たまご
速星千里
第1話
夏の音が遠のいていった。蝉の声も木々の葉ずれの音も、もう僕の耳には届かない。
昼間でも薄暗い板間に、僕と母さんは対峙していた。
「達也、すぐに返して来なさい。こんな事で私が喜ぶとでも思っていたのですか」
母さんの声は穏やかだったが、それでいて、冷たい井戸水のような厳しさがあった。母さんの髪はほつれ、額に汗が吹き出し、浴衣の襟もはだけている。それでも、母さんはピンと背筋を伸ばして正座し、凛とした眼差しで僕をまっすぐに見すえている。
僕は視線を落とした。僕の掌にある鶏卵は汚れなく、あくまで白かった。
「玉子粥を食べさせてあげれば、母さんの病気も良くなると思ったんだ」
「他所様から盗ってきたものなどいりません。こんな事をして、父さんだって草葉の陰で泣いていますよ」
僕は茶箪笥の上の写真立てを見た。軍服を着た父さんは、いつだって笑っている。
「母さん、ごめんなさい」
「謝る相手が違うでしょ」
そのとおり。母さんは、いつだって正しい事を言う。
「達也、もうあなたは来年から中学生です。これからすべき事はわかりますね」
そう言うと、母さんは話を切り上げ、奥の間に引き上げて行った。
僕が居間から出ると、和哉は縁側に腰掛け、足をぶらぶらと揺らしていた。僕と母さんとのやりとりは聞こえていたのだろうか。
和哉はまだ六歳だから、物事の良し悪しはまだよく分かっていないのかもしれない。
僕は和哉の横に腰を下ろした。
「兄ちゃんが言ったとおりだろ。母さん、いらないって」
和哉は口を尖らせた。
「悪い事したって、わかっているよな。あんな事は二度とするな。約束できるか?」
「でも、兄ちゃん」
「約束だ!」
僕は、和也の前に小指をを差し出した。
「うん、約束する」
僕たちは指切りげんまんをした。
「じゃあ、俺、お春ばあさんの家に謝りに行くから」
「僕も一緒に行く」
「お前はいいよ。お兄ちゃんが何とかする」
「一緒に行く!」
時々、和哉は頑固になって、言うことを聞かない事がある。今もそうなのだろう。
「わかった。お前も来い」
お春ばあさんの家は、村外れにあった。小ぢんまりした茅葺の家の前まで来ると、強烈な鶏の臭いが漂ってきた。家の裏に鶏小屋があって、お春ばあさんは卵を売って生計の足しにしているのだ。
玄関の引き戸は開けたままになっていた。僕は和哉をその場に待たせ、大きく深呼吸をすると土間に立った。「こんにちは」と家の中に呼びかけるも返事は無く、家の中に人の気配はなかった。もう一度、声を大きくして呼びかける。やはり返事はない。留守なのだろうか。しばらく待った後、僕は諦めて帰ろうとした。
「何用だね」
背後から声がした。僕はびっくりして飛び上がりそうになった。振り返ると、お春ばあさんが、いつの間にか立っていた。
お春ばあさんは六十歳前後だろうか。村の大人達の汚い口に言わせれば、「行かず後家」で、子供達の間では怖い存在だった。笑った顔を誰も見たことがないと、もっぱらの評判だ。本当かどうかはわからないが、いたずらした悪童を包丁振り回して追いかけた事もあったという。
目の前に立っている彼女は、いつもどおりの仏頂面で眼光も鋭かった。
「ご、ごめんなさい」
僕は慌てて頭を下げた。
「いきなり謝られてもねえ。あんた、確か小出さん家の子だっけ。いったい、何やらかしたんだ?」
「鶏小屋の卵を一つ盗みました」
お春ばあさんは、フンと鼻を鳴らした。
「手癖の悪いガキだね。それで何でまた、わざわざ謝りに戻って来たってわけ?」
「母さんに叱られたので」
「ふーん、そうかい。で、向こうにいるのは、あんたの弟かい?」
と、和哉の方を顎で指した。
「あの子をこっちに連れてきなさい」
和哉をお春ばあさんの前に立たせると、彼女は和哉を見下ろして聞いた。
「本当は、あんたが盗ったんだろ?」
和哉は怯え、慌てて首を横に振った。
有無を言わさず、お春ばあさんは、和哉の頬を思い切り平手打ちした。
