妄想

あべせい

妄想

 


 きょうは一日、何して過ごすか。

 洗濯は一昨日した。掃除は昨日した。おれはなまけものというのじゃない。掃除も洗濯も一週間に一度で、十分だからだ。だれか、訪ねて来るのなら、もっと時間をかけて念入りにやってもいいが、ここに来るのは新聞の勧誘とリフォームのセールスだけだ。

 電話は、そのちっぽけな茶箪笥の上にあるが、かかって来ない。かけることはないから、なんであんなものを買ったのか。余計な金はないのにだ。いまはスマホや携帯とか、もっと小さいのがあるっていうじゃないか……売っちまうか、そうだ、それがいいッ!

 そう思った瞬間、電話のベルが鳴った。

 受話器を取り上げたものの、相手の若い女性の心地よい「もしもし」を聞きながら、何も言わずに黙っていると、

「もしもし、お邪魔しております」

 もう少し黙っていると、

「ねェ、この番号で合っているの」

「うるさいッ、おれは忙しいンだ。自分で調べろよ!」

 なんだか、電話の向うでいいあっている。

 で、ようやく、口を開いて、

「もしもし、なんですか? もめごとですか?」

「エッ、待って……はい、もしもし、失礼しました」

「ぼくは忙しいンです。ご用件をおっしゃってください」

 『ぼく』なんて言うのは、何十年ぶりだ。

「先日、お近くで火事がございませんでしたか?」

 火事はあったが、あれで近いというのか? 歩いて見に行ったが、20分はかかったな。この女、おれが「なかった」と言ったら、「それはよろしゅうございました」とでも返すつもりなのか。

「ありましたが、それが?……」

「やはり、ございましたか。そちらは、成増7丁目でございますね?」

「赤塚ですが……」

「エッ、赤塚……この活字、小さくてつぶれているンだわ。読めやしない……これは失礼いたしました……」

 電話を切ろうとするので、せっかくの話し相手に逃げられて、どうする。

 慌てて、

「もしもし、赤塚ですが、火事は成増ですから、近くの火事とは言えないですね」

「では、お近くで火事はなかったということでしょうか?」

「そういうことになります」

「それは、よろしゅうございました」

「ご用件は何でしょうか。ぼくは、これでも忙しいンですから」

「失礼しました。では、本題に移らせていただきます。わたくし、本日、防災グッズのご紹介をさせていただいております『南東京商事』の麻多葉子(あさだようこ)といいます」

「セールスですか?」

 セールスでも、いいか。

「いいえ、セールスではございません。ご紹介とご案内です」

 やっぱり、セールスじゃないか。

「手短にやってください。さきほどもいいましたように、ぼくは忙しいンですから」

「はい、では。ご主人さまはこれまで、防災グッズをお買い求めになられたことはございますか?」

「防災グッズって、どんなモノですか?」

「火事に備える消火器をはじめ、地震に備える防災ズキン、家具転倒防止金具、多機能ライト、ヘルメット、簡易トイレ、ローソク、乾電池……」

 いい加減にして欲しい。

「まだ、続きますか?」

「まだまだございますが、こういった商品をご紹介するわけではございません」

 さんざん並べておいて、そうじゃない、って、新手のセールスか。

「どういうことでしょうか」

「防災グッズを開発、製造しているメーカーは、あの3・11以降、たいへん注目されておりまして、今後も急成長が期待されております……」

「もしもし、葉子さん」

「エッ、なッ、なんでしょうか?」

 いきなり名前で呼ぶのが、おれのやり方。

「その会社に投資しろ、ってお話ですか?」

「はッ、はイッ。よくご存知でいらっしゃいますね」

 かなり、動揺している。

「投資の電話はよくいただくンです。でもね……」

 電話でのセールスは、これが初めてだ。この電話を買って、まだ、1ヵ月にしかならないから、そんなものか。

「ご主人さま。投資のお勧めは、おっしゃる通り珍しくないでしょう。しかし、私がお話しています投資は、投資というより、正しくは貯蓄なンです」

「貯蓄というと、お金をふやす?」

「そうです。ご主人さま……」

 いい加減、名前を聞いてくれないかな?

