第5話

 鼻で呼吸はしなかった。

 液体だけが口から込み上げてくる。

私はそれをなるたけ抵抗なく吐き出した。

さっきまで忘れていた力の抜き方を

吐く時は案外すんなり思い出した。


 冷たい水で執拗に手を洗った。


 時間をかけて手を洗った。

のっそりハンカチを取り出して、一本ずつ指を拭く。

ドア越しに電車が止まった。


動き出したのを聞いてドアを開けた。


 「水、いる?」


 涼しい顔で少年は待っていた。

5つ並んだ緑色の椅子に腰掛けて、

私にペットボトルを差し出す。


 私の顔はちょっとだけ歪んだのかもしれない。

彼は気まずそうな顔を少しした。

 ちょっと罪悪感を覚える。


 「ありがとうございます」


 なるたけ丁寧な声を出す努力をした。

 彼が差し出したペットボトルを私は受け取る。

その冷水は私の口の中を正常に戻した。


 息をゆっくりと吹いた。

酸っぱい毒が消えていた。


 「中村さん、だよね?」

 「えっと・・・」

 「橋本啓太です。

クラス一緒だけど話したこと無かったよね」


 彼の無害そうな声に私は頷く。


 「あのね、渡したいものがあって追いかけてきたんだ」


 そう言って彼は黒いリュックサックを開ける。

彼の手元よりむしろ、どこか不安そうな口元に目が行った。


 「これ、取ってきた」


彼の手には真っ白いヘッドホンがあった。


 「え?」


 彼は差し出す。夕日がヘッドホンをのんのんと照らしていた。


 「さっき、職員室に課題を出しに行ってね。

 そしたら先生の机の上にあったから」

 「ありがとう・・・」


 手に取ろうとして体が止まる。


 「それって大丈夫なの?」


 職員室に置かれていた没収物が、無断でここにある。


 「わかんないけど、中村さんが辛そうな顔をしていたから」


 彼は耳の上を薬指でかく。


 「すぐに届けたほうがいい気がしたんだ」


 彼からヘッドホンを受け取ると、

すぐに首の上にそれを置いた。

軽くて心許なかった首がほんの少し沈み込む。


 「ありがとうございます」

 「うん。元気そうでよかった」


 まだ、息がしづらかった。

ヘッドホンは肩の上に載せるものじゃない。

私にとって、これはファッションじゃない。


 「ねえ、中村さんってどんな曲聴くの?」


 親しげにしてくれるその声が嫌だった。

早く耳を覆ってしまいたかった。


 「ごめん。私、帰ります」


 いつもと違うことをする胆力がもう無かった。


 彼に背中を向けて歩き出した。

 呼び止める声があったのかもしれないけれど、

わからない。ヘッドホンの轟音が全部なかったことにする。

 知らない駅を降りて、深く息を吸った。

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