第9話 8 愛しき日々 冬 1

 最初の夜が明けた時、九十六号は塔から去ろうとした。

「俺は行く。助けてくれたことに感謝する」

「……」

「食事も美味しかった。生きていて一番よく眠れた」

「行かないで」

 レーゼが少年の袖の端を握って、小さくつぶやく。

「レーゼ様。人には人の人生があるのですよ」

 ルビアがたしなめる。

「行かないで。ここにいて」

「だめなんだ」

 九十六号は、もし<シグル>が自分を探しているのなら、ここにはいられないと考えたのだ。ルビアは黙って九十六号の持ち物全てと、弁当の入った袋を渡した。

「山に向かってまっすぐ行くんだよ。絶対に振り返らないように」

「ありがとう」

 九十六号はそう言って山に向かって歩き出す。

 昨夜レーゼは、この塔を出ていけば、彼女のことは忘れてしまうと言った。そのことにひどく心が乱れている。


 忘れたくない。


 少年は自分の中に、こんな気持ちがあると知らなかった。

 本当は行きたくないとさえ思いはじめている。


 けど、俺はシグルだ。あの組織からは到底逃げ切れるものではない。


 今まで何度も辛さに耐えかねて逃げ出した少年たちがいた。その結果は見るも無残なものだったのだ。

 しかし、九十六号の密かなる願いは、意外にも早く果たされることとなった。


「……これはどういうことだ?」

 半日ほど歩くと、出ていった塔の先が森の奥に見えた。最初は別の塔かと思ったが、見間違えようのない前庭に出てしまった。


 おかしい。

 方向は間違えなかったはずだ。山の方へと歩いていったのだから。


 九十六号は再び塔に背を向けて歩き出す。今度は慎重に、気を張り巡らせて。

 しかし、いくら塔を背に前に歩いていても、視界から見えなくなった途端、感覚が微妙に狂ってしまい、気がつくと塔へと戻ってしまっている。

「一体これは……? レーゼは昔の結界と言っていたが、一度入ったら出ることはできないのか?」

 二日間で五回試し、九十六号はついにあきらめた。

 ためらいながらも、少年は夜明けの塔の扉を叩く。

 ルビアもそれほど驚かずに九十六号を迎え入れてくれた。レーゼは、ルビアが止めなければ、嬉しさのあまり少年に抱きつく寸前だった。

「これはどういうことなんだ?」

 ここは理解できないことだらけだ。しかし、その理由を、レーゼもルビアも説明できなかった。

「わからないの」

「なんだって!?」

ここに囲い込まれたってことなのかしら?」

 レーゼが考えこむ。

「俺も?」

「私一人なら出られるんだよ」

 ルビアが難しい顔で説明する。

 彼女が生活に必要なものを買いに、人里に行くときは問題なく出られるのだが、レーゼと一緒だとできなかったのだ。

 もうずっとそうだとルビアは言う。 

「言ったでしょう? この塔は『忘却の塔』。大昔、私の先祖が建てて、たくさんの人を幽閉したり処刑したところ。だから忌まわしい場所──忌み地だって、ひいひいお爺さん? が結界を張って、たどり着ける人や、出ていける人を制限したのよ」

「レーゼの先祖が張った結界だったら、レーゼが出られないのはわかるけど、なんで俺まで」


 そんな結界があるだろうか?

 もしかしたら俺が罪人つみびとだから、出られないようになっている?


「わからない」

 レーゼも首を傾げている。

「それから、森の中を進んでいると、妙な印があった。レーゼはわかるか? 木の幹や岩に、鳥や獣のような紋様もんようみたいのが書いてあったんだけど」

「それって、こんなの?」

 レーゼはルビアから木炭をもらって、板に簡単な鳥や動物の模様を描いた。

「これだ。なんで知ってる?」

「だって私が描いたんだもの」

「レーゼが描いた!?」

「うん。以前はもっと結界がきつくて範囲も狭かったの。でも、私だって頑張って、あちこちつついて、ゆるられるところを増やしていったのよ。ここから出ることをあきらめたくなくて」

