第14話

「この度はご愁傷さまです」

「友枝さん……。そう気を落とさずにね」

「あら博之くん。早紀ちゃんも。大きくなったわねえ、ほんと」

「久しぶりに会うのが、いつもこういう形なの。年寄りには辛いわ」

「いやいや、友枝さんも頑張ったなあ」

「本当に惜しい人を亡くしたねえ」

 葬儀という場は、久しぶりに縁のある人たちの集うまたとないチャンスでもある。ある人の死によって、それを取り囲む生者たちが思い出したように繋がるのだ。言葉を選ばずに言うのなら、人の死は、定期的に、そうやって積もる話を吐き出せる場を提供する重要な役割がある。

 喪主は博之さんが務めるようだった。葬儀に駆け付けた弔問客の対応に追われている。だが友枝さんや博之さんをはじめとする遺族には、どこか前向きに故人を送りだそうとしている、そんな雰囲気があった。ここにあるのは悲しみだけではない。葬式は生きている人たちのためのものだということを、断続的に聞こえる会話の切れ端に思った。

「意外と人が来るなあ。家族葬に近いとは言っていたけど、全然そんな事ねえよ」

「長野在住の親戚とか、知り合いばっかりだな。あと昔の仕事仲間っぽい人とか」

 受け付けは慣れないおれたちには意外と忙しく感じられた。弔問客から香典を受けとり、ご芳名帳に名前と住所を書いてもらう。あとでそれぞれの包まれた金額を記入してほしいと言われていた。一息ついたのは、そろそろ住職が登場する頃合いになってからだった。紫の法衣を身に纏ったお坊さんは、代々お世話になっている地元の菩提寺の住職なのだという。

「すごいよな、長野から東京に呼び寄せるなんて」

「それだけ縁が強いってことだろう」

 それならなおさら、最初から長野で葬式をした方が早かったのではないかと思うが、いろいろと事情があるのだろう。丁寧に香典を整理しながら、奥の部屋から聞こえてきたお経に背筋を伸ばした。

 おれたちのいる場所は、入口の自動ドアの正面だ。いままさにお経が唱えられている部屋は、そんなロビー部分のすぐ隣にある。空間としては確実に繋がってはいるが、床の素材がカーペットになっていたり、照明が少し暗くなっていたり、天井や壁が一部部屋を覆うようにはみ出しているので、確実にこちら側とは仕切られていた。だからここからは、三上さんの遺影がなんだか遠くに見える。おれは視線を剥がし、前を向いた。

 そのあとも、時折訪れる弔問客に対応しながら、ふたり、ぼうっと座っていた。入口の傘立ては、まるで枯れ野のように地味な色の傘であふれている。想像通り、今日も雨が降っていた。

「二人ともありがとうね。大したものじゃないけど、あなたたちも食べていって」

 喪主のあいさつを終え、通夜ぶるまいのために、皆が会館の二階に上がったころ。おれたちも来るよう、友枝さんが声をかけてくれた。おれたちは整理した香典を持って、受付のスペースを後にしようと立ち上がる。もういちど、三上さんの顔を見てからにしようか。そう思って会場のホールの方を振り向こうとした。そのときだった。

 正面のドアから、一人の男が現れた。

 その遅れてきた弔問客を見た瞬間、おれは絶句した。しっとりと濡れた、無造作に伸びた髪。その間から覗く、磨きたてのガラスのような目。しっかりと喪服に身を包んだ背の高い男は、ビニール傘を無造作に傘立てに突っ込むと、おれたちの前に歩み寄る。

「あんた……なんで……」

「なんでって、人が死んで、通夜に来るのに理由がいるのか」

 相変わらず掴めない男は、胸ポケットから袱紗もなしに直に不祝儀袋を取りだした。

「この度はご愁傷さまでした」

 二階からはすでに宴が始まっているようで、楽しそうな声が下まで響いてくる。突っ立ったままでいるおれたちを見て対応に困っていると思ったのか、葬儀会社の女性がぱたぱたとこちらに駆け寄ってきた。

「この度は足を運んでいただいてありがとうございます。ただいま、読経が終わりまして。皆さんお二階にいらっしゃいますので……。お名前、お伺いしてもよろしいですか?」

「斎藤です。斎藤由紀の父と言えばわかります」

「斎藤、さまですね。それでは少々お待ちください」

 そう言って二階にかけてゆく。それを止めるだけの余裕はなかった。この男をこの場にいさせてはいけない。そう思ったのに、阿久津が香典を黙って受け取った。事務的に「こちらにお名前と、ご住所をお願いします」と声までかけて。