「葉子さん」

「はッ、ハイ」

「その前に、どうして拙宅にお電話をくださったのか。そのあたりの事情をうかがえませんでしょうか」

「まことに失礼ですが、ことはお金儲けのお話です。滅多な方にはお話できません。毎年、税金をたくさん納めておられる方の中から、貯蓄に熱心な方を厳選いたしまして、お掛けしている次第でございます」

「高額納税者リスト、ってやつでしょうか?」

「そッ、そうです」

「では、私の名前はご存知でしょうね?」

「はッ、はい。大鐘(おおかね)さまです」

「まァ、いいでしょう。しかし、高額納税者リストはずいぶん以前に廃止されたうえ、電話番号は元々記載されていないでしょう?」

「はア……」

 やっこさん、考えているな。本当のことは言いたくないのだろう。

「拙宅では、電話帳に番号は載せていないンですが……」

 載せたくても、1ヵ月じゃ無理だろう。

「それはですね……」

 若い子をいじめるのは、おれの趣味じゃない。

「町内会の名簿でしょう? 最近、町内会名簿を無断で売っぱらうヤカラがいますから」

「はッ、はい。その名簿が……」

 電話を買う少し前、新しく町内会の役員になったという若いきれいな奥さんが、「町内会名簿を作成しますので、ご協力をお願いします」と言ってやってきた。住所と氏名、別に電話番号は書かなくてもいいンだが、その奥さんの艶っぽい顔を見ているうちに、亭主に内緒で電話をくれるかも知れないじゃないかと思ったから、買っただけで、まだ使えもしない電話番号を書いてしまった。あれから、あの奥さんとは……。

「もしもしッ……」

 いけないッ。また、妄想にふけるところだった。

「はいィ?」

「その大鐘さまのご町内の名簿が偶然、私どものの手元に届きまして、高額納税者リストと照らし合わせました。住所は少し違っていたのですが、誤植だろうと判断してお掛けした次第です……」

「そうですか。そうご説明いただくと、納得できます。それで、投資というのは、どんな?……」

「ですから、さきほどもお話しました防災グッズを開発・製造しているメーカーの株式を購入していただこうというお話です」

「いわゆる未公開株のお勧めでしょうか」

「さすがに、大鐘さまはご理解がお早いです。その通り、当社で確保しております未公開株の一部を、厳選したお客さまにお分けしようというお話なンです」

「儲かる?」

「儲かります」

「絶対?」

「間違いありません」

「葉子さん、絶対儲かるのなら、あなたが買えばいいじゃないですか。ぼくのような見ず知らずの他人に勧めるより……」

「大鐘さま。いいですか。(急に声が小さくなり)ここだけのお話です。いまは会社ですので、これ以上のことはお話できません。しかし、わたくしは会社の利益に反してでも、大鐘さまに儲けていただきたい。いいえ、儲けさせます!」

「じゃ、これから拙宅に来られませんか」

「お伺いしていいンでしょうか?」

「もちろん。忙しくはしていますが、葉子さんのお望みなら……」

「では、これからお伺いして、詳しいお話をさせてください。大鐘さまの将来に関わる重大なお話になることは間違いございません」

 電話は切れた。

 町内会名簿を頼りに来るのだろうが、それらしきところには、1階部分は玄関と車庫しかない、ちっぽけな2階家だけ。こんなはずがない。そう思って、こんどは高額納税者リストのほうの住所に行ってみる。すると、そこは、ここから1キロほど離れたところだが、いまは更地になっている。で、仕方なく、この辺りをうろうろ……。


 おれは、町内会名簿を持って、町内会の役員をしている若い奥さんの家を訪れた。

 奥さんは、名簿によると、白金沙夜梨(しろかねさより)となっている。

 沙夜梨さんは真っ白な割烹着を着て玄関に現れた。

「先日は失礼いたしました」

 と言って、会釈をする。

 おれは財布を取り出し、3千円を差し出す。

「町内会費をお持ちいたしました」

「これは、わざわざ。来週にでも、みなさまのお宅を順番におうかがいするつもりでおりましたのですが……」

 沙夜梨さんは帳面に領収印を付き、受け渡しが終わる。

 おれは町内会の名簿を取り出し、

「先日、郵便受けに入っていたのですが……」

「これは失礼いたしました。ご不在のようでしたので、黙って投函させていただきました」

 ウソだ。その日、おれは1日、家にいた。

 郵便受けに物の落ちる音がしたので、2階の窓から覗くと、沙夜梨さんが買い物袋を下げて隣家に行くところだった。買い物袋には配達しなければならない町内会名簿が入っていたのだろう。戸別訪問なンかしていたらたいへんだ。黙って郵便受けに入れるのが当たり前。とは思うが、おれと奥さんの関係は特別なのだと思いたいじゃないか。

