第5話


「本当に助かるわ、ちょうど新年度で人手が足りなくなってたのよ」

 おれたちを迎えてくれたのは、おれの母親くらいの年齢のおばさんだった。丸っこいフォルムと丸っこいメガネ。中身がぎっしり詰まったあんぱんのような顔の上に、見るものを安心させるような柔らかい笑顔が乗っている。

「うす」

「あの、ボランティアって……?」

「ここはねえ、無料で小中学生に勉強を教えてあげる塾なのよ。ほら、家庭の事情で塾へ行けない子ども、いるでしょう。そういう子たちのために立ち上げたの」

「へえ……知りませんでした」

 どうやらおれが連れ込まれた建物は、『かがやき』という名のNPO法人が主催する無料塾らしい。この法人は貧困家庭の子供たちを対象に学習支援を続けており、この無料塾もその一環なのだと言う。

「で、佐々木さんはその代表」

「そうなの。丈くんもね、高校生のころから手伝ってくれてるのよね」

 話によれば、受験を終えた今年二月ごろから、阿久津は暇つぶしを兼ねてこのボランティアに参加しているのだという。かなり人気の先生なのよ、なんて言われて目を丸くする。どんなに親しいつもりでも、知らない顔はあるものだ。それからしげしげと室内を見回していると、佐々木さんが人好きのする笑顔で言った。

「ちょうど新年度で人が入れ替わる時期でね、人手不足で困ってたのよ」

「でもおれ、そんな勉強、できませんよ……?」

「だいじょうぶよお! 小学校レベルだから、大学生ならだれにでもできるわ」

「センパイ、中学レベルはきついだろ。それくらいわかってる」

「お前さ……」

 反論する気も失せて、おれは視線をうようよと動かした。なんだかもう、話を引き受ける方向で話が進んでいる。とはいえ、おれも新しいバイトを探さなければならないし、学校が遅くまである日もあるので時間が合わないかもしれない。そう言うと、佐々木さんはそんな抵抗を吹き飛ばすかのように豪快に笑った。

「大丈夫よ! 基本的に、週一回か週二回、二時間くらいでいいから」

「はあ……」

「相沢アキくん。丈くんが連れてきてくれたんだから間違いないわ。いいじゃない、これからよろしくね。あ、一応履歴書は持ってきてね。形だけだけど、一応面接もするから」

 流されるのはおれの得意技。それから細かい説明を受け、あれよあれよという間に、早くも来週から小学生の算数を見てあげることになった。

 それでは来週からお願いします。そう頭を下げて阿久津とともに塾を後にしようとしたとき。入口の方へ、小さな女の子が駆けてきた。

「佐々木さん、こんにちは」

「あら、ハルちゃん。いらっしゃい」

「あ、どうも……」

 兄弟もいないおれは、子供との接し方を知らない。変に人見知りを発揮して、とりあえず、へらへらと笑っておく。

「ハルちゃん、この人がね、来週からハルちゃんの勉強を見てくれるから」

 ハルと呼ばれた二つ結びの女の子は、眼鏡の中で丸い瞳をぱちぱちを瞬かせた。おれの生徒はこの子なのか。マスクをしていたのでわかりにくいが、ハルは目元をちょっとだけ緩ませて、ぺこりと頭を下げた。

 赤ん坊に毛が生えたくらいの年齢なのに、ずいぶんと礼儀正しい子だ。おれがこれくらいの歳に、初めて会う大人相手にお辞儀なんてできていただろうか。何はともあれ、手のかかりそうな子ではなくてよかった――おれは安心しつつ、しゃがんでハルと視線を合わせ、ぽん、と頭に手を乗せた。

「よろしくな、ハル」

 ハルは小さく頷いた。それから佐々木さんに促されて中に入って行く。

「ハルちゃんはすごくいい子だから、安心して。まあ、他にも担当してもらう子はいるけど、相沢くんなら大丈夫よ」

「は、はい」

 その後も何人か、子供たちがやってきた。そろそろ授業が始まるころらしい。佐々木さんに礼を言い、おれたちは『かがやき』をあとにしようとした。

「だれだてめえーー!」

 だがその瞬間、後ろからどすん、とひざ辺りに衝撃が走った。うひょあ、と情けない悲鳴をあげてから下を向くと、小さなぼさぼさ頭とつむじが見える。だがおれが口を開く前に、阿久津がひょい、と手慣れた手つきでそいつの首根っこを掴んで引きはがす。

「来たな」

「離せデカ! 巨人! キン肉マン!」

 よくわからない悪態をついて、赤いTシャツを着たガキが暴れる。おれはもう一度しゃがんで、目を見ながら言った。

「なんだお前? まさかお前もおれの生徒じゃねえだろーな」

「うっせえこのヤロおおーーー!」

 だがおれの誠意は通じなかったらしい。生意気なガキは容赦なく、弁慶の泣き所を思いっきり蹴り上げた。

「いってー!」

「こら、宏太くん! なにしてるの!」

 佐々木さんがすかさず注意する。

「知らねー! バーカバーカ!」

 阿久津の腕を振り払ったガキは、最後にもう一発、おれにどすんと渾身の体当たりをして――とはいえ、この世に生を受けて七、八年の体では、急所でもない限りびくともしない――来た道を戻るように走っていった。

「もう! ごめんね、あの子いつもこうなのよ」

「は、はあ」

 佐々木さんが辺りを見回して、ため息をついた。

「いまのガ……じゃなくて、いまの男の子はいいんですか? あっち行っちゃいましたけど」

「ううん、あの子はここの塾生じゃあないのよ。たまにくる子なんだけどね、私たちもちょっと、困ってるのよねえ」

 佐々木さんはちょっとだけ、目を伏せて言った。まあ、色々な性格の子がいるんだろう。そう自分を納得させて、佐々木さんに挨拶する。面接の日時を確認してから、今度こそ帰ろうとして阿久津を見た。

「おい?」

 だが阿久津は、そこに突っ立ったまま、なにやら考え事をしている。

「まだ何かあるのか?」

「さっきのガキ、居たろ。そいつを探してた」

「ガキって、宏太とかいうやつか?」

 阿久津が頷く。わけがわからん。おれは阿久津の肩を掴んで、力づくでこっちを向かせた。

「いいから、最初っから説明してもらおうか」

「うちの姉貴が、あの小学校で教師をしてるんだ」

 阿久津がおれの目を見て、ぽつり、と話し出した。

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