尚之さんが、死亡事故を起こしていたこと」
「そんなの、ネットにいくらでも記事が転がってる。名前で検索すりゃ一発だ」
阿久津はスマホを取りだし、操作しながら言う。
「……二〇一二年十二月、長野県○○市△△町で中学生が車にはねられ死亡した事故で三日、過失運転致死罪に問われた三上尚之被告(75)の判決公判が長野地裁で開かれた。この事故は夜九時ごろ、歩道を歩いていた当時中学三年生だった斉藤由紀さん(15)が、ガードレールを突き破ってきた被告の車にはねられ、フェンスと車に挟まれて死亡した。判決では『被告は注意義務に違反し、必要な措置も怠ったのにも拘わらず、言い訳と責任逃れに終始しており、実刑は免れない』とし、禁固三年(求刑同五年)の実刑判決が言い渡された。被告は公判を通じ、一貫して自身の運転ミスを否定し続けたが、判決では事故の原因はアクセルとブレーキの踏み間違いと認定され――」
「わかった、わかったよ。もういい」
「……」
阿久津は黙って、スマホを尻ポケットにしまった。阿久津との距離が遠い。そう思った。なにかを言わねばならない。そうしなければ、こいつとの間は埋まらないまま、なにかが決定的にすれ違ってしまう気がした。この先なにをしていても――たとえ一緒に飯を食っても、野球観戦に行っても、心の奥底で正体不明の引っかかりを感じ続けることになる。そんな予感がした。でも、それを防ぐために、なにをしたらいいかわからない。
おれは混乱する頭を必死で回転させる。だが、気の利いた言葉は出てこなかった。阿久津を振り向かせるような言葉も。だから、思ったことを言うしかなかった。
「なあ阿久津」
「なんだ」
おれは足もとに目を落とした。革靴の中に水が染み込んでいる。つま先に力を入れ、おれは顔を上げた。
「なんだか難しいな」
「……難しい?」
「なにがいけなかったんだろうな。どこでだれが、ボタンをかけ間違えたんだろう」
すると阿久津が意外そうな顔で振り向いた。同時に目の前の横断歩道の信号が赤になったから、ようやく阿久津と隣に並ぶ。しばしの沈黙ののち、阿久津は傘で顔を半分隠しながら言った。
「怒らないのか」
「怒ったって、しょうがないだろうが」
「葬式を修羅場にして、じいさんの最後を汚したんだぞ」
やはりわかっているのだ、この男は。おれは心の中で、そっと息をつく。良心の呵責はある、でも後悔もしていないんだろう。
「お前はどう思う。悪いのは誰だったんだ」
阿久津のガラス玉のような目に、赤いハザードランプが映る。
「……現実に起こったことは、ただの偶然が積み重なった結果でしかない。あの日、あの時間に夜道を歩いていなければ。雨が降って視界が悪くなければ。じいさんがアクセルとブレーキを踏み間違えていなければ。だが確実なのは、雨のせいでも、夜道を歩いていた彼女が悪いわけではない。歩道に車で突っ込んだ、じいさんこそが悪なんだ」
それはそうだろう。でも、復讐なんてしても、きっとしょうがない。ましてや博之さんや娘さんは、事故とはなんの関係もないのだから。そう言うと、阿久津は小さく天を仰いだ。
「そのとおりだ。間違いなくそれが正しい」
言いながら、おれも阿久津の感情をいやというほど理解していた。正しさ、それになんの価値があるのだろう。たぶん、あの男は正しさなど必要としていない。世間的な正しさなど、ひとかけらだって。
あの男に正しさをもって行動を改めさせることはできない。そう確信した。その理由を探していると、答え出ないまま、阿久津が先につぶやいた。
「そうだ、あの男にも罪はある。あいつは呪いをかけた。大事な娘が、孫娘が、いつ突然命を奪われるかわからないという呪いを植え付けた。彼らはそんな恐怖を、心の隅に抱えながらこれから生きていく……。それが妥当な復讐なのか、やりすぎなのかはわからない」
「ああ」
「あんたはどう思う」
「それは……」
躊躇っているうちに、信号が青に変わる。でも阿久津は動かない。
「……センパイ、明日、一緒に来てほしいところがある」
「え?」
「あんたもまだ、納得していないだろう」
なんとなく想像はついていた。おれは頷き、点滅し始めた青信号を見つめる。納得していないのはお前だろう、と心の中で問いかけながら。
お前はもっと理解したいと思っている。知りたいと思っている。そうなんだろう?
阿久津はいつでも、自分が正しいと思うことをする。でも、別に自分が正しいとも思っているわけではないのだ。だから、答えを求めている。自分がしたことが、本当に正しかったのか、それを確かめたいと思っている。
二回目の青信号で、おれは歩き出す。後ろに阿久津の気配を感じながら、おれは傘を閉じた。傘が邪魔だった。空との境目を失って、柔らかな雨が髪を濡らす。
だがすぐに、それは遮られた。おれは苦笑して、小さく呟いた。
「なあ、阿久津」
「ああ」
「親を亡くした人に掛ける言葉なら腐るほどあるけど……。子どもを亡くした人にかける言葉って、この世にひとつもないんだな」
阿久津が虚を突かれたような顔になる。それから「そうだな」と軽く目を伏せた。
「あんたらしい感想だ」
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