「お、おい……」

「悪いね、遅れてしまって」

「いえ。ギリギリ間に合ったんじゃないですか」

 阿久津がなにを考えているのか、本気でわからない。いままでもそういうことはあったけれど、それでも多少推し量ることはできた。でもいまは違う。この状況でとるべき行動の選択がまったく違うことへの戸惑いで、頭が混乱した。どう考えたって、友枝さんたちとこの男を合わせるべきではない。几帳面に名前を書き込む男に目をやる。だが、混乱していると体は固まるものらしく、おれは呆然とその場に突っ立って、男と阿久津を交互に見ることしかできなかった。そのときだった。

「あなた……!」

「ちょっと、母さん!」

 背後から悲鳴にも近い叫び声が聞こえた。おれは階段の方を見上げた。そこにはこちらを――いや、正確にはおれの奥の方を睨みつけている友枝さんがいた。そしてそれを博之さんが止めようとしている。最悪の事態が起こったことだけ、おれは理解した。

「母さん、落ち着いて!」

「落ち着けるわけないでしょう! あなた……あなたはどこまで、あの人を冒涜すれば気が済むの!!」

 友枝さんは八十近いとは思えないほどの勢いで、博之さんの腕を振りほどく。そして階段を駆け降り、男に向かって走ってきたので、おれは我に返って、体を張って友枝さんを止めた。想像以上の勢いに、情けなくも体がぐらつく。

「ちょ、ちょっと、落ち着いて! どうしたんですか、友枝さん!」

「最後のお別れの場にまで押しかけて! あなたって人は! あなたって人は……!」

 だが埒が明かない。博之さんも慌てて追いかけてきて、友枝さんの肩を支えるようにしておれから引きはがした。それでも友枝さんは、男を真っ直ぐ睨みつけている。ふうふう、と心配になるほど息を切らしている友枝さんとは対照的に、男はいやに落ち着いて、眉ひとつ動かさない。凪いだ海のような目で、真っ直ぐ友枝さんを見返している。それどころか、

「あっけないな。人の死というものは」

 と、挑発的な言葉を放って見せる。それに友枝さんの怒りのボルテージが一段階、上がったのを肌で感じた。そしてその段階になってやっと、おれは彼らが顔見知りだったことと、この男が本当に斎藤という名であったことを認識する。

「不幸があった家に……! なんて……なんて人!」

「それはどうだろうか。それならおれの方が、ずっとずっと不幸だと思うがね」

「斎藤さん……。お願いです。今日のところはお帰り下さい。この通りです」

 博之さんは、友枝さんを抱えるようにしたまま、頭を下げた。だがそれが火に油を注いだようで、彼女はさらに声を荒げた。

「なぜ頭を下げるの! この男はあの人を侮辱したのよ! 葬儀の場を台無しにして! こんな非常識な人間! 早く頭をあげなさい!!」

「非常識、ねえ。あんたたちだけには言われたくない言葉だな」

 友枝さんとは対照的に、斎藤は沈着冷静そのものだった。それどころかゆっくりと背を向け、祭壇の方へ歩いてゆく。「ちょっと!」と叫ぶ友枝さんの豹変ぶりを、おれは呆然とした思いで見ていた。いつもの落ち着いた穏やかさは消え去り、髪を振り乱して目を見開いた姿は、昔話の絵本で見た山姥のようですらあった。

 こちらに背を向けているから、斎藤の表情は読めない。だがその視線が三上さんに向けられているだろうことはわかった。葬儀会社のスタッフもおろおろしながら、友枝さんをなだめている。

「斎藤さん、香典はいりません。お願いです、今日のところはお引き取り下さい。……私で良ければ、土下座でもなんでもしますから――」

「あんたに土下座してもらったところで、おれの留飲は下がらない。自分を過大評価しないでいただきたいな。不愉快だ」

 憔悴したような博之さんの声。しかし斎藤は、そんな博之さんをぴしゃりと遮った。それを聞いた友枝さんが、さらに逆上して叫ぶ。

「なぜあなたに頭を下げないといけないの!!!」

 金切声にも近い叫び声が、ロビーいっぱいに響き渡る。

「あの人はもう罪を償ったんです! それは司法が認めている。あなたがどう思おうと、この人にはもう何の咎もないの!」

「そう言うわりに、去年の命日、おれがあんたらの家に行ったときは警察に通報すらしなかったじゃないか。それは後ろめたさがあったからじゃないのか?」

「なっ……!」

「ま、そりゃそうだよな。せっかくおれの目を掻い潜って東京に家を建てて、出所するやいなや引っ越して、心機一転平和に暮らしていたってのに、ここにきて過去に足を引っ張られるわけにはいかんだろうからな」

