致死量のお砂糖に包まれたのなら

文月瑞姫

第1話 Rumiの不便な世界

 ピンク基調の寝室を出ると、船着き場のようなエリアに一艘のボートが設置されている。ユウは、そのボートに座っていた。


 青緑の短髪から猫の耳が生えている、ボーイッシュなアバター。可愛い顔をしているのに、何があってもスカートを履かせない拘りがある。ユウはそういう奴だ。


 そんなユウから昨日、個人チャットが飛んできた。見せたいワールドがあると言うから来たのだが、どうにもただの睡眠ワールド。私もボートに乗ってみるが、ギミックがあるわけでもなく、海だか湖だか、ワールドを囲む無機質な水を見つめることしかできなかった。


「やっと来た。Rumi、おはよう」


 私はユウが嫌いだ。


 ユウとはもう固定メンバーの一人として関わっているだけで、あのメンバーが解散でもしたらユウと関わることはないだろう。別の連絡先も残ってないし、交換するのもごめんだ。


 悪口を言おうと思えばいくらでも出てくる。他人のプライベートを平然と尋ねる無神経さも、面白くもない自分語りで私達の会話を遮る空気の読めなさも気持ちが悪い。そのくせJPTでビギナーを見ると真っ先に案内する善人っぽさも相まって、気持ちが悪い。


 何より気持ちが悪いのは、ユウが「良い奴」だと知ってしまっているから、どんな不愉快な出来事があっても真に嫌うような真似もできないことだ。いっそ完全な悪人であれば、私だって、ユウの全てを諦めることができたはずだ。


 この、私の元『お砂糖』であるユウのことを。


「で、何の用?」

「特別に用があるわけじゃないよ。ただ、Rumiに話したいことがあって」


「はぁ? 何それ。帰る。私エアクラちゃんのホラワ巡り切ってここ来てるんだけど?」


 大事な用事だって言われたからって、何かを期待していたわけではない。絶対に違う。ユウに何かを期待して、ちゃんと返ってきたことなんて一回もない。そもそも、私に相談してくれたことさえ一回もない。お砂糖報告も勝手にツイートされて、ユウに片想いしていたフレンドからブロックされた。


 ソーシャルを開いて皆にjoinしようとしたら見当たらなかった。よく見ると、ホラワ巡りの参加メンバーっぽい人は皆オレンジステータスになっている。ああ、そう。マイクに乗らない溜め息を吐いた。仕方なく適当なフレンドのところにjoinしようとした時、ユウの一言で手が止まった。


「そのエアクラさんとのことなんだけどさ。昨日別れたんだ」

「え?」


 何を言われたのか、まるで分からなかった。


「別れたって何? ユウ、お砂糖してたの?」


 動揺が声に出ていたと思う。ユウはそんな私の方を向いて、首を横に振った。


「聞いてなかったのか。俺たち、リアルで付き合ってたんだよ。半年くらい」

「は…………」


 信じられなかった。信じたくなかった。身投げをする気持ちでボートから飛び降りた。仮想の水は一切の抵抗がない。上を見るとボートの底が段々と小さく遠くなっていく。こんな風に、私の感情も消えてくれたら良いのにな、なんて思った。


 そんな気持ちも知らず、ワールドの終端が私をリスポーン地点に戻してくる。ユウはしゃがんだままの姿勢で歩いてくると、「トラッキングずれた?」と笑っている。


「いや、その。聞き間違いかなって思って。なんとなく落ちた」


 飛び降りていた時間で、少しだけ落ち着いたと思う。声も震えていないだろうし、自然な返事ができていると思う。そんな私の心境を知りもせず、ユウは笑っている。


「なんだそれ。相変わらずだな」


 相変わらずなのはユウの方だ。私の気なんて知らないし、知ろうともしない。今も土足で踏み荒らして、平然と笑って、ぐちゃぐちゃになった私の頭の中にずっとその顔を映してくる。


「それで、何。エアクラちゃんと何があったの」

「別に何かあったわけじゃないと思うけど、最近あんまり連絡取ってくれなくて。こっちで会うのも気まずそうにしてるし、仕方ないから別れることにしたんだよ」

「そう。エアクラちゃん良い子なのに、何したんだか」

「知らねえよ。俺のこと悪人みたいに言わないでくれ」

「ほとんど悪人じゃん。女心弄んでさ」

「…………」


 皮肉っぽく指を差した。ユウはアバターの頬を膨らませて、不服そうな顔をする。どうせ本当はそんな顔、してないくせに。


「なんで私なの」

「は?」

「なんで私にそんな話をしたのって聞いてるの」


 期待なんてしていない、期待なんてしない。エアクラちゃんと付き合って今さら私の良さに気づいたって言ってほしいなんて思ってない。失恋のショックを埋めたくて私と付き合いたいって言ってほしいなんて思ってない。もうエアクラちゃんと顔合わせられないから二人で別のグループに行こうって、言ってほしくなんか、ない。


「だってRumi、エアクラさんと仲良いだろ? 何か知ってたらって思ったけど……知らないよな。付き合ってることも知らないなんて思ってなかったし」


 知っていたらどうしたの? って、いっそ聞いてしまおうかと思った。できなかった。そもそも、そんな自傷めいたことは言えないけど、それ以上に、そんな寂しそうな声を上げるユウなんて知らなかったから。私の知らないユウを、エアクラちゃんは幾らでも知ってるんだと思うと、何も言えなくなってしまった。


「……そう。じゃあ、私帰るね」

「そっか」


 ワールドを離れる時、ユウは挨拶さえしなかった。

 もう会うことはないだろう。私は一生、この「好き」を抱えたままになるだろう。伝えておけば良かったって、何度も思い返すことだろう。それでも、これ以上惨めな思いをするのは嫌だった。


 HMDを外したら、一人暮らしの無機質な部屋に帰ってきた。ピンクのクッションもないし、船着き場もない。ボートの上で過ごした時間は、全て空虚な思い出に過ぎない。

 私の現実には何もない。淡々としたつまらない仕事の後に、虚空に存在する友人の頭に手を伸ばすだけの人生だ。最高に不便な現実だ。


 コントローラーを押さなくても涙が流れてしまう、ここは本当に、不便な世界だ。

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