第8話
チャイムが鳴った。
スクールバックから弁当を取り出して机に置いて。
開ける気にはなれずにいた。喉を通る気がしないから。
見ないふりしてきた昼休みの喧騒が私の耳へと流れ込んでくる。
知らない誰かの笑い声が、共感する声が、私の耳にも届いている。
情報量が私に酔いをもたらしている。
耳を塞いでしまいたい。
それだけで喧騒が無いことになるのだから。
ずっとそれで私を守ってきたのだから。
朝の私は迂闊だった。
没収した張本人の前でヘッドホンをつけて歩くなんて、
今思えば愚かなこと。昨日から私はどうかしている。
思わせぶりに帰ってきたヘッドホンのせいだ。
あの少年のことを思い出す。
彼のせいで今苦しんでいる。
一時の苦痛だけでやり過ごせたはずなのに、
今も私は苦しみ続けていた。
でも、嫌悪感はなくて。
むしろそれは。
「ねえ、中村さん」
私の心臓はぴたりと止まった。
その声は間違いなく私に向いていたから。
遮るものを私は持っていなかったから。
「お昼ご飯、一緒に食べない?」
一つ前の席の女の子。
ちょっとの緊張と、丁重さが混ざった声だった。
そのことが私なんかでもよくわかった。
少年の方、橋本啓太の背中がある方を見る。
彼はクラスメートと輪になって弁当を開く。
彼は世界の中にいた。
私も頷く。
「やった」
彼女は小声でそう囁き自分の机をこちらに回す。
それは私を見るための方向だった。
足の置き方が、指の姿勢が覚束ない。
どこを見れば良いのかわからなかった。
「私ね、中村さんと話してみたかったんだ」
私は弱く笑う。
そうすることしかできない私にも彼女は丁重だった。
私は世界の中に踏み込まなきゃいけない。
目の前の少女だって、橋本啓太だって、世界の中にいる。
彼らは世界が少しは優しいことを私にわからせる。
「私も話せて嬉しい」
挙動不審な私の声。それでも彼女は嬉しそうに笑った。
こういうことを人は成長と呼ぶ。
それなら、踏まなきゃいけないのだと思った。
動悸があることは確かだけどそれでも。
「よかったぁ。話しかけるの緊張したんだよ」
彼女の言葉が一つ軽くなる。
「そうなの?」
「うん、すごくした」
冷凍のカニクリームコロッケを一口で頬張る。
とろりと舌の上で溶けて広がった。
その間、目の前の少女が口下手であることを語る。
友達を作るのが苦手だと私にそっと打ち明ける。
私だって得意じゃないって彼女に伝えると、
「一緒だね」ってヒソヒソ声で笑っていた。
「中村さんが良い人でよかった」
同じ世界に私も行かなきゃいけない。
そんな気がした。みんな一つ段階を踏んでいる。
一緒なんだねって言おうとした。
「あやか、何してるの?」
快活そうな女子が彼女に話しかける。
両方の肩に手を置かれてどちらも親密そうな顔をした。
「中村さんと話してたの」
「お、ヘッドホンの子じゃん。よろしくね」
その人は手際良く私にひらりと手を振った。
私が声を出せない間にまた口を開いて続けた。
「あやか、今日の部活室内練だって」
「ほんと?ラッキーじゃん」
「え、多分筋トレだよ?」
「私以外と嫌いじゃないんだ」
口下手なはずの少女も手際良く会話を繋げていた。
その人は風みたいに去っていく。
私はちょっとぐちゃぐちゃになる。
「あの子、入学式の日に仲良くなったんだ。
すごく良い人だから、中村さんもきっと仲良くなれるよ」
「そうなんだ」
あやかという少女は人懐っこい笑みを浮かべて言った。
私にはできない顔の形を上手に作っていた。
この人は世界でちゃんと生きられている人だ。
「中村さん、いつも音楽聴いているよね。
どんな曲聴いているの?」
ほら、私とこの人は違う。
口下手でも、気にしいなのだとしても。
打算と称えるべき思い切りで動けるような人なのだ。
そういう、品がある人間なのだ。私とは違う。
喧騒が私の中に流れこんでいることに気づく。
ここは深海みたいだった。目の前の少女の言葉をうまく聞き取れない。
私の目がどこを見ているのかもわからない。溺れている。
逃げ場がなかった。
この空気だまりは私が居ていい場所じゃない。
怖かった。
立ち上がる。椅子が床と嫌な音をたてた。
その音はこの教室で少し異質だった。いくつか私の方に針が向く。
それがどうにも痛かった。
「ごめんなさい」
どうせ誰にも聞こえない声でそう囁く。
水面を探さなきゃいけない。
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