「それはいいンです」

 よくない。「先日、お聞きして作成しました町内会名簿を持参いたしました」くらいのことを言って、直に手渡しして欲しかった……。

「なにか?」

 沙夜梨さんのご主人は会社員らしいが、毎朝歩いて、おれの家の前を通る。

 お金は持っているようだ。家だって、この近くでは、いちばん大きくて、建材にもお金がかかっている。年齢は見た目では50代前半、沙夜梨さんは30代半ば。ご主人は部長か重役でもしているのかも知れないが、顔色が悪く、元気がない。あれでは、若い女房はかわいそうだ。

 おれは、42才の、いまだ結婚歴のない独身。いろいろそれなりにチャンスはあったが、みんな逃してしまった。いまの家は、3年前、中古の建て売りを20年ローンを組んでやっと買い、外も中もリフォームして、それまでのアパートから引っ越した。

 結婚相手を見つけるには、まず巣作りだと思ったからだ。しかし、沙夜梨さんのような家を見ると、おれのやっていることがむなしくなる。沙夜梨さんのような女性ともっと以前に出会っていたら……。

「あのォ、大鐘さん……」

「ハッ……」

 また、やってしまった。妄想癖もここまでくると、病気といわれても仕方ない。

「いえ、実は、いただいた名簿をよく見たのですが、名前が違っていましたので……」

「エッ!」

 沙夜梨さんの顔色が変わった。

 頬にサッーと赤みが挿し、形のいい唇にマッチの軸ほどの穴が開いた。

「すいません。拝見します」

 畳一枚分ほどの玄関の沓脱ぎにおれは立ち、沙夜梨さんは上がり框から応対していたが、おれが差し出した名簿を引っ手繰るようにして手に取った。

 前かがみになったせいか、襟元から、美しい胸の谷間が……おれはいけないものを見ようとしている。ごめんなさい。

「あのォ、お名前でしょうか。ご住所でしょうか?」

 おれはようやく、視線を沙夜梨さんの顔に戻す。

「名前です。私は大鐘喜蔵(きぞう)、喜ぶ蔵と書きますが、そこには(と言って、名簿の名前を指差し)喜ぶの下の部分が、『口』ではなくて『加える』になっています。それだと喜蔵ではなくて、嘉蔵(かぞう)と読まなければなりません」

 嘉蔵はおれの兄だ。親の遺産を独り占めして、去年、温泉町の橋の上から落ちて、オッちんだ。

「申し訳ございません。費用その他の関係で、名簿を作り直すことはできませんが、すぐに訂正書きを作り、ご町内に配布いたしますので、お許しください」

 沙夜梨さんは、深々と頭を下げる。

「いいえ、みなさんに訂正して欲しくておうかがいしたわけではありません。奥さんが、ぼくの正しい名前を知っておいてくだされば、それでいいンです」

 名簿の「嘉蔵」は、沙夜梨さんに記入を求められたとき、おれがわざと書いた。こういうきっかけを作って置きたかったからだ。それに、こどものときから、おれたちの兄弟はさんざん間違われて育って来た。だから、罪悪感はなくなっている。

 あの投資の葉子も、高額納税者リストと町内会名簿を見比べたとき、住所は違っているが、名前が同じだから、同一人物だと思ったのだ。

「エッ……」

 沙夜梨さんはぼくの顔をまじまじと見る。夫は一回り以上も年上だ。沙夜梨さんには、同世代の話し相手がいなければいけない。

「失礼ですが、大鐘さん、お仕事は?」

 平日の昼間、こうして出歩いているのだ。おれの本当のことを言ったら、腰を抜かす。

「タクシーに乗っています」

 満更、ウソではない。

「タクシーですか。じゃ、こんど、お願いすることがあるかもしれません」

 沙夜梨さんが魅惑的な笑顔を向ける。おれは、つきあいがある運転手仲間の顔を頭に思い浮かべる。

「お電話、いただければ、いつでもお迎えにあがります。奥さん」

 おれは内心、有頂天になった。

 これでベースはできた。

 白金家を出て自宅に戻ろうとすると、後ろから女性の声で、

「すいません。白金さんでいらっしゃいますか?」

「エッ」

 振り向くと、20代半ばのスーツを着たかわいい女性だ。

「はァ……」

 おれは言葉を濁した。否定なら、いつでも出来る。

「あなたは?」

「実は、このお近くにお住まいの大鐘さんをお訪ねするのですが、どちらのお宅がそうなのか、わからなくて。カネつながりで、白金さんならご存知かと思いまして……」

 そうか。投資のネエちゃんだ。あれから2時間になる。すっかり忘れていた。もう来ないだろうと決めてかかっていた。しかし、このあたりは9丁目だが、役人がバカなのか、この辺りはエダ番の振り方が飛び飛びのため、初めて来た配達員が苦労することで知られている所だ。

