恥知らずの三耶子

「じゃあ、脱いでみせて」


 椅子にふんぞり返る少女からの要求に、三耶子と葉火は首を傾げた。


 脱ぐ? 何か聞き逃してしまったかしら。

 三耶子が直前までの会話を遡りつつ首を更に倒すと、少女は目をまん丸く見開いて首を同じ角度まで傾ける。


「あれ? 絵を描いて欲しいんだよね? だったら敵じゃん、その衣服」


「あたしらをじゃなくて記憶を基にした似顔絵。ちゃんと聞きなさいよ」


「なぁーんだ。残念」


 如何にも落胆した様子で少女は天を仰ぎ、残念そうにぶつぶつと嘆く。

 先程までと別人のようだ。


「へえ、こっちがあんたの素なのね。今の方があたし好みよ」


「まあね。私、内弁慶。この部屋にいる時と漫画の中でだけ自分を出せるの」


 という彼女の言に、三耶子は深く共感する。

 漫画をゲームに置き換えれば少し前までの自分だ。

 ――ふふふ、きっと仲良くなれるわね。


 そんな風に思わせてくれた彼女は、葉火のクラスメイトで漫画家志望の魚井。

 三耶子達が探していた人物である。


 それにしても運が良かった。早速交渉のテーブルにつけるなんて。

 家はもちろん連絡先すら知らなかった三耶子達は捜索が難航することを覚悟していたが、「たぶん本屋にいるでしょ」という葉火の勘を指針にしたところ、拍子抜けするくらいあっさりと事態が好転した。


