第43話41 ひとときの休息 5

 レーゼはふらふらと階段を上っていった。

 湯に浸かり過ぎ、その上カーネリアの迫力に押されて、体力をすっかり使い果たしてまったのだ。

 髪もろくに乾かせていないから、背中はぐっしょりと濡れている。

 部屋は三階だが、二階へ続く階段でついに座り込んでしまった。


『取らないで』

 って、あの人は言ってた。

 よくわからないけど、私とナギが一緒にいてはダメなんだろうか?


 考えなくちゃと思うのに、頭がぐるぐる回って部屋にもたどり着けない。


「レーゼ様!」

 気がつくとクチバが除き込んでいた。

「どうなさいました!」

「あ、クチバ……大丈夫よ」

「そんな顔色ではありませんな」

 浮遊感がするのは抱き上げられたのだろう。階段を登るリズムを感じる。

「レーゼ!」

 部屋から飛び出してきたのはナギだ。

「どうした! 何があった!?」

 ナギは素早くレーゼの顔を確かめた。

「魔女の攻撃か!?」

「違う。私が宿舎の見張りから帰ってきたら、階段にうずくまっておられた」

「俺が運ぶ」

 ナギは素早くレーゼをクチバから取り戻す。

「すっかり冷たくなっているじゃないか!」

「ともかく部屋へ!」

「ああ」

 レーゼはすぐさま部屋へと運ばれ、乾いた布で濡れた髪を包み込まれた。

「服も湿っています。これ以上体が冷える前に着替えを」

「ああ。だが……」

 レーゼは女の子だ、男の自分が服を脱がしていいわけがないとナギは焦った。

「大丈夫。少し長くお湯に浸かり過ぎただけだから……」

「でも着替えないと、布団まで湿ってしまう」

「じゃあ、ナギが手伝って」

「え! それはできない」

「じゃあこのままで」

 レーゼは気だるげに答えた。自分が何を言っているのか、よくわかっていないのだろう。

「わ、わかった! 手伝う。着替えはどこにある?」

「横の戸棚に……」

「これですね」

 出してくれたのはクチバだ。

「俺は出ています。ナギ、頼んだぞ。信じているからな」

 そう言い残して無情にクチバは出ていく

「うう……じゃあ俺は目をつむっているから!」

「なんで?」

「いいから、服を脱がすぞ!」

 それからの数分間はナギにとって、今までのどの戦いで味わった経験より、緊張と集中を必要とするものとなった。

 ぐったりとしているレーゼの服を脱がし、手探りでクチバがそばに置いていった服を着せる。

 夏場なので替えの服がゆったりしていて、着せやすかったのがせめてもの救いだが、それでも時々柔らかい素肌に触れてしまうのはどうしようもなかった。

「最後に、この紐を結べばいいんだな」

 ナギは固く目を瞑ったまま、最後の紐をよじり合わせる。多少難儀したが、なんとか蝶々結びが出来上がり、着せ替えは終了した。

「レーゼ。もういいな、目を開けるぞ」

 レーゼが何も言わないので、ナギは恐る恐る目を開いた。

 彼がみたのは──。

 真っ白いシーツに広がる湿った髪、ボタンを一つ掛け違えた寝巻きと、ペンダントを巻き込んでしまった胸元の蝶々結び、そして悲しそうなレーゼの顔だった。

「レーゼ? 辛いか? 寒いのか?」

「ううん。私ってやっぱり見るのも嫌なほど醜いの?」

「……っ!」

「ごめんなさい。嫌なことさせて」

「ち、違う! 俺が目を閉じてたのはレーゼが女の子だからだ! 男は女の子の裸を見ちゃいけないんだ! 昔ルビアも言ってたろ!」

「そうだっけ……?」

「そうだよ。女の子はむやみに素肌を見せたらダメだ。レーゼみたいに綺麗な子は絶対に」

「……」

「まだしんどいか?」

「うん、ちょっと目が回るの。でも、喉乾いた。お水ちょうだい」

「水? あこれか。待ってろ、枕を重ねるから」

 ナギはそう言って予備の枕をレーゼに頭の下に重ねる。上体が少し持ち上がったが、レーゼはまだ辛そうにしていた。

「すぐに飲ませてやる」

 そう言ってナギは口に水を含むと、ゆっくりとレーゼに水を飲ませる。

 レーゼの小さな喉が、ナギの含んだ水を飲み下すたびにこくんと動き、ナギを困惑させた。


 だめだ。

 こんな気持ちになってはいけない。

 汚い気持ちでレーゼを見てはだめだ。

 もうすぐにエニグマとの決戦が待ち構えているというのに。


「レーゼ?」

 気がつくとレーゼは眠っていた。微かに微笑んでいる。

 ナギはくれた口元を拭いてやり、まだ少し湿った額に唇を落とすと、傍の長椅子に横になった。

 彼の長身にやや寝心地が悪いが、レーゼのことが心配だったのだ。何事もなければ朝早く自室に戻ればいいだろう。

「おやすみ、レーゼ」

 ──その時。

『若者よ』

「……っ!」

 声はビャクランのもので、レーゼの胸元で守り石が小さく光る。