 それに、おれは自分の都合で、表札を出していない。だから、初めて来た人間には、おれの家は絶対に見つかりっこない。

「大鐘さんなら、こちらです。どうぞ。ご案内します」

「ホントですか。ありがとうございます」

 投資の葉子は、おれのことばを信用してついてくる。

 8分ほど歩き、同じような安普請の建て売りが8軒並んでいるいちばん端っこの家の前で立ち止まる。

 おれは、その玄関を指差し、

「こちらがそうです」

「ありがとうございます」

 葉子はドアの脇についているチャイムのボタンを押そうとする。

 その家は70過ぎの年寄りが独りで暮らしをしている。おれの家はその隣。いくら、若い女といっても、本当のことを言う必要があるだろうか。

「大鐘さんは、ご不在ですよ。さきほど、お出かけになったようですから」

 この家の年寄りは足腰が弱っているから、滅多に応対に出て来ない。食事は配達の弁当を食べている。

「私、お訪ねしますと約束したのです。急なご用事でしょうか?」

「さァ、あいつは気まぐれだから……」

「失礼ですが、大鐘さんとは、お親しいのでしょうか?」

「弟です」

「エッ、弟さん! 大鐘嘉蔵さんの弟さんですか」

「はい。弟の喜蔵です」

「でも、ご苗字が……」

「さきほどの家の白金は、妹の嫁ぎ先です」

「妹さんでしたか」

 そいつも大ウソだ。しかし、この際、仕方ない。

 葉子は、粗末な家のようすを見て、無駄足を悟ったようすだ。

「兄にどんなご用件ですか。必要なら、伝えておきますが……」

 葉子は、おれをしっかり見据えた。ターゲットを見る目だ。


 沙夜梨さんのご主人が入院した。心筋梗塞だ。

 長くはない。奥さんは毎日、自宅と病院をタクシーで往復している。

 そのタクシーは、おれが仕事に使っている個人タクシーだ。おれは土日を除く毎日、午後2時きっかりに、白金邸にタクシーを横付けし、そこから病院に直行する。

 これで5日間、無遅刻無欠勤が続いている。おれにしては珍しい。個人タクシーは勝手がきく。おれはこれまでは少し金が入れば、その金がなくなるまで遊んでいた。それが、いま変わりつつある。

 それは、大きな狙いがあるためだ。真面目になったわけではない。自分では、そう言い聞かせている。

 奥さんは後妻で、ご主人との間にこどもはいない。夫がいなくなれば、屋敷を売り払ってマンションに越すと言っている。覚悟はしているようだ。彼女の計画のなかに、おれは登場しない。当然だろう。それが世間にいるふつうの人妻の考えだ。

 おれなンか、便利に使えるただのタクシー運転手に過ぎない。ご町内だからということで、料金を安くしてもらっているから、おれを使っているに過ぎない。

 昨日あたりから、そう思い始めた。おれは、なぜか気弱になっている。良心が芽生えたのか。そんなことはありえない。兄の嘉蔵に、遺産を独り占めされてから、おれは正直に暮らすことがいやになった。

 ところが、きょう、沙夜梨さんは、夫が入院している病院の玄関でおれのタクシーから降りる際、こんなことを言った。

「喜蔵さん。昨日、おかしな人が来られたンです。病院からの帰り、いつものように自宅まで送っていただいて、家に入りコーヒーをいただいていると、玄関のチャイムが鳴って、女性の声で、『喜蔵さんはおいでになりますか?』って。喜蔵さんて、あなたのことでしょう?」

 おれが、仕方なく「そうです」と答えると、沙夜梨さんは、バックミラーに映るおれの顔を見ながら、

「それでドアを開けて、中でお話しました。若くてきれいな、スーツを着ていらっしたわ。すると、その方、『喜蔵さんにお金をお貸ししたのですが……』って、おっしゃるの。本当なの?」

