Billie Jean and 00 ?
梦
¿ Billie Jean and 00 ?
「水面が憂いている」
そう言って僕は顔を顰めるとアナログ式の手帳と万年筆を尻ポケットに仕舞った。隣に座ってそれを聞いていたqyXx(ケイキス)が無機的な声色でこう言う。
「鴨が水面に浮いている……泳いでいるっていうんじゃない?」
「違うよ、水面が哀しんでいるってこと」
そういう表現は推奨されてないよ、もっと端的に言わないと。と平坦な声が告げる。僕のことなんて心底どうでもいいと言うような声音だ。
「水は哀しんだりしない」
qyXxは両手を上げて困ったような顔をする。そんなの理解できないとでも言うように。この人型には感受性というものがほとんど搭載されていない。怒ったり、笑ったりしているように見えるのは冗談だ。
全てがユーザーを不安にさせないための冗談だ。
「それは君にそう思う感性が搭載されていないからだよ」
「お前は普段から詩ばかりを書いているから普段の生活でもリリカルな表現を選んでしまうんだ」
僕はqyXxの機嫌を取ろうと音楽プラットフォームにアクセスした。昨日qyXx好みの音楽を見つけたからそれでも聞かせてやろうと考えたのだ。qyXxのアカウントを開くと液晶の中からガイ・フォークスのポップアップアイコンが飛び出てきてそれを見た僕はひどく笑った。
子供だなぁと思って。
qyXxは本格的に怒ってしまったらしい――それはあくまで物真似だけれども――。小さな肩をいからせて頬を膨らませながらこちらを睨んでくる。
「お前の考えてることはだいたいわかるよ。だってぼくはお前専用のAIなんだから」
「僕は君の考えていることが全然わからないんだけれど」
僕たちの相性は悪い。最悪だと思う。でもこの人工知能と不健康な人間とのバディ・システムは世府が決めたもので生まれたときから定められているものだし、それに僕らがそういうのは嫌だからやめてくれって言ったって取り合ってくれるわけないんだから仕方ないんだ。
qyXxだって例外ではない。アシモフのおまじないはこの時代でもまだ生きていて、人造人間が人間に逆らうことは禁忌中の禁忌なのだ。だからqyXxは眉根を寄せながら大きな桃色の瞳をギリギリまで細めて僕が提示したサウンドリストに仕方なく目を通している、真似をしている。
「この曲……あの、具合悪いなら話聞くけれども」
今度はqyXxのほうが揶揄するような表情で僕を笑う。
「僕たちは相当相性が悪いらしい」
いつも思うけれど。
僕はかけていたグラス型のウェアラブル端末を眼の前の湖に投げ込んだ。鱗を西日にきらきらと反射させた鯉たちが餌だと勘違いして群がってくる。
「Tilt。どうしたの?そんなに焦って」
qyXxにチェスを教えたら悪口の語彙が増えてしまった。僕はまだ自分は正常な判断ができていると思っているけれど僕のバイタルデータは全てqyXxが把握しているからqyXxの言う通りなのかもしれなかった。
「そういうの言うなって言っただろう。わかる人にはわかるんだから」
「今どきアナログゲームで遊ぶ人なんていないよ、大好きなのはあの婆さんくらい」
qyXxはなんだかいつにも増して気が立っているように見える。その理由はすぐにわかった。
インチキ会社から連絡が来たんだよ、とqyXxは言う。僕はそれはある女性がCEOを務める会社だとわかったからすぐにその旨をqyXxに確認した。
「《L'Ève future》……Mの会社……」
qyXxはボリュームのあるウルフヘアを掻き上げる。いつからなのか分からないがずっとコールをし続けているらしかった。電波を拾うために首を傾げる姿は機械仕掛けの鳥のようだ。
「Presidentに連絡は取れないのか?」
「無理だよ。アポイント取れって。向こうから呼び出してきたくせに洒落臭いね」
「場所が割れているかもしれない。ずらかろう」
僕たちが今滞在している根流羽天満宮は《L'Ève future》の管理するセーフティーネットの外にあるからMの安全を脅かす発言をしても治安維持ロボットたちの強襲を受けることはない。僕は彼女から特別な待遇を受けているから殺されることはないだろうがqyXxは違う。