「俺が見たのは、結界の限界の印か?」

「そう。今もあちこち探索して少しずつ広げてるのよ。そして、あなたが来てから結界が更に緩んでいるような気がする。だからもしかすると、いつか出られるかもしれない」

 顔の半分だけしか見えないのに、九十六号にはレーゼが、きらきらと目を輝かせているように思えた。

「レーゼは目が悪いのに、どうしてそんなことができるんだ?」

「言ってもわからないと思う。でもなんだかわかるの」

「もう少し詳しく説明できるか?」

「うーん。破れそうな布の感触? それとも蜘蛛の巣の隙間かなぁ。そこを気持ちで突くの」

「……」

 説明してもらっても、やっぱりわからないと九十六号は思った。

「つまり、俺はここから出ていけないのか」

「ごめんね。けど、私は嬉しいわ。だってずっとルビアと二人だけだったんだもの。寂しくはないけど、退屈な時もあったから」

 レーゼは朗らかに言った。

 ただ、その声は、少女とは思えないほどにしゃがれている。元はどんな声だったのだろうか、と九十六号は思った。

「私あなたのこと、知ってたのよ」

「え?」

「だって誰かが来るって、突然わかったんだもの」

「俺は自分からここに来たのじゃないぞ」

 厳しい最終選別を成し遂げ、ほっとした時にギセラに襲われたのだ。

「うん。でも、わかったの。私、あの日は特に気持ちが澄み切って、いつもより遠くまで感覚が伸びてた。信じて。何かが来るってすぐにわかったの」

「レーゼは不思議だな。俺はレーゼのような人間を見たことがない」

「私もあなたのような男の子は知らないわ」

「しかし、厄介な結界だな。レーゼの家は魔法使いの一族なのか?」

 魔法というものに近づいてはならないというのが<シグル>のおきてだ。昔は良い魔法使いもいたというが、今では魔法は魔女とほとんど同義なのだ。そして魔女とは、人智の追い付かない邪悪な存在だった。

「さぁ……でも、私の家には魔力のある人が時々生まれたんだって。お母さまが言ってた」

「家……」

 ルビアが見ているので、レーゼは慎重に言葉を選んでいるらしかった。

「先祖には強い魔法が使える人もいて、それは良い魔法だったんだけど。でも、そんな人はもう、長い間生まれなかった。私は久しぶりに少しだけ能力をもって生まれて、でもあんまり役に立たなくて、髪も目も変な色だったから……嫌われて、家族と離された」

「……」

 これではらちがあかない。と、九十六号は思った。

 幼い頃から極端に人との接触が少なかったレーゼは、語彙が豊富でない。

 昔読んだ本と、ルビアから受ける教育からしか学ぶ要素がないのだ。必然的に説明能力も貧弱だ。

「さらわれたのか?」

「さらわれてないけど、小さい頃から離宮でルビアと暮らしてた。でもお母さまが時々来くれて、お母さまは優しくしてくれたの。あとジュリアもたまに来たけど。お爺さまとお父さまは、二度くらいしか来なかった」

「ジュリアって?」

「妹」

 ルビアはやれやれという風に首をすくめているが、九十六号にはレーゼの話は謎だらけだ。しかし引っかかる言葉もある。


 離宮、お母さま、お父さま……?


「レーゼの家って、もしかしてゴールディフロウの貴族なのか?」

 ゴールディフロウ王国。

 それは数年前まで、アルトア大陸で最も豊かだと言われた国だ。

 王国はこの塔より山を越えた南にあり、山から流れてくる採れる砂金で、大いに栄えた。しかし今では魔女によって滅ぼされ、砂金の採れた川も干上がっている。

「……うん。そんな感じ」

 レーゼは少し口ごもった。

「なら、レーゼは貴族のお姫様なのか?」

「姫って、こんなに醜くはないわよ。私はただのレーゼだから」

 九十六号は混乱の極みだった。

 いくらシグルの彼でも、姫という言葉くらいは知っている。綺麗な服を着て、わがままに贅沢に暮らしている女の子のことを言うのだろう。

「ゴールディフロウ王国は七年くらい前に滅んだって聞いた。この山の向こうに大きな廃墟がある。街と城の」

 その廃墟はよく<シグル>の鍛錬の場として使われていたから、九十六号はよく知っている。元は賑やかだったのだろう広い通りや、壮麗な王宮跡があり、修行の場としては珍しく彼は気に入っていたのだ。

「魔女に滅ぼされたのだったか?」

「そう。家族も兵士も民も大勢死んだ」

「人は綺麗で、豊かな国だと聞いていたけど」

「そうよ。みんな綺麗で、多くの人が金髪と金の瞳を持ってた。でも私だけが、みにくくて惨めな境遇だったんで、魔女に見逃されたの。これって、幸運なのかしら?」

「……」

 その言葉は皮肉にも取れるが、レーゼの声音には悪意は感じられない。ただ事実を淡々と述べているだけだ。

 彼女の体の中で唯一赤い唇が、ほんのり笑っている。

 不意に九十六号は、隠されたレーゼの瞳を見たいと思った。



   ***



組織としてのシグルは<シグル>と表記しています。構成員を表すときはシグルです。

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