スマホのヒビ

 うわ……やってしまった。

 私の指をドジョウのようにするりと抜けたそれは地面に着地すると、ガキンと鈍い音を立てアスファルトを滑走した。

 最悪だ、横着せずに左手で音量を調節するべきだったな。

 そのまま数10センチ進んだところ、一時停止標識の手前で動きを止める。

 右手でそれを拾いあげた私は、1度大きく深呼吸をした後裏返っていた本体をひっくり返す。

 予想通り、画面右上には稲妻のような深い亀裂が走っていた。

 側面にあるホームボタンを押すと光が液晶を照らし出すが、入ったヒビとその周辺は黒くインクを滲ませたシミのようになっている。

 私は深呼吸を深いため息へと変化させ、舌打ちをしてみせた。

 それもそのはず。女子高生にとってスマホの液晶にヒビが入るということは、身体の骨にヒビが入ると同義なのだ。

 いや、それはさすがに言い過ぎか。

 それでも、画面の見辛さやタッチ、スワイプ機能の不具合等は毎日起きている間の4分の1ほどをスマホに充てる私には本当に辛い。

 自分の不注意で使い勝手が悪くなったからと新しいスマホを買って貰えるわけがないし、常に浪費しているお小遣いも到底修理を依頼するような金額は残っていない。

 仕方ないけれど、しばらくはこのまま過ごすしかないみたいだ。


 登校後友達に散々愚痴った事で、私のストレスは少しだけ緩和されていた。

 それでも液晶が元に戻るなんてことはないが、もしかしたら少しはマシになっているかも。なんて淡い期待を抱いて再びホームボタンを押してみる。

 が、もちろんそんな都合の良い事が起きるはずもなく。液晶右上部には相変わらずの大きな後遺症が残っていた。

 少し欠けた時刻表示が指しているのは午前10時48分。50分から始まる4時限目の国語が終わればお昼だ、美味しい物を食べて少しでも自分を元気づけよう。

 ――ん? あれ?

 今一瞬、コン、コンと2回ノックのような音が聞こえた気がする。

 気のせいかな?

 一応気になって横と後ろの席の友達に聞いてみたけれど、どちらも首を横に振る。

 やっぱり気のせいか。どこから聞こえたかも分からないし、そうだよね。


 家族にも愚痴り、私のとんでもない落ち込み方を披露してあわよくば同情を誘う作戦だったが、あいにく帰宅した私を出迎えてくれたのは母親ではなく、リビングの机に置かれた手紙と1000円札だった。

 はぁ、今日は2人共帰り遅いんだ。野口英世に愚痴っても仕方ないよね。

 私は唇を尖らせながら着替えてシャワーを浴びた後、自分の部屋で動画サイトを閲覧していた。

 あ、最近注目してた配信者が新しい動画あげてるじゃん。サムネイルも面白そうだし、これを見てみるか。

 うぅ、でもやっぱり亀裂が気になるなぁ。私は憂鬱な気分で人差し指を動かし、再生ボタンをタップした。

 ――のだけれど、動画の再生が始まらない。

 反応していないだけかと思い2度、3度と試すが、結果は同じだった。

 おそらく今、私の眉間にはそれはそれは大きな皺が寄っていることだろう。


「もう! これ絶対壊れてんじゃん!」


 そう言いながら投げ捨てたスマホは、ぼふっと布団に包まれる。

 いくら一部の機能が駄目になったとはいえ、さすがに床に叩き付けることは出来なかった。


『コン、コン』


 ――え?

 今、聞こえた。間違いない、学校で聞いたのと全く同じ音だ。

 私以外誰も居ない家で部屋の扉がノックされるわけがないし、私の部屋には他に今ベッドの上から見ている窓が1つあるだけだ。

 そこから拡がる景色はベランダに干されている洗濯物のみで、なにかがぶつかったりした様子もない。


『コン、コン、コン』


 さっきより回数が多くなった。

 そして、今度は意識していたので音がした場所も分かった。

 ……スマホから聞こえてる。

 不具合で遅れただけで、さっきの動画が再生されているのだろうか?

 いや、仮にそうだとしてもこんな音だけ流れるなんておかしい。落とした時にスピーカーもおかしくなってしまっていた、とか。

 おそるおそるスマホを手に取り、朝と同様ひっくり返す。

 するとそこには、目を疑う光景が拡がっていた。

 3分の2がホーム画面で時刻を表示しているが、亀裂が入っていた箇所からその右半分だけ映している映像が違う。


 眼だ。


 生臭い光沢を放つ不気味な黄色い結膜部に、縦長の黒い瞳孔。

 蜥蜴や蛇というより、昔映画で見た獰猛な肉食恐竜を想起させる。

 次いで歯茎まで裂け、笑っているようにも見える異様な口元。備えている歯の数はまるで魚類のように多く鋭い。

 転換なくカメラ撮影のように続けてそれらが映ったということは、各々でも恐ろし過ぎるその2つの特徴を併せ持つなにかの映像だということを意味している。


「きゃあああああ!」


 あまりにも恐ろしい映像。

 一気に恐怖が湧き出し、それが叫び声に変わってしまう。


『コン、コン。ガン! ガン! ガン!』


 ノックだと思っていた音はどんどん大きくなり、それに併せて怪物が映る割合もどんどん大きくなっていく。

 腰を抜かした私はベッドから転げ落ち、周囲を見渡す。

 その間にも音は一向に止まないどころか、どんどん激しさを増している。

 そうだ、警察に電話!

 ――は、出来ない!

 スマホがこうなっているのにどうやって110番するの?

 どうしよう、どうしたらいい!?

 腰が抜けていて逃げることも出来ないし、スマホを外へ持ち出す事も出来ない。壊そうとしてヒビの部分を大きくしてしまったらと考えると、それも出来ない。

 部屋の隅に転がる梱包用のガムテ―プを見つけ、這いずりながらなんとかそれを掴む。

 怖くてもう映像を見られないので、後ろ向きにしたスマホをそれでぐるぐる巻きにした。


『ガン! ガン! ドン! ドン! ドン!』


 駄目だ、嫌だ! 音が止まない!

 誰か、誰か助けて!

 どうしたらいいの!?

 このままじゃきっと、向こう側からあいつが出てくる!

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