 見つけてからは早かった。

 新刊コーナーで獲物を吟味する魚井を、ナンパ役として先行した三耶子がしつこく口説き、遅れて現れた葉火が救い出すという脚本を演じ。

「礼がしたいなら内容はあたしが決めるわ」と恩着せがましく用件を切り出すと、「家近いから……」と魚井が三耶子達を招じ入れる決断をして。


 道中たい焼きを買い、魚井家を訪れて。

 そして部屋に入った途端魚井が豹変し、今に至る。


「それで、似顔絵だっけ。はっきり言って、顔を描くことに限れば誰にも負ける気がしないかな」


「なら決まりね。ありがと。それじゃあたしは、浮いた時間で漫画を読むわ」


 言いながら葉火は床から漫画本を拾い上げ、ベッドに飛び込んだ。

 魚井はどこか嬉しそうにして三耶子を見る。


「あ、ごめんね。人が来るの初めてだから気が利かなかった。古海さんも適当に座って」


「ありがとう」


 魚井の部屋は本だらけで見渡す限り散らかっている。中央にはテーブルが置かれているが、積まれた本やスケッチブックで埋め尽くされている。

 しかし本棚は整然としていて、混沌の中に在りながら自身を見失わないそれは三耶子の目を引いた。


 そこを起点に改めて部屋を観察してみると、魚井は同じ本を三冊買う傾向があると分かった。

 未開封の新品を本棚に、読書用は部屋のどこかしらに、残り一冊は教科書用だろうか作業机に置いている。


 雑然とした空間だが魚井なりのルールが定められている――三耶子は思わず微笑みながら視線をうろつかせ、床の本を脇に寄せてテーブルの前に座った。


「そうだ、自己紹介もしなきゃだよね。下の名前、まだ言ってなかった」


 椅子から滑るように降りた魚井が三耶子の対面に腰を下ろす。

 そして床から拾い上げたメモにペンを走らせ、テーブルに置いた。


「私は魚井うおいあおい。うおいあおい、えを欠く女。漢字で書いた時の苗字と名前のアンバランスが悩み」


「素敵な名前じゃない。私は古海ふるみ三耶子みやこ。偽名が必要な時は大里おおざと耳子みみこと名乗っているわ」


 手に取ったメモに二つの名前を記して魚井へ差し出す。

 おかげで『こざとへん』と『おおざと』の違いを覚えやすくなったかも、と魚井は笑った。


「さてお互い名乗りあったし、本題に入ろうか。古海さん達は私に似顔絵を依頼したいんだよね」


「ええ。お願いできるかしら。是非魚井さんに協力してもらいたいわ」


「いいよ――って言いたい所だけど。ロハってわけにはいかないかな」


 と、魚井はいやらしく笑む。

 対する三耶子は聞き慣れない言葉に眉をひそめた。


「ろはってなあに?」


「無料ってこと。只を分解するとロハでしょ? 昔はよく使ってたらしいよ」


「いいじゃないの。たい焼き奢ってあげたでしょ、七つも。まったく食いしん坊なんだから」


 不意に葉火が口を挟んできて、間髪入れずに魚井が言い返す。


「はひちゃんが四つ食べたじゃん。せめて偶数残してよ」


「四は不吉な数字だからあたしが始末してやったわ」


 葉火が再び漫画へ意識を戻すと、「まあいいけどさ」と魚井は肩を竦めた。

 薄々感じていたが、魚井は葉火に甘い。自由な振る舞いを好みこそすれ疎ましいなどとは微塵も感じていないようだった。