 おれは用意していた答えを言った。

「それは逆です。彼女、ぼくに投資の勧誘に来た外務員ですが、ぼくが断ると、彼女、急に『仕事がうまくいかなくて……』って、愚痴になって。ぼくは仕方なく、持ち合わせのお金を貸したンです」

「そう? だったら、ヘンよね。お返しに来られたのかしら……」

「そうかも知れないけれど、彼女、少し、おかしかったですから……」

 半分くらいは本当だ。おれは近くのファミレスに入って、葉子と話をすることにしたが、嘉蔵の代わりだといって、葉子はおれにも投資を勧めた。

 おれは即座に断った。「個人タクシーで地道に働くほうが性に合っている」と言った。葉子とはそれだけだ。金の貸し借りは一切していない。ファミレスの支払いも割り勘にしたくらいだ。

 いつものように病院の玄関前で待っていると、沙夜梨さんが現れた。表情が冴えない。送って来た時とは、正反対だ。この病院は、車寄せがないから、外の道路に停めるしかない。

 おれはいつもの通りハザードを点けて待機している。電話をもらってから、22分。いつも通りだが、沙夜梨さんに元気がない。ひょっとして……。

 おれは外に出て、後部ドアを開ける。

「お帰りなさい」

「いつもありがとうございます」

 沙夜梨さんが乗り込み、おれはすぐに車を出した。

 黙っている。いつもは、空模様とか、街の様子を話題に、何かしら会話が弾むのだが。彼女の家までは10分ほどしかない。

「ご主人のお加減はいかがでした?」

「それが……」

 おれは期待した。あと数日……。今夜が峠……。

「明日、退院が決まりました」

「エッ!?」

 こんなとき、絶句はないだろう。しかし、おれには、考えられないことだ。

「誤診だったンです。精密検査をしてわかったって……」

「沙夜梨さん。それはよかったじゃないですか」

 心にもないことを言う。

「予定をすっかり変えなくてはいけないわ。財産の処分や、身の振り方を決めていたのに……」

 おれだって、計画がめちゃくちゃだ。

「そうだったンですか」

 沙夜梨さんといい仲になって、ラクして暮らす。計画が白紙になった。おれのほうが被害は甚大だ。

「ですから、もう、タクシーの送迎はきょうを最後にしてください。主人が知ったら、いい思いをしないでしょうから……」

「もう、終わりなンですか。沙夜梨さんとはこれっきりですか?」

「ヘンなことをおっしゃらないでください。ご近所のタクシーを利用させていただいただけでしょう?」

「しかし、その分、料金は格安にしてあります。それに、まだ実際には、1円もいただいていません。後払いということで、ノートに付けてあるだけです」

「大鐘さん!」

「はッ?」

 おれは何かを感じて、車を脇に寄せて停めた。

 おれの家まで、数十メートル、沙夜梨さんの家までは、さらに数十メートルの距離だ。

「料金はお支払いしないほうがいいと思いますが……」

 おれは振り返って、沙夜梨さんを見た。

 正規のタクシー料金にしても、合計で2万円はいかないだろう。何を言っているのか。彼女は魅力的な唇を突き出し加減にして、

「このタクシー、偽装でしょう。営業していることがバレたら、道路運送法で捕まってしまうンでしょ?」

「エッ……」

「タクシーメーターや屋根の上についているアンドンは本物を買って付けてあるのかも知れないけれど、本物のタクシーなら後部ドアは自動開閉になっています。緑色のナンバープレートもおかしい……」

「よくご存知ですね」

 だれかに聞いたのだろうが。ナンバープレートはそれらしく自分で細工した。

 おれは、観念した。幸い、金のやりとりはない。

 親切で、ご近所の奥さんを送迎していたことで申し開きは立つ。

「昨日、いらした女性が、偽装タクシーのことをしつこく聞いておられました。わたしが大鐘さんに送っていただいている様子をご覧になったようなンです。あの方、陸運局にお知り合いがいるらしくて、通報しなくてはと……」

 バックミラーに覆面パトカーが映っている。

 おれの車を尾行していたらしい。そのパトカーの運転席のドアが開いて、スーツ姿のがっしりした男が降りてくる。

 おれは、いつかこの日が来ることを覚悟していた。

 答えも用意していた。しかし、その答えがいま思い出せない。

 妄想ばかりが沸いてくる。面会室に沙夜梨さんが毎日やってきて、おれを慰めてくれる。

「すぐに出られるわ。主人、やっぱりいけないの。そうなったら、ねェ。わかるでしょう……」

                (了)

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妄想 あべせい @abesei

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