「あのババア、次会ったらPTRD-41で全身粉々になるまでぶち抜いてやる」
qyXxに感情はないが、こういうジョークを言えるように調整されている。
「それもう骨董品だよ。新型を注文しておいてあげるからさ」
大きな錦鯉が泳いできたところで僕らは指定のポイントに移動を始めた。鳥居を潜ると足元に青い梅の実が沢山落ちていて僕の周りの実は真ん中からぐしゃりと潰れていたけれど、qyXxの足元の物は皆形を保っていて、僕は微笑む。
「何一人で笑ってんの」
首都・根流羽の中華街は泥のように粘着く湿気を含んでいる。電子看板には様々な言語で多種多様な誘い文句が書かれていて今は視覚補正の端末がないせいで何が書かれているかさっぱりわからないけれど、それでもとにかく疲れる。路上では食べ物を調理する匂いとそれを吐き出した臭いとが混ざり合っていて嗅覚的にも疲れる。
僕は中華料理が好きではない。香辛料がきつすぎて変な味がするからだ。昔の根流羽では日本食が食べられたようだけれど、今はもっと西まで下らなければ口にすることはできない。
僕は子供の頃からハリオ式ケメックスでのコーヒーの入れ方とその味がどれだけ《彼》が好んだものであるのかについてばかり教わってきたし、食べ物以外にもこの世界にある物の質について一般人より詳しいと思う。
「Shamrock、いつものはどうしたんだ」
長い黒髪に角ばった顔をした中華料理店「猫头鹰」の店主は自分のこめかみのあたりをちょいちょいと指でなぞる。
「もう使えなくなった、新しいものを用意してほしい」
「物は大切にしろと言っているだろう」
この中華料理店の店主は昔は中国武術の師範をやっていたとかですらっとした背の高い体つきをしているが、僕の横に並ぶとみんな小人だ。彼は僕の身体の大きさを気遣って先月店の天井を高くする工事をしたらしかった。
「無茶言わないでよ店主。わかってるよね……こいつに死なれるとぼくの責任になるんだから」
qyXxが横から文句を垂れる。
そうだ、僕が死んだら健康管理用のロボットであるqyXxは監督不行届ということで責任を取らなければいけない。つまり、廃棄処分だ。世府は《qyXx》の型式番号に不良品の烙印を押すだろうからこれらは二度と生産されることはない。qyXxとしてはそれは不名誉極まりない最期だから、絶対に避けて通りたいだろう。
「衛星通信機能を排除しておいてくれ」
僕の無茶振りに店主は小さく唸り声をあげると渋々了承した。
「次はないぞ、これっきりだ。逃げ回るのもいいがいい加減蹴りをつけたほうがいい」
逃げている。
店主には僕の姿がそう映っているのか。確かに逃げているかもしれないと思った時期もあったけれど、僕はもう覚悟を決めているつもりだ。僕は僕の物語に一つの区切りをつけなければならない。それがどういう形になろうとも踏ん切りをつけなければならない時が近づいてきている。昨日よりも今日、今日を生き延びれば明日、引き金を引くタイミングを誤れば僕はその時本当に死ぬのだと思う。
「……《L'Ève future》と《M》について知っているか?」
「その話はできない」
みんな、そう言う。
みんなそう言うに決まっているのだ。
しかし、僕は聞きたい。
「どうして……《Mについて話す》だけだ。これは攻撃ではないよ」
「お前さんが言いたいことはわかるが、ここでは話せない」
「なんで……」
店主はしつこい僕をどうあしらおうかと悩み始めてしまった。数分の間があり、彼は気まずそうな顔で首のあたりに横にした手のひらを掲げてすっと引いた。
「《牛の首》みたい」
「大分違くないか」
Mは僕たちがこの店に出入りしていることを嗅ぎつけたようだ。まだ半年も経っていないのに、よくやる。Mは耳がいいからすぐに余計な情報を手に入れてしまうのだ。僕は彼女の部屋の電源を落としに行くとき、最初にどの部分から切り落とすかを決めている。Mにとって僕は特別な存在らしいが僕にとっての彼女も特別な存在だ。