 ――やっぱり仲良くなれそうね。


「もちろん無料でとは言わないわ。何でも要求して頂戴」と、三耶子。


「ほんと? じゃあさ、やっぱり脱いでよ。色んな漫画のカバーを巻きつけられた女の子の絵、描いてみたかったんだ。安心して。顔の片側以外は全部隠れるから」


「それなら――」


 と受け入れかけた三耶子だったが、魚井の口元が歪んだことに気付き、言葉を呑み込む。

 危なかった。完成図に気を取られて騙されかけた。衣装が整うまでの無防備に何をされるか分かったものじゃない。


 三耶子は首を左右に振る。


「ちぇ。言質取れず。古海さんは私サイドで、剣ヶ峰さんを好きにさせてくれればいいって言っても?」


「げばら。それでもダメよ。葉火ちゃんを売るような真似、私はしないわ」


「なんとかはひちゃんの恥ずかしいとこ見たいんだけどなー。あ、そうだ」


 閃きを声にして魚井がずいっと身を乗り出してくる。


「古海さん、ここに来る途中ゲーム好きって話してたよね。だったら、ゲームで決めようよ」


「げえむ! やる!」


「私が勝ったら剣ヶ峰さんを好きにさせてもらう。古海さんが勝ったら、似顔絵の件引き受けるよ」


「成立ね! そうこなくっちゃ。文句の一つも出てこないわ」


 そこで葉火が待ったをかけ、枕を上手投げで放る。

 飛来するそれを三耶子はスウェーで華麗に躱した。


「舌の根も乾かない内にあっさりあたしを売るんじゃないわよ」


「大丈夫。私、絶対に負けないから」


 強い口調で言い切って葉火を見る。

 三耶子の眼差しを受けた葉火は、嘆息ののち嬉しそうに微笑んで、言った。


「三耶子。あたしの命、あんたに預けるわ」


「預かったわ。倍にして返してあげる」


 返答に満足したらしい葉火は漫画本を置き、ベッドの外に足を垂らして観戦モードとなった。

 二人のやり取りを見た魚井はどこか不満気である。


「目の前で漫画みたいなやり取りされると妬けちゃうなぁ。二人が私に屈する姿、楽しみになってきた」


「手を抜かずに臨んでくれるようで嬉しいわ。それで、どんなゲームをするのかしら?」


 その問いに魚井は答えない。

 まずはテーブルを空けようとのことで、積み上げられた数々を二人で床へ下ろした。


 ボードゲームの類だろうか。

 それらしい物は視界の限りには存在しないけれど。


「道具は使わないよ。存在一つあればいい」


 と、魚井は澄ました声で見透かしたようなことを言う。


「私の趣味は絵を描くこと。漫画を描くこと。ただの素人だけど、私なりの美学が、譲れないこだわりがあってさ」


「聞かせてもらえる?」


「大切なのはキャラクター。特に表情が――と、それはまあいいとして」 


 小さく首を振って、魚井は続ける。


「だから私はたくさんの人を知りたい。自分以外の心の奥に触れて、私の幅を広げたい。古海さん、あなたがどんな人間なのかを私に教えて」


 テーブルに両手をつき顔を近付けてくる魚井。

 その目は不気味に濁っているが、三耶子は怖じることなく見つめ返す。


「これからやるのは、そんなゲーム。恥ずかしかった経験や、忘れたい失敗、隠しておきたい秘密を洗いざらい全部ぜーんぶ吐き出し合うの。どちらかが耐えられなくなるまで」


「面白そうね。受けて立つわ」


