第3話

「七夕さんはどういう所が好きです? 私、おっきめの公園とか好きなんですよ」

「そうね……美術館とか、映画館とか」

「わぁ! 外観が素敵な所いっぱいありますけど、中はあんまり入ったことないんですよね。カメラマンたるもの、学ぶべきこともあるはず! おすすめの所ってどこかあります?」

「……一緒に行く?」

「えっいいんですか! 是非!」


「おっきかった……」

「壁一面だったものね」

「おかげでよく見えました。ドレスの生地感って言ったらいいのかな、触ったらすごくすべすべしてそうな感じで……やっぱりあの方、あの後に……」

「落とされたんでしょうね」

「ひどい話です、まだ若いのに」

「貴女も十分若いわ」

「七夕さんだって若いですよ!」

「……人によっては不快になるわよ、それ」

「すみません……」

「私は別よ」

「七夕さん!」


「これ、桜なんですよ」

「やっぱり全部、葉になっているわね」

「春になればまた咲きます。またいっぱい撮るからねー! 楽しみに待っててー!」

「春以外は撮らないの?」

「撮りますよもちろん。あっ……」

「……行ったわね」

「私の声に驚いたのかな」

「いい目覚ましになったのでしょう、もうお昼よ」

「鳥の社会にもあるんですね、遅刻とか」

「動物だからね」

「世知辛い」


「七夕さん」

「七夕さん!」

「──佳乃子、さん」


「……ぃ」

 思わず声をもらしかけ、口を結び、スマホの画面を胸元に押し付ける。

 ここは職場の休憩室、誰も彼女のことを知らない。それなのにその名を口にすれば、訊かれてしまうかもしれない。

 ──その人は誰ですか? とか。

「恋人?」

「……」

 こんな風に。

 窓辺のカウンター席、両隣は空いていた。問い掛けてきた人物は、まるで待ち合わせていたかのように普通に隣へ腰掛けた。

「こうして話すの、久し振りだよね」

「そうね。貴方もお昼?」

「忙しくてね」

 卓上に出された弁当箱は、奥さんが作ってくれたものか。いや、そんな余裕があるのか。重くなっていくお腹を抱えての家事は大変だとよく聞く。

「気になってたんだ、あの後どうしているのかって」

「毎日出勤しているでしょ」

「確かにそうだ」

 蓋を開けたその中身は、鶏そぼろ弁当、だと思う。茶色い。それをほうじ茶と一緒に頂いていた。いつだったか、そぼろ丼が好きだと聞いたことがある。

 作ったのか、作ってもらったのか、私が気にすることではないけれど。

「話はそれだけ? あまり既婚者の男と長く一緒にいたくないのよ、おかしな誤解でもされたら面倒だし」

 ハムキャベツのサンドイッチは既に美味しく頂いた。仕事が私を待っている。だから腰が重かったのだけど、軽くしてくれたのだから、彼には感謝しないと。

「……本当に、ごめん」

「……」

 しゅんと項垂れた姿はいつも、雨に濡れた仔犬みたいで可愛らしかった。

 仔犬は時に狼に変貌し、それがおかしかったものだけど……。

 今は何とも思わない、不思議。

「新しい恋人ができたみたいで、その、安心した。こんなこと、言うべきじゃないんだろうけど」

「……」

 恋人はいない。

 マッチングアプリを始めて、身体目的の男も中にはいたけれど、会ってもいいと思える誠実そうな人もいて、実際に会ってみた。

 一回だけ。

 どれもこれも、一回だけ。

 二回目も会おうという人は、まだいない。

「すごくさ……良い顔してたよ。すごく幸せそうっていうか」

「……あの、やめて」

 他に人がいないわけじゃない。聞き耳だって立てられているかも。どうしてそういうことに頭が回らないのか。

「……なら、これだけ」

 いつでも立ち去れるように、椅子から腰を上げる。

「大切にしてくれる人に会えて、良かったね」

「……貴方のおかげよ」

 あぁ、また。

 この口は、また違う言葉を吐き出す。

 どうして、そんなことを……。


『佳乃子さん!』


「……さよなら」

 彼とのことがあったから、マッチングアプリを始めようとして、彼女と出会った。

 男達とは一回しか会わないのに、彼女とは──甘梨とは、何回も会っている。

 会いたいから、会っている。


『佳乃子さん、素敵です!』

『佳乃子さん、これ美味しいです!』

『佳乃子さん!』


 スマホの画面は、彼女とのやりとりが表示されている。

 今度の休みにどこに行くか。そんな話をしていて、彼女の休憩が先に終わったことでやりとりも終わる。

 可愛らしい、白鳥のスタンプ。

 可愛らしい──愛らしい、金山甘梨。

 誰にも見せたくない、知らせたくない、私の傍で、私だけに語り掛けて、笑ってほしい。

「……甘梨」


 欲に濡れたこんな声を、出せると私は知らなかった。

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