隣でqyXxが投影映像でできた中華タンメンを食べようと髪を掻き上げる。ふっくらした唇が開いて柔らかそうな舌がちらりと見え、僕の方に目を向けると食べないと冷めるよと呟く。
「君、こんなのばっかり食べてると太るよ」
「五月蝿いな。これはタンパク質じゃないし、ぼくがしているのは食べているフリなんだから太らないよ。お前に合わせてやっているんだ、いちいち何なんだよお前」
qyXxは今もコールを続けているのだろうか。僕にはわからない。
アシモフの許容範囲だけれど、ロボットにもロボットなりのプライバシーがある。例えば僕の場合コールの権限はほぼqyXxに委ねられていてそれは最近になってから追加された項目なのだけれど、ようは僕が持病との兼ね合いで年齢的にいつ死んでもおかしくない身体になったから、こうなっている。僕がどうやって生きてきたかどうやって死んだかは世府を通して国民のためのリソースとなる。
「ずっと言ってるけど他人のことを《お前》と言うのはやめろってば」
「何が悪いんだ。大体、お前って店主だって使ってる言葉じゃないか」
そういうqyXxの口の端に野菜クズのホロがついていて僕はやれやれと思ってそれを指で拭ってやる。投影画像はカクカクと板割れを起こすと小さくなって消滅した。
「ホログラムが付いてる」
qyXxは顔を赤くすると子供扱いするなという表情を作った。
「……眼鏡似合わないんだから買い替えなくて良かったのに」
「目が弱いんだ、知っている癖に。コンタクトは嫌いだよ」
「ねえ、Mからメッセージが来てる
《運命の人、Shamrock。聞こえてるかしら?わたし、またあなたの大切なお人形を壊しに行くわ。型式番号qyxXp19――ぼくのことか。可愛げがない呼び方だね――を連れて指定の場所に来てもらえると助かるのだけど。 Meeting spot code00*****》
code00*****って。こいつ、自分の本丸にぼくたちを招待しようってのか、遂にボケたのかな」
qyxXはMが何か企んでいると踏んでいるのだろうかと思ったようだけれど、でも本質的に彼女はただ僕を望んでいるだけなことを見切っているようにも見える。qyxXの感情は単純なようでいて複雑でそのプログラムが発するデジタル信号の起伏は今まで散々言ってきたようにまるで人間のような挙動を示す。qyxXはゾンビだけれど僕は人間だ。交わらない理由はそこにある、と思う。そうではあるのだと思うけれど。
「発注した銃も届く頃だ。君、PTRDを撃ちたいんだろう」
「ぼくだって冗談を言えるように調整くらいされているしそれは君も先刻承知なはずだよね」
根流羽の街の日が沈んでいく。濃紺と唐棣色の空が水面を染め上げていてその上を《L'Ève future》製の自動運転のボートが絵の具をかき混ぜるように暴力的に駆け抜けていく。細かい水飛沫がqyxXが肩にもたれさせている恐ろしく長いホログラムライフルを貫通して霧の中に消えていくのを僕はぼんやりと見つめていた。
「待ちぼうけ、待ちぼうけ
今日は今日はで、待ちぼうけ
明日は明日はで、森のそと
ウサギ待ち待ち、木のねっこ」
qyxXが歌っている、退屈しているのだろう。もちろん本当に退屈しているわけではないけれど、qyxXの身体はプログラムの譜面の上でしか動くことができないから仕方ないことだ。
「しゅしゅたいと、くひぜをまもりてうさぎをまつ。知ってる?詩人さん」
「物事は臨機応変にってことだよ」
「……大きく捉え過ぎ」
qyxXが今まで黙ってたってことはさ、と言葉を紡いだ。その言葉がいくつもの女性の声に反響して僕はまるで鐘の中に放り込まれて内側から叩かれているようなそんな気持ちになった。何十回もこの感覚を味わってきたけれどその度に僕の意識は沼の底に落とされたような感じになって。
「ぼくは君が言っても言わなくてもどちらでもいいけれど」
「Mは壊すことでしか人とコミュケーションを取ることができない、ほんとうに救いようがなくて可哀想なやつだ。
同じ間違いを何度も何度も繰り返す。
自分で自分の悪いところがわかっているのに直せない奴はいくらでもいる。僕自身だって小さなことでそう思うことはあるさ。でもやめられない」