パーンと大きな音が響いた。
「嘘を言うんじゃないよ!」
和哉は驚いた顔で頬を押さえると、やがて声を上げて泣き始めた。
「悪い事をしたら罰を受ける。最も単純で基本的な世の理じゃないか。それを知るにはね、幼すぎるって事はないんだよ」
そう言うと、お春ばあさんは、僕の頬にも平手打ちした。
「あんたも嘘をついた。その罰だよ」
頬がピリピリと痺れたように痛んだ。
「もういいから、あんた達、もう家に帰んな。あたしゃ、鶏の世話で忙しいんだよ」
そう言うと、お春ばあさんは、土間から出て行こうとした。
「ちょっと待ってください」
慌てて僕はポケットから卵を取り出すと、お春ばあさんに差し出した。
「これ、お返しします」
お春ばあさんは一瞥すると、顔を背けた。
「いらないよ、そんなもの。あんた達の手垢で汚れちまって、売りものになんかなりゃしないんだから」
「でも……」
「だから、いらないって言ってるんでしょ」
お春ばあさんは、そう言い残すと行ってしまった。
帰り道、和哉はあっという間に機嫌を直してしまったようだった。僕の少し前を和哉は舞うようにフラフラと歩いている。
「おーい、そんな歩き方をしてると転ぶぞ」
「だあいじょうぶ、だいじょうぶー」
そう言いながら、和哉は駆け足で戻ってきて、僕に抱きついてきた。
「お春ばあさん、怖かったね」
「お前が悪いんだからな。反省してんのか」
「うん」
屈託のない返事に、こいつ、本当に反省してるのかとも思ったが、終わった事を蒸し返すのも何だから放っておいた。
「なあ和哉、この卵、どうしようか」
「お母さんにあげるんでしょ」
「うーん、母さんは受け取らないと思うよ」
僕は掌の中の卵を見つめた。ならば、僕と和哉で半分こにしようか。だが、たった一つの卵を二人で分けても、一口にも満たないだろう。
「和哉、お前ならこの卵、どうやって食べる?」
和哉は視線を宙に浮かせた。
「えっとね、うんとね、僕は、卵かけご飯かなあ。ほっかほかのご飯にかけて食べるんだ。きっと、トロトロだよ」
「お前、卵かけご飯食べた事あんのかよ」
「あるよ、お病気した時、食べたもん」
思い出した。確か和哉が二歳の時、麻疹にかかり、その病み上がりに両親が食べさせたんだっけ。あの頃の事、覚えているのか。
「お兄ちゃんはどうなの?」
「そうだなあ、俺は玉子焼きかな。お砂糖をいっぱい入れてさ、うんと甘くするんだ。フワフワだぞ」
僕は、鼻腔の奥に残っていた玉子焼きの記憶を嗅いだ。思わず唾を飲み込む。
代わりに和哉のお腹がグウと鳴った。
よし、決めた。
「これ、お前にやるよ」
僕は、和哉に卵を差し出した。
「でも、お兄ちゃん……」
「いいから」
和哉は卵を受け取ると、しばらく見つめた後、大事そうにズボンのポケットの中に入れた。和哉は俯いたまま黙ってしまう。
唐突に、和哉は歌い始めた。
「トッロトロのフッワフワ、フッワフワーのトッロトロ」
即興で音階を付けたのだろう、あまりにも調子外れな和哉の歌声に、僕は思わず吹き出してしまった。
意味もなく可笑しかった、笑うと心が軽くなった。
和哉も一緒になって笑い始めた。
夏の音が戻ってきた。田んぼから聞こえる蛙の声、向こうの林で鳴く油蝉の声、風が吹けばサワサワと葉ずれの音が鳴る。そうだ、本当は世界はこんなに賑やかなのだ。こんなに生き生きとしているのだ。嬉しくなって、僕は歌い始めた。
「トッロトロのフッワフワ、フッワフワーのトッロトロ」
和哉も一緒になって歌い出す。
僕達は、家に着くまでの道のりを、ずっと調子外れな歌を合唱しながら歩いた。
家に着くと、僕は事の顛末を母さんに話した。母さんは何も言わず、畑で採れたとうもろこしを風呂敷に包むと、病身を押してお春ばあさんの家に向かった。
◇
雑草はかくも逞しく生茂るものだ。刈っても刈ってもすぐに伸びてくる。田んぼの草刈りは、まるで賽の河原のような作業だ。