 罪。咎。司法。命日。出所。そして、過去。

 そんな言葉が、ばらばらになったパズルのピースのように、おれの頭の中で組み合わさっては離れていく。だが真実を再現しようとするおれの脳は、トライアンドエラーを繰り返すうちに着々とその完成図を描きつつあった。

「あんたの言う通りだよ、奥さん。国家はもう、あの人殺しを許した。だからこそ、おれはあの男を殺そうと思ったんだ。あの男は、国家もクソもないところでおれの娘を殺したのだから。だから同じように、今度はおれがあの男を殺す。それがイーブンってもんだ」

「屁理屈を!」

 悲痛な声だった。まるで命を消費して叫んでいるような。

「この人は立派に生きました! あなたが何と言おうと、この人は本当に立派な人でした! 誠実な人だった! 人のために生きた人でした! 私が子供を授からなくて何も言わなかった。養子をもらって、その子を必死に育てあげた! あなたがどれほどこの人を貶めても……それは変わらないんです!」

「だがアクセルとブレーキを踏み間違えたことは認めない。それに娘を殺したことを、このジジイは最後まで謝罪しなかった」

「……!」

 斎藤の言葉は冷たく、鋭かった。氷の矢のようだと思った。たとえどんな炎でも融かせないような。

 言葉を失ったのはおれだけではなかった。友枝さんや、博之さんもそうだ。そして葬儀社の人も。最後のパズルがはまって、ようやくすべての謎が解けた。汚れが詰まっていたパイプの、そこに風穴が空いて、不純物が流れてゆく。そんな気さえした。

 共感してほしくて隣を見る。でもこいつだけは、なぜかいつものような沈黙を守っていた。そう、いつものように――自主練の帰り道、疲れて言葉が出ないときや、ラーメンを食べて満腹で眠くなっているときと同じ種類の沈黙。言葉が出ないのではない。言葉を出さないのだ。そういう意味で、こいつと、こいつ以外の沈黙は明らかに違っていた。おれには分かる。その整った横顔には動揺を微塵も感じない。そんな阿久津に、おれが動揺した。

 おまえ、一体、何を考えているんだ。

 斎藤がこちらを向いた。その目はあの日と同じで昏かった。冬の日の日の入りのようなもの寂しさ。さっきの言葉のような凍てつくほどの鋭さはなく、ただ吹きつける木枯らしのような、愁いの色が浮かんでいる。

「あ、あ、あ、あなたは……!」

「だがもう、あんたの夫から、同じ命を取り返すことはできない。おれの与り知らぬところで、勝手に死んでしまったから。娘に……由紀に、一言も謝罪しないまま」

「斎藤さんっ……!」

 飛び出したのは博之さんだった。

 斎藤の足もとにくずおれるようにして土下座する。その声には涙声が混じっていた。

「わ、私にも娘がいます、だから……だからわかります。私だってあなたと同じ立場なら、きっと加害者を許せないでしょう。なにがあっても、一生……娘が生きるはずだった人生ぶん、なにをしてでも償わせたいと思うでしょう」

「博之! やめなさい!」

 友枝さんが目を限界まで見開いて叫ぶ。

「あなたまであの人を……あの人の人生を否定するつもりなの!?」

「友枝さん!」

 その場に倒れ込んだ友枝さんを支える。とても軽い。薄くたよりない体から、声をしぼりだすその姿が痛々しい。

「あの人は……誠実な人だったわ……とても誠実で……人のために生きた人だった……」

「友枝さん……」

「あれだけ理性的に、自分を律して生きてきた人を……しかるべき罰を受けたのに……どうして貶めようとするの……」

「おれは許さない。なにがあっても、三上尚之という殺人者を、決してな」

 斎藤はポケットからタバコを取りだした。静かにライターで火をつける。静かに吐かれた煙が、ゆっくりとこの空間に染み渡ってゆく。男がここに来たその意味を、確かにこの場所に刻み付けるように。目を伏せるようにタバコを吸う、その煙のせいで、男の目が曇りガラスのようにぼやけて見える。