 涼やかな声と表情で三耶子が了承すると、成り行きを見守っていた葉火が呆れた風で吐息をついた。


「あんたすぐ顔に出るくらい照れ屋じゃない。大丈夫なの?」


「ゲームとなれば話は別。私は夜々ちゃんとのあざとい顔にらめっこに勝利したこともある強者よ」


 笑うと負けだよあっぷくぷー!

 こちらの表情筋をとろけさせる夜々の姿を思い出し、三耶子は微笑した。


「……よし、それじゃ古海さん。私と今生を比べ合おう」


 かくして勝負は成立、題目は魚井式今生比べ。

 ルール――といっても緩い決まり事だ――はこうだ。


 秘密を晒し合って顔を背けた方の負け。

 目を逸らすのはギリギリセーフだが、俯いたりなどして表情が見えなくなるとアウト。

 話し手と聞き手は三十秒ごとに入れ替わる。

 どちらかが悶え死ぬまで終わらない。


「こんなところかな。この砂時計の砂が落ち切ったら交代ね。エピソードを話してからひっくり返すこと」


「全て理解したわ。でも、いいの? 私が正直に話すとは限らないじゃない」


「いいよ、嘘吐いても。見抜くのは簡単だけど物言いはしない。それならそれで、古海さんがどんな人間か分かるから」


 そう言って魚井は挑発的に口の端を吊り上げる。


 確かに、逃げ場なく顔を突き合わせる以上、目や口元に表れる仕草、顔色の変化など些細な部分から嘘の気配を感じ取りやすい。

 顔と言うのは情報の宝庫だ。


 表情の表現にこだわりを持つ魚井に対し、少なくともこのゲームにおいて嘘は一切通じないと考えるべきだろう。

 もとより嘘を吐くつもりなどないのだが。

 そんなことをしても、つまらない。


「自分をさらけ出せない相手に、私は負けない」


 砂時計を手に魚井は言う。


「葉火ちゃんと比べると薄味かもしれないけれど――期待して。退屈はさせないから」


 魚井の手から砂時計を引っこ抜き、三耶子は自信を顔に施した。


「まずは私から今生を見せてもいいかしら」


「っ! どうぞ」


「ありがとう。その前に、魚井さんは姉倉君のこと知ってる?」


「……? 知ってるよ。古海さん達と仲の良い男の子だよね。ちょっとだけ話したこともある」


 魚井の返答に三耶子は一層笑みを深め。

 意識を手元に集中させる。


 ゲームを始めよう。

 きっと楽しい。

 きっとこの子とは仲良くなれる。

 だって。

 だって――彼女は。

 相手を知ろうとする人だから。

 言葉にして自分を伝える大切さを知っているのだから。


 三耶子は小さく息を吸い込み――


「私は彼のブレザーをこっそり着て外を練り歩いた上、隠れて匂いを嗅いだことがあるわ」


 ドン、と持っていた砂時計をテーブルに叩きつけるようにして置いた。

 落ちていく砂が時の計測を始める。


「――っ!?」


 一点の照れもなく恥を晒す三耶子に気圧されたのか、魚井は怯んでいる。

 外野の葉火も「はあ?」と突然のカミングアウトに動揺を露わにした。


 当の三耶子は澄ました顔で正面の魚井をじっと見据え、追撃に出る。


「偶然の賜物でも衝動的な行動でもなく。彼がブレザーを置いて外出するように仕向けた、計画的な犯行よ。その甲斐あって、ほんのり甘い香りを堪能できたわ。深めの呼吸でね」


