闇オチ

汐見舜一

灰の後

 彼は「死の気配」を見ることができる。

 死期の近づいた人間は独特のもやを醸し出すのだが、彼はそれを目視できるのだ。

 

 彼が初めて「死の気配」を見たのは、五歳のときだった。

 祖母が肺癌はいがんおかされ、病院のベッドで日に日に小さく弱々しくなっていくにつれ、体から靄がにじみ出てきたのである。

 靄は初め白かった。そしてだんだんと黒味を帯びていき、灰色を経て、やがて完全な暗黒になった。


 暗黒の靄が祖母の体からモクモクと湧き出てくるのは、当たり前だが不気味な光景だった。

 まるで祖母の魂が不完全燃焼を起こしているかのようだった。

 やがて祖母の魂は燃え尽き、肉体も燃やされるのを待つだけの状態になった。

 

 一度見れば、その靄が「死の気配」であることは容易に理解できた。なぜならば、それはどう見ても「死の気配」だったからだ。猫は猫でしかなく、金木犀は金木犀でしかないように、「死の気配」は「死の気配」でしかなかった。そこに疑問の余地はなかった。

 

 まったくもって憂鬱な能力だった。

 人が近いうちに死亡するのを感じ取れてしまうのだ。憂鬱でないはずはない。


 二十歳になったとき、彼は「気にしないようにしよう」と決意した。

 「死の気配」の靄が見えてしまうのは、もはや仕方ない。だけど、いちいち憂鬱になっていたのでは精神がもたない。


 街で靄を纏った人間を見つけてしまったら、彼は即座に目を逸らして、恋人の顔を思い浮かべるようにした。

 愛する人のことを考えているときは、憂鬱な感情はケチな万引き犯みたいに身を潜めてくれた。


 ある日。大学の帰り道。

 彼は、大通りの反対側の歩道に、恋人の姿を見つけた。

「おーい」と声をかけてみる。


 しかしその声は、自動車の走行音や人々の喧噪に溶けこんで、恋人まで届かなかった。

 恋人は彼に気づくことなく、歩道をてくてくと歩いていく。

 

 彼は急いで横断歩道を渡って、恋人の背中を追った。

 そこで彼はギョッとした。

 恋人に、灰色の靄がかかっているのを見てしまったからだ。

 「死の気配」である。


 彼は全力ダッシュで恋人の背中を追った。

 しかし、恋人は人ごみに紛れて消えてしまった。


 次に恋人の背中を見つけたとき、彼女の靄はほとんど真っ黒に染まっていた。

 いよいよ死が近い合図である。

 

 彼は予測した。

 きっと恋人は、交通事故に遭って死亡するのだと。

 車通りの多い場所から遠ざけなくちゃと思った。

 彼女の命を救うんだ!

 

 しかし恋人は、自ら車通りの多い大通りを外れて、狭い路地へと入っていった。 

 およそ交通事故など起きるはずもない場所だ。


 路地を進んでいくと、彼は、足元にドライバーと金槌かなづちが落ちているのに気付いた。

 すぐそばに一軒家の裏口があるところから察するに、おそらく扉の修理でもして置き忘れてしまったのだろう。


 それから彼は、足元から目線を上げた。

 すると、路地の奥に、ひっそりと小さなラブホテルが建っているのが見えた。

 

 そのラブホテルの前に、恋人はいた。

 彼女は、見知らぬ男と談笑していた。

 そして手を繋いで、ホテルの中へ入って行こうとする。

 

 その様子を見ていた彼は、無意識に、足元に落ちている金槌を手に取っていた。

 

 恋人にかかっている靄は完全な暗黒に染まった。



<終>

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