第52話50 光は闇を包み、闇は光に焦がれる 6

「のう、レーゼルーシェ姫や?」

「……っ!」

 いつの間に背後に立たれたかわからなかった。

 しかしエニグマは猫なで声で、レーゼに語りかけた。視覚では認識できないがレーゼの目にはにんまりと笑った女の顔が見える。

 尖った爪を持つ手がレーゼの肩に置かれていた。

「先ほどの我が問いに対する答えはどうかの? 決して悪いようにはせぬゆえ」

「……」

 レーゼは前を向いたまま面頬を上げた。目の前には凍りついたナギの姿。

 ナギにはわかっていた。

 自分が少しでも動けば、レーゼの首が飛ぶことを。

 この至近距離で最大限の魔力を放たれたとしたら、いくら鎧の守護があったとしても、おそらく守りきれない。

 そしてレーゼにもわかった。

 自分が拒絶すれば、ナギの命がないことを。

「我とて別に、大陸じゅうの人間全て滅ぼすつもりはない。そりゃ、いくつかの王家や街は滅ぼしたが、いずれも富にあぐらをかいて、民を苦しめていたものばかりじゃ。私の血を引くそなたと共になら、穏やかに生きていけると思う」

「双子のお姉さんは見捨てたのに?」

「ゾルーディアには、もうほとんど魔力は残っていなかった。なのに我をいさめようと、無駄な言葉を吐き続けてな。鬱陶しくなったのじゃ」

「……」

「しかし、そなたは違う。そなたの感覚の鋭敏さや知覚共有能力は、久々にゴールディフロウ国に出現した能力。魔女の素質だからのう」

「私の能力など大したことはないわ。全てこの鎧のおかげよ」

 レーゼは両手を広げて白藍の鎧を示した。

「……確かにその鎧からは奇妙な気配がする……しかし、誰でもが身につけられるものでもなさそうじゃ」

「……」

「それでは、レーゼルーシェ姫。応というてくれぬかえ? ほらあの若い戦士も心配そうじゃ」

 エニグマの爪がきつくレーゼの肩に食い込んだ。

「……あのね」

 レーゼが小さく呟く。それに釣られてエニグマは顔を近づけた。

「うむ」

「嫌に決まっているでしょう! 意地悪なマリエラ姫!」

 突然の大声。ナギでさえ聞いたことがないほどの。エニグマが目を見張る。

「な! なんだと!? 小娘がつけ上がりよって!」

 漆黒の瞳を持つのまなじりが、くわっと吊り上がる。

「そうか! よくぞ申した、姫よ。ならば、今からそなたの目の前で、あの若い戦士の手足を一本ずついでやろうほどに、見ているがいい!」

「ナギ! 逃げて!」「レーゼ!」

 二人の声が重なった時、レーゼの鎧から白藍の光が輝き出した。

「ああ!」

 それは緩やかに人型を取ってレーゼに重なる。

『そこまでだよ。姉上、本当はもう、限界なんだろう?』

「な……なんだ!? そなたは誰じゃ!?」

『忘れたかい? 僕だよ、アンジュレアルト。アンジュレアルト・ビャクラン・ゴールディフロウ。マリエラ、あなたの三つ下の弟だ』

「弟だと!? 我には弟などおらぬ!」

『そうだね、君は自分の記憶を魔力で封じてしまったから。でも、マリエラとサルビラが十歳の時まで、僕はあなた達の弟だった。母は違ったけれど』

「し、知らぬ! 我は知らぬ! 去れ! そなたの光は目障りだ!」

 エニグマの顔は、もうぼやけてはいなかった。それはきつい闇の瞳を持つ、三十代ぐらいの女の顔である。

『姉様、あなた達は僕を愛してくれた。僕もあなた達を愛した。夏の日に三人で噴水に浸かって怒られたよね?』

「噴水だと? 噴水など知らぬ! お前はもう黙れ! 鎧の化け物め! 黙らぬなら我が焼き尽くしてやる!」

 エニグマは手のひらを擦り合わせて広げる。そこから大きな炎が現れた。

「レーゼ!」

 ナギが絶叫し、レーゼの盾になろうと飛び込んでくる。

『大丈夫だよ、ナギ。私はこの瞬間のために力を溜めておいたから』

 その言葉通り、エニグマの炎はアンジュレアルトにぶつかると、小さくしぼんで燃え尽きてしまう。

『さぁ、僕の目を見て、マリエラ姉様』

「知らぬ! そんな名も、お前も知らぬ!」

『かわいそうに。体の弱かった僕を助けるために、姉様たちは魔女になったんだね。その結果、髪や瞳の色が、美しい緋色から黒に変化してしまった』

「黙れ! 頼むから黙ってくれ!」

『私が昏睡から覚めた時、すでに姉様たちは王宮にいなかった。僕も色相が変わって、散々な目にあったけど、そんな奴らは蹴散らかしたよ。それで頑張って王になった』

「お……王?」

『そう。姉様たちの血をもらって、僕にも能力が顕現けんげんした。僕はその力を使って、王国に富だけでなく、技術をもたらした。姉さま達のおかげで寿命を全うできたんだよ』

「黙れ! 黙りや! この……」

 エニグマの闇の瞳がぐるりと裏返る。


『マリエラ姉さま! 遊ぼうよ! サルビラ姉さまも呼んでこようよ』

『姉さま達、最近勉強ばっかりしてて、つまんないよ。遠乗りに行こう! 熱ならもう下がった!』

『姉さま、侍女の飼ってた猫達が次々に死んじゃったって。どうしたんだろう?』

『御者の子どもがいなくなったんだ! 大切な僕の友達だったのに』

『姉さま……苦しい。僕は病気みたいだ……姉さま、助けて……』

『マリエラ姉さま! サルビラ姉さま! 大好き、大好きだよ。僕が死んでも悲しまないで……ぼく、幸せだったよ』


 ああ……我も……私も、サルビラも、お前が大好きだった……アンジュ。

 愛しい弟……お前なら私たちを愛さなかった父母よりも、立派な王となるだろうに。

 私たち姉妹には力がみなぎっている。色相が変わったとて、かまわない。決してお前を死なせたりせぬ。

 お前さえ長らえてくれるなら、私たちの命など喜んで悪魔にくれてやる……。

 さぁ、私たちの血を受けて……!


「あ、アンジュレアルト。生きて……死なないで!」

 レーゼとナギの目の前で、エニグマの声と表情が変化していく。

『ああ、そうだよ、マリエラ。僕は頑張った。いい王様にもなれたよ。そして、死ぬ前に魂の一部をこの鎧に封じ込めた。もう一度姉さまに会うために』

「私に、会う、ため?」

『そう。だからね、もういいんだ。こうして会えたから』

「……」

 アンジュレアルトの姿はどんどん若返り、幼い王子の姿となった。

「おお……おお! アンジュ。私たちの愛しいアンジュ!」

『そう。姉さまたちのアンジュだよ。だからね、一緒に行こう』

「行く? どこへ?」

『サルビラ姉さまのところ』

「サルビラの?」

『うん! もう一度、噴水のところで一緒に遊ぼう! 今度は僕の方が高く水を蹴るよ!』

「そうか……そうね……わかった。サルビラが待ってるわね。じゃあ一緒に行こうか……アンジュ」

 エニグマは両手を広げ、その胸の中にアンジュレアルト王子が飛び込む。

『姉さま!』

「大好きよ、アンジュ!」

 二人は抱きしめ合いながらゆっくりと傾き、山の上から落ちていく。

 微笑む女から光が散る。


 厄災の魔女、エニグマはこうして滅びたのだった。


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