「あんたか。まさか一緒に風呂に入っていたんじゃないだろうな」

『もちろん、入ったとも。私は彼女の守り人だからな。あ、待て待て。殺気はよしてくれ』

 ビャクランは慌てたような声になったが、ナギの殺気は収まらない。ただ、実体がないのでどうしようもないだけだ。まさかレーゼの胸にある石に触れるわけにもいかない。

「……」

『心配せずとも良い。私はちゃんと眠っていた。やれやれ若者よ』

 守り石が淡く光り始める。

 光は人の像を結んでナギの前に立った。彼よりもまだ背が高く、古めかしい服装の男だ。

「お前がビャクラン?」

『そうだ。この姿になるのは久しぶりだ。結構疲れるから、滅多にしないんだけど』

「……ならなんで出てきた?」

『若者とは、少し話をしたほうがいいと思ったからね。孫娘と言っていいレーゼに、邪な気持ちは起きないよ。落ち着いたかい?』

 ビャクランは透けるような光の姿で微笑んだ。

「あんたはゴールディフロウの王族だったんだろう?」

『そうだ。滅んだ王──レーゼの祖父のことだが、それより五代くらい前になるかな? その辺りは眠っていたので曖昧なんだよ』

「力と能力を有した王だと聞いたが、その割に若いな」

 ナギを若者と呼ぶ割にはビャクランも、さほど歳の変わらない青年の姿をしている。

『まぁ、一番美しかった頃の姿で現れたいのは人情だろう』

「……」

 ナギは嫌そうな顔つきになっている。

『あのな若者、私はそなたには少しくらい感謝されてもいいんだぞ。彼女の呪いの進行を遅らせたのも、能力を増長させたのも私なのだからな!』

「それはまぁ……」

『それからな。風呂で、良い体付きをした赤毛の娘が、レーゼに絡んでおったぞ』

「……眠っていたんじゃなかったのか?」

『ちょっとだけ目を覚ましたんだ。あ、こら! 剣に手をかけるな! 私はレーゼの守り人だ、危険な気配を察知するのは当然だろう!?』

 ナギは無言で手を下ろす。

「……で、カーネリア、彼女が何を?」

『鈍感な男だな。つまり、そなたを挟んで女同士の火花のやりとりよ』

「俺を挟んで火花のやりとり……?」

『あ〜、モテる男が無知なのは罪だな。つまり、あの赤毛の娘は、そなたに横恋慕しておるのだ。だからレーゼに喧嘩を売ったと』

「俺が守るのはレーゼだけだ。カーネリアは強いから」

『……』

 ビャクランは半目になってナギを見ていたが、やがて首を振った。

『まぁ、これ以上私が口を挟むのも野暮というものだろう。それに長くこの姿をさらすわけにもいかんからな。とにかく、レーゼを大切にしてくれ。この娘は我が王家の良心のようなものだ』

「わかっている」

『それからエニグマだが、彼女は東北を拠点としているが、新たに島を作ってそこに立てこもっている』

「島だと!?」

『そうだ。そなた達のことを脅威と感じ、陸から攻め込まれないように、魔力で島を作った。そこには塔のような山がそびえ、波も荒く、近づくのは容易ではない』

「……」

『しかし一方で、これは彼女が脅威を感じている証拠でもある。さて、私が教えられるのはここまでだ。戦いに備えてまた眠らなければならない。レーゼを頼んだぞ』

 そう言ってビャクランの姿はかき消えた。後には眠るレーゼと、青い宝石が光るのみだった。


「お前、レーゼ様に何か言っただろう」

 クチバは風呂から上がったカーネリアを見つけて問いかけた。

「別に? お風呂で少し女の子同士の話をしていただけよ、おっさん」

「ナギは今レーゼの部屋にいるぞ」

 おっさんと呼ばれたことは無視して、クチバは無情に告げる。

「えっ!」

 カーネリアの顔色がさっと変わる。表情の豊かな娘だと、クチバは思った。

「まぁ、釘を刺しておいたし、ナギはナギだから、心配するようなことは決してない」

「……」

「なぁ、カーネリア。もし誰かに自分を認めさせたいなら、己の価値は己で示すことだ」

「……」

「お前は若くて美しい。そして戦士としても優秀だ。およそ女の持つ魅力は全て持っている。そしてそれはレーゼ様も同じ。あの方はこんな俺でも救ってくれた」

「ふ、ふん! 誰にも情けを下さる女神様ってわけ? 男ってちょろいわね!」

「他人をおとしめることは、自分をも貶める。かつて俺がそうだったように。だがレーゼ様を傷つけることは許さない。あの方は、お前が思うほど弱くはないぞ」

「……わかってるわよ」

「もう一度行っておく。お前の価値はお前でしめせ。お前を慕う人は大勢いるぞ、カーネリア。俺も、お前には大いに期待している」

 クチバはそう言ってカーネリアの前から去った。

 暗い廊下には、唇を噛み締める赤毛の娘が残った。


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