第2話
取り敢えず、父親から学んだ言葉を口にする。
「皆、伏せて頭を守れ! 思いっきり息を吸って、浸水に備えろ! 繰り返すぞ、伏せて頭を――」
二周目を言いかけて、しかし海斗の言葉は掻き消されてしまった。
前後左右、加えて上下の感覚がなくなる。宙を舞ったかと思えば頭をぶつけ、いきなり落とされたと思えば腕を強打する。
これは一体何なんだ? 何が起こっていて、自分はどうなってしまうんだ?
ぐっと歯を食いしばる男子二人に、きゃあきゃあと喚く女子二人。
前にいる操縦士二人もシートの上で跳ね回っている。
悲鳴と絶叫が渦巻く潜水艇。すぐさま脱出したいところだが、ガラス一枚隔てた先には超高圧の世界が広がっている。すぐに圧殺されてしまうだろう。そんなことになったら。
母親からしたら、父親のみならず息子である自分まで死別することになってしまう。
母さん、ごめん。
それだけ呟いて、海斗の意識は途切れた。
※
「対象、目標地点に到達!」
「海流による誤差あり。流速により、僅かに西方にずれています」
「了解」
艦橋で仁王立ちの姿勢を保ったまま、相模は報告を受けていた。
八〇〇〇メートルも下方の状況が手に取るように分かる時代が来るとは。
それは、艦橋中央に置かれた立体画像映写機を見ての感想だ。
軍人一家の中で育った相模だが、それでも仕組みが実感できない。そんな相模の本音が、艦橋奥の出入口付近から聞こえてきた。
「まったく、文明の利器とは恐ろしいものじゃ。人類は良かれ悪かれ、どこかに向かって日進月歩の道を進んでいる。そうは思わんかね?」
明らかに、しわがれた老人の声だ。しかしそこにあるのは、強烈とも言える生存本能。生気と言ってもいい。
艦橋の皆が立ち上がって敬礼している。それを察した相模は、やや眉間に皺を寄せながら振り返った。さっと敬礼を済ませる。
「久しいな、相模修司・三等海佐」
「はッ。相変わらずご健康でいらしたこと、我が事のように嬉しく思います。遠藤睦・海上幕僚長補佐官」
すると、老人の方が胸に手を当てて低く喉を鳴らした。笑っているようだ。
「相変わらず君は生真面目だな。儂のことは『監督』とでも呼んでくれれば結構」
「左様ですか」
相模は直立不動のまま、視界の中央で車椅子に乗っている老人を見つめた。
「監督、一つ教えていただきたいことがあります。搭乗員名簿に、あなたの名前はなかった。いくらでも根回しはできたのでしょうが……。そうまでして本艦に乗艦なされたのは何故です?」
「ふむ、まあ、一種の気紛れじゃな。監督などと名乗るのも、正直おこがましいとは思っておる。じゃが流石に、ただの『海上自衛隊首脳部のOB』というだけでは誰も都合を合わせてくれはせんのじゃ。まったく、最近の若いのは堅苦しくていかんな」
そんなことを言っている場合か。そう相模は怒鳴りつけそうになった。
命令された地点に潜水艇を着底させられたとはいえ、この作戦が一体なんのために行われているのか分からないのだ。
そこで行方不明者が出たのだから、心穏やかでいられるはずがない。
「遠藤監督、確かにあなたは尊敬すべき人格者です。しかし現在は自衛官としての地位を脇に置いて、隠居生活をなさっている。よって、本艦『しらせ』の指揮を執るのは自分です。その点、はき違いなさいませんよう」
「もちろんだとも! 後から老害呼ばわりされるのは、儂としても心苦しいでな」
ふん、骨と皮しかないような老人、誰が相手にするものか。
「では儂は失礼するよ、諸君。ああ、それと」
「はッ、何でしょう?」
「海溝に着底させた潜水艇じゃが、乗員のことは心配無用じゃ」
「は、はッ?」
「じき誰かが目を覚ますじゃろうて。そうすれば合図を――」
と遠藤が言いかけた、その時。
レーダーにも引っ掛からないような小さな物体が、急速浮上してきた。
この艦にではなく、潜水艇の着底位置からそう遠くない場所に。
それはただの、着色液を込めたカプセルだった。海面上に円を描くように、赤色が濛々と広がっていく。
「ふむ、彼らは上手くやっているようじゃな」
「彼ら?」
「潜水艇の主賓である、四人の高校生たちじゃよ」
時間は十分ほど前に遡る。
※
ぴたん、ぴたん、ぴたん、ぴたん……。
「んっ……」
最初に気がついたのは海斗だった。父に厳しく柔道を習ったからか、意識を失いつつも受け身を取っていたらしい。
いや、待てよ。
受け身を取るといっても、そこに床がなければ意味もない。ここは、どこだ?
