追憶のマリンブルー

岩井喬

第1話【第一章】

【第一章】


 がこん、と硬質な音を立てて、その潜水艇は母船からゆっくりと離脱した。

 

 船体は特殊な樹脂でできており、高い水圧下でのあらゆる活動を可能にしている。三対の昆虫のような脚部で、高速海流の中でもしっかりと船体を固定することもできる。

 

 真っ暗な空間に、二つの光源があった。 

 それは一組のサーチライトで、照明で闇を切り取るようにして深海のスクリューで自らそれは太陽の恩恵から遠く離れ、機械的に前進することしな、光源で暗闇を裂くように

 互いの距離を確かめつつ、僅かに角度をつけながらゆっくりと前進していく。

 それは、いわば多くの脚部を有するカプセルのようなもの。、陸や空の動物には決して得られない


 重力が歪んだような、とても気分がいいとは言えない空間。それでも人間は、その奥底へと向かっていく。その先にある微かな輝きを目指して。


 彼らが向かっているのは、宇宙ではない。

 それよりも、地球に生きる生命体として馴染みのある場所。

 真っ暗でごく高圧の、内臓をぎゅっと絞めつけられるような未知の領域。

 ずばり、海底である。


「水中カメラ、三番、四番、起動します」

「了解。海水のサンプルは?」

「現在回収中。流れが早いですね」


 潜水艇の操舵手たちが淡々と作業を進めていく。しかし今回海底へと招かれたのは、操舵手でも、研究者でもない。

 日本の高校生たちだ。科学や文化などに造詣が深く、人類の未来に自分たちが必ず貢献するだろうと信じてやまない若者たち。

 今回の海底探索の主賓は彼らなのだ。数万人の候補者の中で条件をパスした四人だけだが。


「うっわ~! 皆見てよ! こんな海底にも魚がいるのね! ほら、華凛も見てみなよ!」

「あら、ご配慮感謝いたしますわ、舞香さん」


 女子二人につられるようにして、男子二人も海中の様子に目を凝らし始めた。


「マジですげえな……。あっ、あれ! 海底火山の噴出口だ! 見てんのか、海斗!」

「ああ、ちゃんと見てるよ。少なくとも君よりはね、泰一」


 泰一と呼ばれた少年――大原泰一は、馴れ馴れしく海斗――和泉海斗の肩に腕を回し、顎で潜水艇の外を示す。


 実際は、顎でしゃくってみせる必要は皆無だった。何故なら、この潜水艇のキャビンは全面が超硬質ガラスで覆われているからだ。


 二十一世紀ももうじき終わり、新たな世紀がやって来くる。

 それが希望に見えるような、しかしどこか不安として迫ってくるような。海斗はそんな気持ちだった。

 

 それはそうと。

 透明度が高く、十名近い人間を載せて、そしてなお深海の凄まじい水圧に耐えうるガラス。


「一昔前だったら、絶対あり得なかったよな、こんな技術」


 そう言う泰一に、海斗はぼんやりとした口調で、ああ、と相槌を打った。


「俺たち、こんな時代に生まれてラッキーだよな!」

「本当にそう思うかい?」

「もちろんだ! だって面白いじゃねえか! それに、俺たちは地球の最深部に行けるんだぜ! ま、お前も少しは愛想よくしろよ、海斗!」


 そう言って肩を叩いてから、泰一は海斗を解放した。

 

 あんまり人付き合いの上手い方じゃないんだけどな、と海斗は呟く。

 それから溜息をつき、強化ガラス越しに外を一瞥する。

 そこに広がる光景には、興味を引いてくれるものは――ないな。まあ、別にそれでも構わないのだろう。こんなところに観光目当てで来る人間などそうそういないだろうしな。


 政府が今回の経費を全額負担してくれる。そういう理由で、海斗はこの学習ツアー参加に挑戦した。

 少なくとも、このイベントに参加している限り、母は海斗の分の食事を作る手間を省くことができる。掃除も洗濯も、皿洗いも。もちろん、家計の負担も減る。

 今後の奨学金の補助も行われるというのだから、海斗にとって、挑戦しない、という選択肢はなかった。


 ピラミッドや未開発の森林、融解しつつある氷河など、様々な光景を見せつけられてきた今回のツアー。その、最後にして最大の目玉がこの海底探索だった。


《さあ、皆さん! もうじき着底します! 少し揺れますが、心配しないでくださいね!》


 やけにテンションの高い操縦士。高校生たちのテンションは爆上がりで、拳を突き上げたり、歓声を上げたりしている。


 のどかなもんだな、と思いつつ、海斗は女子二人の方に向き直った。

 ええと、確か、長身ポニーテールで快活な性格なのが紺野舞香。

 おしとやかでツインテールに髪を結んでいるのが北村華凛。


 どうやらこれから同伴する三人の名前と顔は完全に一致したようだ。

 別に、自分から接触しようとは思わない。話しかけられた時に、無礼のないようにするためのことを考えた結果だ。

 そう言っても、今日が最後の付き合いになるわけだが。

 