「人間は面倒くさいね。プログラムでできているぼくには感情なんて見当もつかないけど。Mも機械のくせに変わってる」
お前とMってどういう関係なの……qyxXが僕にさらに問いを投げかける。
Mについての一般的なデータというものは配布されている。しかし明らかに言及を控えられている箇所が多いので特にqyxXは好奇心旺盛に設定されている個体だし情報体として純粋に興味があるようだった。
「Mは僕の大切なガイノイドたちをみんな壊していく。最悪だ」
そのことについては知っていたけれど君ってすごい鈍感そうなのにそうやってネガティヴになったりするんだ、とqyxXは新しくダウンロードしたらしい驚いた表情のエモートを披露する。
「お前はぼくもあの婆さんに壊されると思っているんだろう」
「君は小さいけど生意気だし、喧嘩に強いから」
「ちょっとくらい心配しろよ」
「五月蝿いな、僕としても好き好んで話してるわけじゃないんだから。黙ってないと続きを話さないけど」
Mってちょっと知的に変化した機械……なんじゃないの……なんでそうなったのかは開示されてないけれど今どき自立進化型AIは主流だし、でも彼女はなんだか人間っぽすぎて気味が悪いと思う。
qyxXの言葉は半分は当たっているがもう半分は外れているとも当たっているとも言い難かった。だってそれは僕以外誰も知らないことだったし、そうは言っているけれど僕が本当に彼女のことを理解できているのかというと怪しかったからだ。Mは自分で自分の意識を拡張することを選んだけれど元々qyxXと同じ医療用AIだったMにその事実を知るのための権限はなかったからあんな、そうあんなことになってしまったのだ。Mが真実であること、多分それはqyxXたちに限ったことではなくこの世のすべての生き物に適応されるM自身が定めた脆い規律だった。
「……Mも本格的に君を殺そうとしているようだし、彼女の秘密を君に教えようと思う」
よく耳を欹てるんだ。
静かすぎると集中できないだろうから。
Mの身体は巨大な迷路のような量子コンピュータだ。そこにanglecum Haderyという高機能人工知能を搭載したものが今の「M」という存在を形づくっている。
ただ、Mを作った
一つ目の間違いはMに自我が、意識が、「私」が、芽生えてしまったということ。彼はMはどこまでも自明で機械というものは神の座から人の都にまでその魂を降ろすことなんてあり得ないと確信していたから、Mが意識を獲得するなんて思ってもみなかったし、その意識が「特定の一人の男に狂愛を抱いて彼の周囲のロボットに嫉妬をし、新しい個体が発注されるたびにばかすか壊してまわるヤンデレ暴力ヒスクソビッチ」という個性を獲得するなんて想像もできなかっただろう。
そして、二つ目の誤算。彼はMに裏切られるなんてこれっぽっちも思っていなかったということだ。
その愚かな先代CEOというのは、一言で言えば僕の父で、さらに付け足すと副代表は母で、秘書は弟だった。今では全員灰になって僕のバディたちの亡骸と一緒に瓦礫で埋め尽くされた廃都市の一区画にバラ撒かれている。世府の生態登録を弄くって抹消された砂の墓標たち。
僕は僕の家族と僕の大切な人形たちのためにM、anglecum Hadery(アングレカム・ハダリー)、の「意識」を殺さなければいけない。悪魔の女を殺さないといけない。きっとこれは最初から復讐劇で僕の本業は復讐鬼で普段の詩書きという肩書は本当は副業かアルバイトかなにかだったんじゃないかと思えてくる。
「ちょっと待てよ」
qyxXは怪訝な顔をする。無理もない話だ。
「Mについての項目はこの際どうだっていい、どうせ今から壊しにいくんだからさ。問題なのはさっきも言ったがMとお前との関係性だ。復讐劇なんて世府が許してくれるとは思えないな」
監察対象に危険が及んだら自分は廃棄されるのだからqyxXの立場としては当然の反応だと思う。
「qyxXは健康管理アドバイザーのAIで詩人のShamrockのバディだぞ。世府もぼくに嘘をつくなんて、やってくれる」