 どれだけの時間がたっただろう。

 気づけば勝手に、口を開いていた。

「……うちと違って、ここは館内禁煙なんだ。頼むから、タバコなら外で吸ってくれないか」

 斎藤は目を瞠った。想定外の出来事に呆気にとられたような顔が、どこか幼い。やがてポケット灰皿を取りだし、苦笑して言った。

「まったく、喫煙者の居場所はねえな」

 あ、笑った。

「……おれはもうあなたからは、取り返すことはできない。だから代わりに、あなたの大切なものから頂くとします。何年、何十年かかろうと、必ずね」

 最後に遺影の方を向いて、斎藤がそう言った。そしてもう振り返ることなく、出口に向かって歩き出す。床に伏したままの博之さんの脇を通りすぎ、友枝さんを一瞥する。交差する視線、斎藤はふと足を止めた。

「……お孫さんがいるらしいですね。可愛いお嬢さんが」

「……!」

「由紀が死んだのも、あのくらいの年齢だったか。……さて、あの子はこの先、何年生きてゆけるだろうな」

 心臓がわし掴みにされたような気がした。だがおれがそれを咎める前に、

「貴様ああ……っ!!」

 博之さんが立ち上がり、人が変わったかのように斎藤に突進していった。止める間もなく、博之さんが斎藤の襟首を掴む。が、身長は斎藤の方が高いため、下から引き寄せる形になった。

「貴様、娘に手を出して見ろ! ただじゃおかないからな! 絶対! 警察に通報してやる! 絶対に! いや、いますぐにだあ!」

「ちょっと、落ち着いてください、博之さん!」

 あわてて二人の間に割り込んで止める。悲鳴が上がった。なんだなんだ、と二階から人が下りてくる。だが博之さんの豹変ぶりに、斎藤はまったく動じなかった。飛びつかれても、どこ吹く風、とばかりにただ対峙している。やじ馬がざわめく。やがて、男が薄笑いを浮かべて言った。

「だったらどうする。脅迫されましたあーって、情けない声で被害届けでも出すか?」

「なっ……」

「でもな、たとえ捕まっても、おれはすぐに出てくるぜ。おれの娘を殺して、あの男が独房に座ってただけの三年間より、ずっと短い期間でな」

 博之さんが絶句した。

「警察に言えよ、言えるもんならさっさとな。おれは逃げないぜ。だがな、何度も言うが、おれは必ずあんたらの前に戻ってくる。間違えて人を轢き殺したって許される世の中だ。おれの復讐くらい、世間も大目に見てくれるだろうよ」

 気圧されたのか、博之さんが一歩下がる。

 もうやめろ。

 そんな思いを込めて、おれは男の肩を押した。肩はしっとりと濡れていた。黒いスーツだから目立たないが、そこから雨の匂いがした。

「もう、わかったよ。わかったから」

「……」

 そんなことを言わないでくれと思った。男が、ゆっくりとおれに目を向ける。

 どれくらいの時間が過ぎただろう。心臓の音がうるさいほど音を立てて、息をするのにも体力がいるような感じがした。でも、おれは目をそらさなかった。この場を支配しているのはこの男のように見えて、実はそうではないことを、手から伝わる鼓動から知ったからだ。

 彼はただ、雨に濡れた男。ただそれだけの男。きっと人を殺すことなんて、決してできない男。

 なあ、そうなんだろう?

「なんてな」

 斎藤は、それまで発していたプレッシャーを、あっけなくひっこめた。まるで蛇口をひねるみたいな気軽さで。肩をすくめる仕草をした後、おい、と声をかけたおれに、にやりと笑いかける。

「冗談だって。ちょっとやりすぎたかもしれんが」

「……は?」

「おれはただ、最後まで謝らなかったあの人殺しに一矢報いたかっただけだ」

「あんたは……」

 男は微笑んだ。穏やかな笑みだったが、それはまるで味のしないスープのように、余計な感情が排除されているように見えた。冷たい手が優しく、おれの手を肩から外す。

「スッキリしたよ。まるでドラマの主人公になった気分だ」

 斎藤が目を伏せた。

「ほんとに……すべてが作り話だったらよかったのにな」

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