村の結総出で田んぼの雑草を刈っていた。 今は夏休み中だから、僕以外にも年長の子供は作業に狩り出され、大人達に混じって黙々と雑草を刈っている。
日はかなり落ちてきているものの、まだまだ蒸し暑い。一時間くらいの昼休みをはさんで、朝からずっと中腰で雑草を刈っているのだ。気力も体力も限界だった。
「日が落ちてきた。そろそろ仕舞うぞ」
結の長が声を掛けると、皆、ぞろぞろと田んぼから引き上げていく。
泥のように疲れていたし、猛烈に腹も減っていた。僕は畦の上にへたりこんだ。
一息ついていると、年少の子ども達の集団が、集落の方からやってきた。年長の女の子に引導されて、親達を迎えに来たのだ。
僕は立ち上がって、そちらの方に手を振った。
「お兄ちゃーん」
和哉が駆け寄って来て、僕に抱きついた。
「ちゃんとお利口さんにしてたか?」
「うん、してたよ」
「何して遊んでた?」
「ゆう君たちと蝉とってね、鬼ごっこして、土でお団子作ってね、うーんと、それから……」
とりとめなく話し始めた和哉の姿を見ると、ズボンの右ポケットがぽっこりと膨らんでいるのに気づいた。
「お前、まだあの卵持っていたのか」
和哉は「うん」と元気よく返事した。
あの日から、和哉は肌身離さず、ずっと持っているのだ。
「卵かけご飯にでもして早く食べちゃえよ」
そう言うと、和哉は困った顔になった。
もちろん、和哉の気持ちはわかっていた。
たった一つしかない卵だ。自分が独り占めして食べる事なんかできるわけがない。
僕は、かえって罪な事をしたのかもしれない。結局、卵は宙ぶらりんになったまま、和哉のポケットの中で割れてしまうか、腐ってしまうのだろう。その時、和哉は泣いてしまうのだろうか。何と声をかけてやればいいものだろうか。
「まあいいさ。気にするな。ほら、お家に帰るぞ」
僕は和哉に右手を差し出した。和哉はその手をしっかりと握り返す。
僕たちは、手を繋いだまま歩き始める。
「なあ、和哉、また卵の唄を歌おうぜ」
「卵の唄?なあにそれ?」
「もう忘れちゃったのかよ」
僕は思わず苦笑した。
「よっし、じゃあ、汽車ポッポを歌おう」
僕達は「汽車ポッポ」を合唱して歩き始めた。
日が向こうの山の間に沈もうとしている。草むらでは、秋の虫たちが鳴き始めていた。
◇
その後、和哉は卵をポケットに入れたまま日々を過ごした。夜は、母さんに作ってもらった巾着に卵を入れ、首からかけて寝た。和哉は、その年頃の子どもと同様によく遊び、よく笑い、そして時々どうでもいいことで泣いてぐずった。
母さんの病気は、一進一退だった。調子のいい時は家事をこなしてみたりしていたが、一日のほとんどを床に臥したままの事が多かった。
僕はといえば、農作業をしながら、家事もこなし、その合間を見て学校の宿題をやっていた。泣き言なんて言っていられないような忙しい毎日だった。
こうして、夏の日々は流れていった。
夏休みも終わりに近い夜。
僕は、いつものように夕食の後片付けを済ませると、納戸の片隅にある座卓に向かい、読書灯の下に国語の教科書を広げていた。幼い頃から読み書きは得意だった。だから、教科書を授業よりずっと先まで読み進めている。教科書は、墨塗だらけで読みにくいが、それでも文字を目で追うのはとても楽しい。
もう、三時間余りこうしていただろうか。時計を見ると、深夜の零時近くになっていた。僕は教科書を閉じた。
寝る時間をとっくに過ぎていた。だけど、目が冴えてしまって、眠れそうにない。
母さんは病気になってから、隣の奥の間に一人で寝ているので、納戸には僕と和哉しかいない。和哉の静かな寝息が聞こえる。振り返って見ると、ランニングシャツ越しにあばら骨が浮き出た小さな背中が、規則正しく動いている。
何があっても、僕は和哉の事を守ろう。
僕は改めて心の中で誓った。
その一方で、僕は不安だった。