 反応は無い。

 ただただ唖然とするばかりで、それはそれで恥ずかしかったが、しかし三耶子に攻撃の手を緩める選択肢は無い。


 このゲームは如何に自分のペースを保てるかが重要だ。

 であれば苛烈に攻め立て常に先手を打ち続けるのが自分の性に合っている、と三耶子は思う。


「彼は私がそんなことをしたなんて知らないわ。けれど、バレそうになったことがあって……憂くんに変態のレッテルを貼られてしまうと思ったら、なんというか、すごくドキドキしちゃった」


 三耶子は合わせた両手を口の前に持ってきて、ちょっとだけ首を傾ける。

 あざとい友人が時折無意識に繰り出す技である。


「え、と……」


 魚井が口ごもっている間に時計の砂が落ち切って、交代。


「……やるね古海さん。清純派だと思ってたから驚いたよ」


「そんな印象を抱いてくれている、という前提で一つ目を選ばせてもらったわ。さ、次どうぞ」


 そう促すと、数呼吸ののち平常を取り戻した魚井が、瞳に敵愾心のような色を灯し、


「私がわざわざ人目につく場所で絵を描くのは、自己顕示欲が抑えられないから」


 砂時計をひっくり返した。

 そして三耶子と対照的に質問を促してくる。

 受けの構え。


「魚井さんは褒められたいの?」


「そうだよ。私は褒められたい。すごいね上手だ天才だってチヤホヤされたい。そんな風に表立った称賛も浴びつつ、陰でもめちゃくちゃ褒められたい」


「陰で」


「私の知らないところで私をべた褒めして欲しい。で、それがたまに私の耳に届くと最高!」


 上り調子で熱く語り上げ、うっとりした顔をする魚井。


「成果のほどはいかが?」


「ぜーんぜん。実りなし。唯一剣ヶ峰さんだけ褒めてくれた。何描いてんのよ、上手じゃない、あたしを描かせてあげるって。嬉しかったなぁ……何度も頭の中でリプレイした」


「葉火ちゃんに褒められると、素直に喜べるわよね」


 と、微笑み交じりに返したところで三耶子に手番が戻ってくる。

 これで一巡目が終了。二人の余裕はまだまだ剥がれ落ちそうにない。


 当然である。

 ここまではデモンストレーション。

 本番が始まるのはこれからなのだから。


「実は私、穴の開いた靴下フェチなの」


 三耶子がこれまで明かしたことのない嗜好を口にすると、魚井は容赦なく顔をしかめた。


「うわっ。なにそれ、古海さんってちょっと変」


 このような反応は聞き手側のアクションとして正しい、と三耶子は思う。

 どちらかが自ら敗北を認めることでしかこのゲームは決着しないのだから、たとえ心ならずとも、相手の羞恥心を刺激していかなければならない。

 対する話し手側は、刺激に対してどれだけ鈍くなれるかが課題となる。


 もちろん相手の攻撃を利用してカウンターを狙うことも出来ようが、三耶子はそれを選ばなかった。

 選べなかった。

 思いのほか恥ずかしかったのである。


「顔に赤みが差したね。何を想像したのかな? どんなところが好きなの?」


「……ちょっぴり背徳感があるじゃない。覗き穴みたいで」


 言いながらベッドの方を指差す三耶子。

 つられて首を回そうとした魚井だったが、ぐっと堪えて黒目だけを葉火の方へ遣り、すぐに戻した。

 その後も魚井のねちっこい攻めを凌ぎきり、攻守交替。


「私は毎朝、ちょっとえっちな絵を太腿に描いて通学してる。右は男性向け、左は女性向け」


「魚井さんってスリルジャンキーなのね」


「それもあるけど。風でスカートが捲れちゃった時、数あるハプニングの一つとして青少年の記憶に刻まれたくない。私のサービスシーンは唯一無二の一生物でありたい」


「心配しなくても魚井さんは見た目も中身も可愛らしい人だから、一生物の記憶になるわ」


「あっ! やめてっ! あんまり私の自己肯定感を高めないで!」


 くすぐったそうに顔中のパーツを忙しなく動かし始める魚井。

 褒められたいのかそうでないのか、扱いの難しい人だった。

 それにしても、体育がある日はどう乗り切っているのだろう。


 そんな疑問も残しつつ、ゲームは進んでいく。

 三耶子が話して魚井が聞き。

 魚井が話して三耶子が聞く。

 その繰り返しは場に確かな熱をもたらし、二人のボルテージは青天井にあがっていった。



「私はどうやら匂いフェチみたいなのよね。匂いそのもの匂い萌え。だから枕がすごく好きで、プレゼントに選んだこともあるくらい。なんというか、私のあげた枕に好きな友達の匂いがつくのって、とても胸が高鳴るわ」


「順調に変態のステージを上げてってるんだね古海さんは」




「中学生の頃、凄いと思われたくてその辺で取れた雑草を給食に混ぜて食べてた」


「ストレートに痛い奴じゃない……! 思い出しても狂わないあなたを尊敬するわ」




「最近16って数字を好きになったの。その切っ掛けとなった、誕生日会で用意してもらったナンバーキャンドルを持ち帰って家に飾っているわ。ぼーっと眺めたり、好きなご飯にさしてみると、すごく癒されるのよね。お風呂に浮かべたこともあるわ」


「高低差! 私の痛々しい過去を踏み台にしないでよ!」




「小学生の頃さ、こっそり遅くまで居残りして、クラス皆の机の端を使った34コマ漫画を描いたんだ。そしたらほら、次見せてって、仲良くない子にも話しかける切っ掛けになるでしょ? でもね、好きな男の子の席にだけ見開き気分で机いっぱいの絵を描いちゃって。先生にめちゃくちゃ怒られた。八つ当たりで恋も冷めた」