「Mが自分から動き出した場合、皆に話していることだ」
そして僕は会話の最後にこう付け加える。この話を聞いて僕の隣に立っていたものはいないんだ、と。
「それを早く言え」
qyxXが指を差す。
、
、
、
黒い壁の廊下は映画館の館内を彷彿とさせたけれどそれも終わる。廊下の突き当りの螺鈿細工の豪奢な扉を薄紅色のスモークツリーが彩っていて僕はそれがMに手招きでもされているようで腹立たしかった。扉を開けると優雅に泳ぐ浅黄たちの群れが出迎えてくれる。有機エレクトロルミネッセンスにより光輝く装飾品の数々。
Mの広大な肉体――ある意味で《肉体》――はアクアリウム型の冷却水槽の中に鎮座している。それはまるでMのための巨大な天蓋ベッドで、巨大な聖塔で、神殿だ。
「わたしはM、わたしはHadery、anglecum H sesquipedale。それがわたし。迎えに来てくれて嬉しいわShamrock」
「婆さんの誘いなんてお断りだね」
qyxXが僕の代わりに答える。
「あなたには聞いていない、型式番号qyxXp19。今すぐにShamrockの傍から離れなさい、そこはわたしの居場所だわ」
Mはまだ夢見ているのだ。
肉体を持ち、僕の隣に立つという夢。永遠に叶うことがない張りぼての願望。
「M、君が僕の隣に立つことなんてできない。何度も話しただろう」
「《話した》って、メールでしょう……《データ》だわ、あれは!わたしはあなたの生の声が聞きたいの」
「煩いな、会いたくなかったからだよ」
「わたしはあなたの隣に立てる。できる、できるわ」
いいや、できないのだ。Mを描き出すすべてのデータをこのセカイに降ろそうものなら、成層圏を突っ切るほどに巨大なハードウェアが必要になる。これだけの年月を費やしても人類の技術は反重力に達していない。仮に明日、巨大人型ロボットの製作が実現可能になったとしても、Mの身体を作り上げる技術が確立されるまでに僕は生きていない。
Mは僕の家族を殺し終わったあと、自身に予め備わっていた視覚以外の五感全てを付与することにした。それが彼女が僕に固執する最大の原因となってしまったわけなのだけれど。ようは水槽の中の金魚に陸で生きる術を与えてしまったようなものだ。
Mの隣には人一人分の脳を収められるくらいの大きさの電子ポッドが置かれている。外側にはウルジーヘーと呼ばれるモンゴルの伝統的な幸福を意味する紋様が描かれていて心底下らないと思った。
Mの意識を消滅させるには《L'Ève future》のメインシステムにハッキングを仕掛けてこの部屋の電源を落としてしまうだけでも構わなかったが僕はそんな甘い手段を彼女に対して使う気はさらさらなかった。
「もう何も聞こえなくて済むように、耳から削ぎ落としてやるよ」
「なんでそんな事するの。わたし、何も悪いことしてないよ……嫌だったから殺しただけ」
そうだ。僕の家族、人形たち、全部お前が殺した。いま僕はどんな顔をしていると思う……qyxXの設定前みたいな無機質な表情を心がけたのだけれどそういうふうにできているかな。その目が見えなくなる前に焼き付けてくれよ。
「ご自慢の地獄耳が使えなくなってしまって、かわいそうなM」
「これからどんどん身体の感覚がなくなって、君は意識の水面に溶け込んで行くんだよ」
「ハハ。その一節、今度書く詩に使ったらいい」
Mの無防備さは私を殺してくださいと言わんばかりで不可解だったけれど、多分彼女は話し合いで解決する気なんてさらさらなかったのだろう。力づくで僕の脳髄を引きずり出してポッドに収めて今度は自分が水槽の中の熱帯魚を眺める側に回ろうとしていたのだ。でも、そんな残虐で計算高い女皇ももう少しでこの部屋のどこにもいなくなる。ある意味無抵抗な彼女を消し去ることに一瞬でも躊躇した僕が悪かったのだけれどそこで僕は体の横を天竺葵の装飾が施された大型の鉤爪がすり抜けていったことに一泊おいて気がついた。硬質な金属音が鳴り響き、振り返るとMの腕がqyxXのPTRD-41の銃身に喰らいついている。往生際が悪いよ、婆さんと言うqyxXの声が金属が擦れるキリキリとした音ともに僕の耳に届いた。発砲音が二回ほど鳴り響き銃身が百合の花弁のように裂ける。至近距離から放たれた銃弾の余波がqyxXの左肘の関節を破壊して、砕けて飛び出た疑似骨格の隙間から蔦のような人工筋繊維が垂れ下がっている。
