第2話
入学して三ヶ月が経った。
スマートフォンにメモしていた時間割を
いちいち見ることは無くなったし、
授業中眠気に負けてしまうことも増えた。
つまり慣れた。
大して中学と変わらない気がした。
大中小陰陽諸々。
そんなコミュニティがあって、
みんな収まる場所を見つけている。
収まり悪くふわつく私がいる。
中学と変わっていない。
煙をふかすような気分でやり過ごす。
窓際の席に座ってぼうっと陽がある方を眺めてみた。
満員電車から見えた日がそこにも見える。
大体いつも、そうやって過ごす。
なるたけ日々を平坦に慣らしていく。
イレギュラーというのは無いほど素晴らしい。
でも、今日のイレギュラーは喜ばしい。
現代文の先生が欠席なさるとか。
クラスが小声で湧いている中、私もニヤけた。
みんな、ちょっとずつ体の力の抜き方を思い出していく。
自習を言い渡され、ノートを開いた人の数は両手で数えられる程度だった。
みんな、言葉を交わし合っている。
それが流れ弾みたいに私の耳にも入り込んできた。
異国風に聞こえる言葉で私は酔っていく。
嬉々として、何を話しているのだろう。
恐れ知らずの蛮勇に見えた。
その解釈が誤りであることは知っている。
彼らは知っているのだと思う。会話はあった方がいいと。
私にはやり方さえわからないのに。
相対性理論を理解る方が現実味がある。
数秒、指を弄った。
右手の薬指だけが乾燥していた。引っ張る。筋を伸ばす。
白くて細い私の指は嫌いじゃない。美人の部類だろう。
きっと絵になる。爪の上の半月が十個全部整っている。
「ねえ、駅の・・・新しいクレープ屋が・・・」
「へえ、・・・のクラスの彼氏と行・・・?」
「今あいつと・・・喧嘩・・・
ねえ聞いて、ひどいの・・・!!!」
世界と私は確かに繋がっていて。
微妙に周波数が合わないラジオを聴いているみたい。
不快だった。
スクールバックを膝の上に乗せる。
硬いジッパーを乱暴に引いて、それから、
スペースの大半を陣取っていたヘッドホンを取り出した。
耳に当てる。
世界と一枚膜を張る。
世界の音が少し遠くなる。
ゆっくりと顔をあげた。
みんなの口が動くけど音の判別はつかなかった。
音はそれでも遠くにはあった。
ヘッドホンが全ての音を遮ってくれないことに
失望しなかったと言えば嘘になる。
仕方がない。
歩み寄る気分でサブスクリプションから曲を選ぶ。
知らない曲だ。世界がちょっと遠くなる。
私だけの世界にいた。
私はいつもと同じ陽を見ていた。それが平常だった。
空の下に街が、世界があることを私は忘れる。
私はふわつく。
あってもなくても良い時間。なかなかどうしてそれがいい。
老後、安楽椅子に座っているような心地がしていた。
この世界だけがあればいい。
ボーイミーツガールなんて望んでいない。
待つのも追うのも惹かれ合うのも得意じゃない。
それだけを望んでいた。
ぶちっ。
骨と皮膚が引き剥がされたような錯覚を抱く。
私は元いた世界に戻される。
真空じゃなくなる。
空っぽだった耳がそうじゃなくなっていく。
目が眩んだ気がした。
ヘッドホンが私のものでない手によって宙吊りにされていた。
「おい、授業中だ」
また、耳から世界が流れ込んでくる。
私の横で教師が仁王立ちしていた。
朝礼で何度か見た人。確か教育指導の教師。
取り上げられたヘッドホンがまだ鳴っている。
もうそれは私の耳を塞いでいない。
耳を塞ぐものを失って。
そうしてようやく気づく。
みんな、私の方を見ていた。
ぼうっとしていた頭が世界に引き戻された。
クラスメートからの視線が私の体に当たっていた。
確かな質量があるような気がして、痛かった。
「すみません」
発したその声は掠れていた。
それ以上私は何も言えない。
私は私の声が嫌いだ。緊張すると口の中が乾いて声が上ずる。
耳が紅いのが温度で分かった。
視線をあげることもしなかった。低い声がため息をする。
「お前らも真面目に自習しろよ」
低い声がそう言った。
ほんの少し目をあげると教師が引き戸を開け去っていった。
彼の手に私のヘッドホンが握られたままだ。
ふざけるな。
待ってよ。
それ無しじゃ私生きられない。
叫ぶ前にピシャリと閉まる音がした。
扉が閉まって、クラスに喧騒が帰ってきた。
声が私の周りで行き交っていく。
何事もなかったみたいにみんな言葉を交わす。
さっきヘッドホンで拒んだものが
今はどうしようもなく耳の中に流れ込んできた。
液体のような異物感が気持ち悪い。
首の裏が脈打っていた。
羞恥とか焦燥とか。
不快なもの全てを混ぜ込んだようなものが
私の体の真ん中で蠢いている。
呼吸がうまくできない。
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