 父亡き後、女手一つで自分を育ててくれた母。そんな母に、負担をかけまい、かけまいと思っていたら、いつの間にか自分は海底にいた。

 海斗の感覚としては、そのくらいしかない。生活費のことを抜きにすれば、海斗はこのオファーを一蹴していたことだろう。


 一応認められたはいいものの、自分の何が、国家プロジェクトに見合うような特性として挙げられたのだろうか。全くもって見当がつかない。

 まあ、食いっぱぐれはなかったのだから、文句を言う筋合いではないが。


         ※


 同時刻、海斗たちの潜水艇より南東方向へ約三五〇〇キロ。

 その海上では、ちょうどよくある船が航行中だった。


 国産の最新型イージス駆逐艦『しらせ』。その艦橋には、一際身体を鍛え上げた人物が佇んでいた。腕を組み、雲一つない空を見つめながら。肌が浅黒いのは、真夏でもしっかり身体づくりを欠かさないでいるからだ。


「艦長、相模艦長!」

「ん。どうした?」

「熱中症予防です。こちらのスポーツドリンクをお召しになってください」

「ああ、すまない」


 気遣いを見せた副長からドリンクを受け取り、相模修司・三等海佐は再び前方に向き直った。

 この先で、未だかつてない『何か』が起こされる予定。詳細は、艦長である自分にすら公表されていない。


「まったく……」


 防衛省のどこの部署からの命令なのか。それすら確認できなかった。せめてそれだけでも確認しておくべきだったと思うと、苦い唾がじわり、と口内に湧き出てくる。

 それをさておいても、相模には最大級の任務が背負わされていた。それは、部下たちを無事に日本に帰せるか、ということ。この一点に尽きる。


「しかし艦長、自分は納得できません!」


 相模がドリンクで一服するタイミングを狙ったのか、副長が声をかけてきた。『命令に対する疑問』を顔一杯に広げながら。


「何故だ、副長?」

「我々に与えられた命令が、あまりにも要領を得ないからです! 近海では一般の海底探索法人が何らかの作業を行っているのですから、我々や一部の現場作業員にも詳細は公表されて然るべきでしょう!」


 顔を真っ赤にした副長に背を向け、相模はそばに置かれたものを手に取った。

 古い双眼鏡だ。

 目に押し当てるようにして、現場海域に異常がないかを確かめる。

 その姿勢のまま、相模は言った。


「我々が与えられた状況の中で、どれほど上手く立ち回ることができるのか……。きっとお偉方は、そのデータを欲しがっているんだ。だったら、他国の干渉を受けづらい、この海域で作業船の動きを察知して、不測の事態に備えるべきだというんだろう」


 理路整然と語る相模に、副長は『失礼いたしました!』と言って引っ込んだ。


「まだ何も、特別な事態は発生していないようだが……。これであのご老体は満足なのか?」


 相模は、監督役と自らを称してこの艦に乗り込んできた老人のことが気になった。

 いいや、雑念で冷静さを失うのは愚行だ。今は謎の現象の正体を暴かなければ。


 双眼鏡を握る掌に、じとっ、と新たな汗が感じられた。


         ※


 日本海溝最深部、八〇二〇メートル。

 海斗たちを乗せた潜水艇はゆったりと着底して、海底を這い回るように動き出した。

 あちこちに配されたハイパワーライトのお陰で、海底を三六〇度方向、くまなく見回すことができる。

 真後ろにはコンパクトなコンテナを搭載しているので、そこだけが死角ではあるが。


 きっと研究用のサンプルを採取したり、保管したりするための機材が入っているんだろうな。

 海斗はぼんやりとそう思った。


《目標深度到達、日本海溝の最深部だ。皆、見えるかい?》


 見えるかどうかと訊かれても困る。それが四人の一致した見解だった。

 先ほどまでは、深海魚の不可思議な生態を観察することができた。が、流石にこの深度ともなると、動植物の生存には適さないのではないか。


 その強烈な水圧やら、光の差さない過酷さやら、生物の存在を否定する根拠は山ほどある。

 だが、現象についての味方は一つだけではない。

 海溝、それも日本海溝最深部ともなれば、世界でも有数の海底火山帯だ。海底から噴出するガスには、この周辺の微生物を養うだけの物質がたっぷり含まれている。

 それを餌にする、さらに大きな生物(主に甲殻類)が寄ってくる、というわけだ。


 再び興味を喚起され、三人は再び強化ガラス製の内壁に顔を寄せる。そうでもないのは海斗だけ。

 今時実物を見なくとも、海洋ドキュメンタリー番組はいくらでも見られる。どうしても海底調査をしたいのであれば、別にバーチャルで構わない。

 

「何が楽しいんだか」

「ん? どうした、海斗?」

「ああ、ごめん。何でもないよ、泰一」


 相変わらず眉根に皺を寄せながら、海斗もまた、見るともなしに潜水艇のその向こう側へと視線を飛ばした。


 が。

 海斗の目が、海底の不思議な情景を捉える直前のこと。

 ぐわん、と嫌な振動が四人の高校生と二人の操縦士を襲った。


《おっと、今どうなってる?》

《分かりません! この船は、ど、どこかに吸い込まれていくような……》


 次の瞬間、六人の目には白光が刺さった。直視できないほどの光源が、弧の向こう側にあるのは確かなようだ。


 これには流石の海斗も、落ち着いてはいられなかった。

 この発光現象は何なんだ……?

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