「おもしれー女だわ」




「あと私、舌フェチでもあるみたい。自分のも含めて。というか口内フェチ? 歯医者さんって大変なお仕事よね」


「古海さんって人間の全てに興奮できるんじゃない!? そして歯医者さんに謝って!」




「この前小学生女児に口喧嘩で負けた」

「喧嘩になった時点でどのみち負けよ」




「高級な着物の上にお気に入りのスニーカー置いてたら物凄く怒られてお小遣い減らされちゃったわ」


「嫌なお金持ちみたいなことするから!」


 ――と。

 もはやゲームであることを忘却した雑談の様相を呈しているものの、とにかく。

 その後も互いに一歩も退かず恥部を晒し合い――それでも決着はつかず、二人は真っ赤な顔で息を切らせて視線を交わらせる。


 そして下唇を噛んでいた魚井が、こんなことを言った。


「なんて恥知らずな人なの……!」


 三耶子が頭の中で唱えたセリフと同一。

 温度も抑揚も一緒。

 脳内を読み上げてもらった気分だ。

 まるで心が繋がっているみたい、と三耶子は思った――思ったから。

 おかしそうに微笑んで。


「ふふふ。魚井さんと遊ぶの、楽しい」


 と言った。

 すると魚井は一瞬だけ固まって。


「……私も。た、楽しい」


 絞り出すようにそう呟きながら、ふいっと顔を背け――

 敗北を認めた。

 あっさりと、降参した。


 あれだけ張り合ったのにもかかわらず、魚井に悔しがったり悲嘆にくれる様子は見られない。ただただ照れくさそうに気忙しく頬を掻き、ついには三耶子に背を向けてしまう。


 三耶子は勝利を誇ることなく、黙ってその背中を見守り笑みを深めた――直後。

 一息に距離を詰めてきた葉火が三耶子の頭をはたいた。


「あだっ。何するのよ」


「こっちのセリフよ。半分くらいあたしの話してたでしょうが」


「えへ」


 夜々直伝の舌を出したあざとい顔ですっとぼける三耶子。

 そこで魚井が振り返り、騒ぎに視線を当てて目を細める。


「……どういうこと? 古海さん」


「これから話すつもりだったけれど、私が出したエピソードの半分は、葉火ちゃんのものよ」


 魚井は眉をひそめて不満を露にする。


「……どうしてそんな真似したの。大口叩いておいて、やっぱり恥ずかしかったんだ」


「そうじゃないの」


 否定して。


「友達の命を預かっているんだから、二人で戦うのは当然じゃない」


 魚井の目を見て、三耶子は言った。


 ――まあ、屁理屈だ。

 まかり通せる自信は無い。

 けれどこの判断を間違いだとは思っていないし、反則負けならそれでもいい。


 重要なのは、勝ち負けではなかったから。

 勝ち負けより優先すべきものがあったから。

 気付いていた。

 気付かないはずがない。

 最初からほぼ明言されていたけれど、多くの言葉を交わしていくうちに確信へと変わった。

 私達は。

 ゲームを建前に、仲良くなるためのコミュニケーションをしているだけなのだ、と。

 

「私がどんな人間か、分かってもらえたかしら」


 恥じらいもなくそんなことを言ってのける三耶子を前に。

 魚井はしばし唖然として――やがて観念するかのように、気の抜けた笑みを浮かべた。


「よく分かった。うん、古海さんの勝ちだね」


「いいの? 反則負けかとドキドキしていたわ。葉火ちゃんからのクレームもどう処理しようかと」


「いいの。私はあなたを気に入ってしまったよ。是非、協力させて」


 そこで魚井は三耶子から目を逸らし、「その代わり……」と言い辛そうに言葉を濁す。そして短い沈黙を置き、意を決したように三耶子へ向き直ると、控え目に手を差しだした。


「……私と友達になってくれる?」


「ふふふ。私はとっくに友達のつもりだったわよ?」


 言って。

 三耶子と魚井は気遣い合うような優しい手つきで、けれど力強く握手を交わした。


 照れ笑いをする二人を満足気に眺め、葉火は言う。


「あはっ。除け者にされるのは癪だけど、あたし好みの展開だから許してあげる。さ、それじゃ行くわよ」


「え、行くってどこに? 私、この部屋を出たら物静かな肉塊だよ?」


「あんたなら平気よ。ほら来なさい、今日を境にそこら中があんたの部屋になるから。その内あんたと気が合いそうな中学生を紹介してやるわ」


 葉火に腕を引かれて困惑する魚井に、三耶子は柔らかく笑いかける。


「最初の一歩は怖いけれど、大丈夫、私達がいるから。それに私の友達はみんな愉快で優しい人達なの。きっとすぐに打ち解けられると思うわ」


 無理強いをするつもりはないから断ってくれても気にしないわよ、と添える。

 行く、と魚井は笑った。



 〇



 憂達と合流すると、何が起きたのやら人数が五倍以上に膨れ上がっていて、魚井は借りてきた猫にすら怯える鼠のように縮こまっていたが、おバカな中学生共からの称賛を潮に少しずつ場に馴染んでいった。


 そうしてバカップルや噂好きの男子、美術部員達にも心を開き。

 四方八方から飛んでくる好き勝手で遠慮の無い要望を浴びつつも、楽しそうに、似顔絵を描きあげてくれた。


 完成品を褒められてご機嫌な魚井曰く。

 似てるかは分かんないけど、私の最高傑作。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る