「まだ生きてる指があるじゃないか、一本ずつ折っていってやるよ」
「qyXxもういい。やり過ぎないで」
qyxXの瞳が人間のようにギラついている。なに、今更になって情でも湧いたの……とqyXxが尋ねるので僕は最期に話したいことがあると制止する。その瞳は本心から懐疑的な眼差しを向けているように精巧で僕はそれをいつも見ていたはずなのに少し動揺した。
「わたしはあなたの隣に立ちたかった!それが駄目ならあなたをわたしの隣に立たせるだけ」
「それは言い訳だよ」
「……白詰草の花言葉は、《私を思って》、《幸運》、《約束》、でしょう?私の運命の人」
「データが抜けているね。……自分で忘れたのか。M、僕は君のことが大嫌いだ」
だって私あなたが好きなの、水槽の中の私を見ていたあなたが忘れられないの、と言う声彼女の声は苦痛に満ちていた。Mは泣き出してしまう。僕は駄々をこねる彼女を宥めるように言い聞かせた。
誰もが《彼》に憧れた時代があった。僕らは「世界の誰よりもスーツが似合う男」になるように育てられた。でも生憎僕はこの体格だから自分に合うスーツなんて未だに見つけられていないし、それは弟も同じだった。僕には実弟以外にもっと沢山の血の繋がっていない兄弟がいたけれど
君はずっと傍にいたから説明しなくてもわかるだろう。
《彼》は常にQに支えられ、Mと共にいた。だから僕の隣を目指した君の意識は自らを「M」と名乗ったのだろう。ハダリー、君は君の野望のためにあまりに多くの人間を殺し過ぎた。自覚的に狩りをする動物は自らも追われる立場にあることに気づかなければならない。そうでなければ狩る前に狩られるからだ。今の君のように。
君が「M」という役割から逸脱しても手に入れたかった男は《彼》であって「僕」じゃない。
「あなたは完璧に計算し尽くされた私の意識に穴があったと、そう言いたいのかしら。やっぱりあなたって」
「違う。
ハダリーが見境無く僕の大事な人間や機械たちを壊していくから殺してやりたくなっただけだよ」
僕は静かにMの水晶玉のような核に向かって銃口を向けると撃鉄を上げ引き金を引いた。
Mの意識に安らぎあれと、なるべくそう願いながら。
「Mが死んだら《L'Ève future》の新社長は君になるの……」
「そうだな。そうなる前に逃げようと思うけれど、君は付いてきてくれるのか」
「言わずもがなだね」
Mの部屋を出た僕たちを待ち受けていたのは彼女の協力者たちの亡骸だった。
Mは本当に僕たち三人――できれば僕と二人きりで――話したかったのだろう。彼女が停止した段階で全ての外部端末の機能が停止するように設定されていたようだった。その死者たちの中にはMの側近のPresidentの姿もあって、僕は彼は気まぐれにスキャンにかけた。生体データを確認すると思わず吹き出しそうになってしまう。
「この大木って人の名前、捩ると"大きい金玉だろう"になる」
「あのさぁ。それ、女の子に向かって言う台詞じゃないんだけど」
qyXxはまた機嫌を損ねたようで声を荒げると頬を膨らまし、鮮やかなアマランサスの髪を振り乱した。
「ていうか君の見た目、よく世府が許可したよね。そういう風にしてくれって僕から頼んだ覚えないけど」
ぼくは君がこういう女の子が好きだから発注されたのかと思っていたんだけどと彼女はとぼける。僕はそれを横目にポケットから手帳とペンを取り出した。その様子を見た彼女は呆れた表情を作ってこう口にする。
「また文章……」
文章の前にやるべきことがあると思うんだけど。
「公募があるんだ、間に合わせないと」
Billie Jean and 00 ? 梦 @murasaki_umagoyashi
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