日本は、世界を相手に戦争を続けた。その結果、都市の大部分が焼け野原になり、広島と長崎にはピカドンが落ちた。そして、去年の夏、僕達は玉音放送を聞いた。
父さんは、戦地から生きて戻って来なかった。
戦争が終わり平和になったが、ラジオや村の大人達が言うには、これから農地改革が始まり、農村のあり方が大きく変わるらしい。
世の中がすっかり変わり、今後も大きく変わりつつある。そんな時代の濁流の中で、僕と和哉はあまりにも無力だ。母さんだって病に倒れたままだ。僕達はこれからどう生きていけばいいのか。
暗澹とした気分になって、僕はため息をついた。
気配に気づいたか、和哉が目を覚まし、布団の上で半身を起こした。
「お兄ちゃん、まだ起きてたの?」
「悪いな。起こしちゃったかな」
僕が読書灯を消そうとした時、和哉が首から下げている巾着が、大きく揺れた。和哉もすぐにそれに気づき、巾着を両手で覆った。
「お兄ちゃん、な、何か動いてる」
和哉は、巾着を首から外すと、中の卵を取り出した。卵が和哉の掌の中で小刻みに動いている。
「わ、なに?」
驚いた和哉は、布団の上に卵を落としてしまった。その瞬間、卵の殻にヒビが入った。
僕達が見守る中、そのヒビ割れから、黄色い小さな口ばしが顔を出した。
◇
「アハハハ、こりゃあ傑作だ。あんた達、あの卵、孵しちまったのかい」
笑っているお春ばあさんを見るのは、初めてだった。
和哉はあの時の事を覚えているのか、僕の背後に身を隠したままだ。
僕達は、再びお春ばあさんの家に来ていた。
僕が魚籠を手渡すと、お春ばあさんは、中からひよこを取り出し、ためつすがめつ眺めた。
「こいつは女の子だね」
そう言うと、お春ばあさんは、ひよこを魚籠に戻して、僕に返した。
「このひよこはお返ししようと……」
「前に言っただろ?あんた達にくれてやるって」
「でも、ひよこの育て方なんか、僕達にはわかりません」
「あんた達が孵した雛だ。責任持ってあんた達が育てな」
お春ばあさんが、意地悪そうな笑みを浮かべる。
「雛の育て方、あたしが教えてやってもいいよ。ただし、条件がある。後ろで隠れているそこのボウズ、顔を出しなさい」
和哉が、おずおずと僕の背後から顔を出した。
「これから週に一回でもいいから、鶏小屋の掃除を手伝いに来なさい。簡単な仕事だからあんたにも出来るはずだ」
和哉は黙って頷いた。
お春ばあさんは、小一時間かけて飼育の基本を僕達に教えてくれた。
帰りがけ、お春ばあさんは、僕に向かって言った。
「あんた、僥倖って言葉、知ってるかい?」
「ぎょうこう?」
「メリケンの言葉で言えば、ラッキーさ。思いもよらぬ幸せって事。だけどね、幸せは天から降ってくるもんじゃない。日々のちょっとした行いの賜物なんだ。これからも弟を可愛がってやんな」
そう言うと、お春ばあさんは奥に引っ込んでいった。
帰り道、和哉はずっと魚籠の中を覗いていた。ひよこが可愛いくて仕方ないらしい。
僕はといえば、これからの事を考えていた。成鳥になったひよこは、いくらでも卵を産んでくれるだろう。しばらくしたら、お春ばあさんから雄鶏を借りて、つがわせてもいい。
和哉の声に僕は我に返った。
「ねえねえ、この子に名前つけたいんだけど。ピヨピヨ鳴くから、ピヨ子にしようよ」
「けど、一ヶ月もしたら、コケコッコって鳴くようになるんだぜ」
「いいの。そう決めたんだから、ピヨ子!」
こういう時の和哉は本当に強情だ。
「わかったよ、それでいい」
同意するかのように、魚籠の中でピヨ子がピヨピヨと鳴いた。
ふと、見上げると蒼天にいわし雲がかかっていた。もう秋が近くまで来ているようだ。
季節は巡る。これから僕達は様々な困難に直面するかも知れない。だけど信じたい。ちょっとした奇跡を、僕達はこれからも巻き起こし続けるって事を。
たまご 速星千里 @masa0301
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