立ち上がるのに苦労はなかった。そのまま前方をじっと見つめる。
壁面には、松明が着火された状態で並んでいる。光源としては心許ない。それでも海斗は、どうにか見える範囲のことを頭に叩き込もうとした。
こんな場所で冷静さを保っていられる自分はおかしいのかもしれないが、今は考えるだけ無駄だろう。
軽く自分の頬を叩き、海斗は五感を研ぎ澄ました。
広大な石造りの建造物で、壁面が松明で照らし出されている。ひたひたと水滴が流れ込んできたり、頭上から降ってきたりするが、崩落の危険はなさそうだ。角ばった岩石が、実に緻密に組み合わされている。
それでも四方八方から、特殊な匂いが漂ってきた。海岸沿いの生臭さのみならず、温泉のような鉱物臭さも漂ってくる。
「ここは海中なのか……?」
海斗はすっと、ほとんど水を被っていないスニーカーで一歩を踏み出した。
この先に、何かの気配を感じたのだ。
問題はそれが、何の気配なのかということだが――。
「海斗くん、大丈夫かしら?」
「うわっ!?」
唐突に声をかけられ、海斗は足を滑らせた。壁に手をつき、転倒を防ぐ。
「あ、ああ、平気だ、華凛さん」
「よかったわ。気を取り戻したのがわたくしだけだったら、どうしようかと思っていたんですのよ」
「そ、そうか」
華凛は三百六十度を見渡し、大きな構造物ですのね、と一言。
何だか妙に落ち着き払った態度だが……。
いやいや、これも雑念になりかねない。
海斗は残る人々が負傷していないかどうか、確かめようと提案した。
「そうですわね。では、わたくしは舞香さんを」
「分かった」
海斗は、仰向けに寝転がっている泰一に歩み寄った。呼吸はしている。死亡という最悪の展開は避けられたようだ。
しばし揺さぶっていると、泰一はむっくりと上半身を上げ、後頭部をわしゃわしゃと搔き乱した。
今更だが、泰一は随分と体格に恵まれているな、と海斗は胸中で呟いた。
「泰一、気がついたか?」
「お、おう。……って、何じゃこりゃ? どこなんだ、ここは?」
海斗は、自分なりに解釈したこの建造物に関することを泰一に伝えた。
壁面は松明で照らされ、灯りの差す範囲だけでも学校の体育館以上の広さがある。
そのところどころに円形の石柱が立っていて、上の階層を支えている。
そして、何か大きなものが蠢く気配がする。
案の定、泰一が最も興味を抱いたのは、暗闇に潜んで蠢く『何か』についてだった。
「そいつは生き物なのか?」
「だろうな。単純に、そしてゆっくりと動いてる。僕たちを観察してるのかもしれない」
「ああ、海斗くん! あんまり盛り上がるようなこと言わないで!」
二人が驚いて振り返る。そこにいたのは舞香だった。華凛が起こしてやったのだろう。ずいっと顔を近づけて、海斗と泰一を睨みつける舞香。
「なっ、邪魔すんなよ、舞香!」
泰一が語気を強めるが、舞香は歯牙にもかけない。
「聞いてよ海斗くん! 泰一って単細胞で熱血漢だから、誰かが落ち着かせてやらないといけないの! このままじゃ、素手で暗闇に特攻しかねないわ!」
「そ、そうなのか……。分かった、扱いには気をつけよう」
「おい海斗! お前まで俺をモノ扱いするのか? ひでえな!」
微妙な空気が三人の間に広がる。が、それも長くは続かなかった。今度は華凛が叫んだのだ。
「皆、伏せて!」
まるで状況を完全に把握しているかのように。
「伏せて、早く!」
華凛の言葉とは思えない響きに、三人は全員がその場で寝転がった。
直後に響いたのは、この空間で反響を繰り返す何らかの音。
まさか、と海斗が思った時には、潜水艇の残骸の陰から誰かが突き飛ばされるところだった。この潜水艇の操縦士だ。完全に脱力しきり、死体のように見える。
もう一人も同様に、狂暴な音の反響と共に突き飛ばされた。瞬殺されたと言っていい。はっとした舞香が短い悲鳴を上げる。
操縦士二人は、何者かの銃撃によって殺害された。
とは言っても、他の人員は潜水艇には乗っていなかった。別な潜水艇が同じ航路を辿って殺し屋を差し向けたとも思えない。
「何が起こっていやがるんだ!」
「泰一、静かに!」
「おい! 気づかれるぞ!」
「で、ですわ!」
泰一と舞香を黙らせ、海斗たちはその場で腹這いになった。
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